「仕事と聞きましたが」
「まあ座ってくれ」
その日藍地は制服ではなかった。グレイの作業服を着ていた。ただ、腕章だけが赤かった。東風は、それまで持っていた赤の長官に対するイメージが何となく、ずれていくのを感じる。
「実は、現在居るレプリカを、急にチューニングしなおさなくてはならなくなったんだ」
にこやかな表情で、赤の長官は東風に説明する。
「はあ」
「そこで君の力が借りたい。これはチューナーの君への依頼だ。俺がしなくてはならないんだが、何せこれから大仕事が待っていてね、時間がないんだ」
そこで何故時間がないのか、と聞く程東風は馬鹿ではなかった。チューニングの仕事で呼ばれたのだ。事情は必要ではない。自分はチューニングのプロであり、それ以上でもそれ以下でもない。
「判りました。で、具体的にはどのように?」
「君が朱夏にした程度のことを、別のパターンでやってくれればいい。朱夏ほどでなくてもいい。第二回路を一度消去して、新しいパターンを組み込み、外見を多少変える……その程度だ」
「期間は」
「三ヶ月。それが限度だ。何せ十体…… いや九体ある」
「……それはなかなか。でも大仕事ですね。判りました。作業自体は何処で行えばいいのですか?」
「この建物の、このフロアとその下のフロアは俺の管轄だ。好きに使ってくれ。ただ、その間泊まり込みになるから、そのつもりで」
「判りました。では一度帰ってもいいですかね?」
「ん?」
「無粋なこと聞かないで下さい。ご存知かも知れませんが、俺、新婚さんなんですよ?」
ああ、と藍地は笑った。おや、と東風は思う。いい笑顔じゃないか。
「いいだろう。じゃあ明後日の朝十時までに必要なもの持ってきてくれ。来る時にはこれを提示してくれればいい」
藍地は入門証を東風に手渡す。金属プレートのその表には堅苦しく「入門証」とあったが、ひっくり返すとB・P・Sとも書かれていた。東風はそれを見ると、訝しげな顔になって訊ねる。
「何ですか長官? このBPSって」
「……洒落だよ」
藍地は笑って答えない。バックステージ・パスのことなんて、絶対に答えない。はあ、と東風は首をかしげながら部屋を出た。
*
東風に依頼した三ヶ月という期限は、BBのツアー日程の最終日までの日数だった。
藍地は東風と一緒に工房(と藍地は呼んでいた)に閉じ込もる日々が続き、実際の「外」とのやりとりと実務は芳紫と朱明が行っていた。
仕方ないな、と芳紫は苦笑し、朱明の尻をひっぱたくことにした。まあはたかれた方も、文句は言えない。
外との連絡が取れるのは満月の夜だけだった。それも「橋」付近で互いの要求を交換するだけである。
三ヶ月のうちに、そういった日がとれるのは、二日だけである。しかも他の「取引」もまたいつもと同じように行わなくてはならない。そして最後の満月の日には、人と荷物を搬入しなくてはならない。その満月の三日後がライヴである。
その「会談日」二日のために、彼らはプランを煮つめなくてはならなかった。会場のこと、作業者のこと……
「まあ向こうには朱夏がいるから、こっちの事情は伝わってるとは思うよ」
芳紫は収集を始めた資料をにらんで言う。
「会場に関してはな。だけどこっちのスタッフ事情まではあれも把握してはいないだろうし」
朱明はやや難しい顔にならざるを得ない。
正直言って、藍地が閉じこもっているのはありがたかった。確かに彼はすぐにまた、平気な顔はしていたが、それでもお互いに顔を合わせると気まずいのは仕方がない。
「……消去法だな。どうしてもライヴで切れないスタッフ人数を考えてみよっか」
「まあ職人自体は、すごく上手くやればこっちのスタッフでいいよな。職人じゃなくて監督する方の奴と、あとはバンドメンバーと音響……」
「朱夏も入れてもらわなきゃ」
「あれは人数には入れなくてもいいだろ」
「あ、そうか」
朱夏は「人間」ではないから、「適数」とは関係ない。と、そこへ、コンコン、とノックの音がおざなりに鳴る。
「詳しい情報、欲しくない?」
「HAL?」
朱明はひどく久しぶりに彼の姿を見るような気がした。
「向こうが考えてるライヴのプラン。ここのライヴに合わせて他の地方も同じようなメニューにするらしいって。今回はややこしいステージセットは無し。もちろんライトだの何だのはあるけれど、基本的には楽器と機材のみ」
「おいHAL……」
朱明はお前何を言い出すんだ、と言いかける。それに構わず彼は続ける。
「バンド・メンバーは、BBの二人と、サポートギタリストとドラマー、それにキーボード。あとは舞台監督とPAオペレーターが最低人数の三人。メイン、モニター、ステージマン、後は照明のチーフ・オペレーターとセンター・オペレーターとステージマン……それに楽器テクニシャンとローディは必要だろうね。それにトランス(輸送)と」
ライヴ――― ホールクラスのコンサートには、現地調達できる部分とできない部分がある。
舞台監督は、その名の通りコンサート現場の監督である。
PAは音響関係。メインはPAのリーダー、モニターはステージ上でミュージシャンが聞く音をオペレートする。それにアシスタントのステージマン。
照明は照明で、それぞれ役どころがある。全体を統括するチーフと、ピンスポットを操作するセンター――― それに現地調達のスタッフもたくさん必要になる。
楽器にしたところで、プロとなればそれぞれのくせがある。専門かつ持ち主を良く知っている者でないとできない部分もある。それにライヴの突差のトラブルに対処できないと困る。
「そうなると、最低二十人は要るな。そこにマネージャーだの会社スタッフももついてくるんだろ?」
内心の動揺はともかく、朱明は聞くべきところは聞かなくてはならない、とHALに問いかける。
「……どうかな。とにかく減らす方向にはあるって言ってたけど」
「誰が?」
芳紫は実にあっさりと聞く。それに対する答もまたあっさりしたものだった。
「当事者が」
「……判った。じゃそういうことにしよう。朱明、こっちのイヴェンターに俺話つけよっか。そこから都市内の音響会社とステージ制作会社、ライティング会社に話つけてもらう」
「……ああ」
多少気になる発言ではあるが、それをいちいち問いただしている暇は朱明にもなかった。
何せ自分達は日常業務の他にこの仕事を増やし、しかも藍地は工房に篭もっていて人手が足りない。顔を合わせにくいのは事実だが、人手が足りないのもまた事実だから。
とはいえ、足りないのはトップだけだから、些細なことは下に任せればいいのだが。