ノイズが耳をかすめる。
「え?」
布由は問い返す。受話器の受信音量はフル。
何か嫌な感じがした。
「お前、別に声ひそめていない?」
『俺は普通だよ。いつもお前声がでかいでかいって言うじゃないか。アレと同じ……』
「嘘じゃない?」
『お前に嘘言ってど…… すん…… よ』
耳に切りつけるように、ノイズが入る。驚いて一瞬耳を離す。何処からか、沢山の人々が狭い部屋でがなりあっているような声が聞こえてくる。
「おいHAL! もしもしっ!」
布由は受話器に怒鳴りつける。
『も………… 切る。……れ ……じょう通じない…… だ…… ら絶…… 来……』
これ以上通じない。だから絶対来て。
そう言いたかったのだろう。そこで電話は切れた。
何だ? こりゃ…………
布由は酔いがいっぺんで醒めるのが判った。
背筋がつ、と冷えていった。
*
「そういうことがあったの?」
安岐は訊ねた。あったの、と重力の無い声でHALは答えた。
「少し時間を戻そうか」
HALは言った。途端に光が周囲に満ちる。安岐はまぶしくて一瞬目を伏せた。
真昼だった。
太陽が中天にあり、緑の木々を通して光がきらきらと揺れている。
まだ観客は集まっていない。本当にわずかな数の少女達が、会場に入ってくるメンバーに手を振るために待っているだけだった。
不意にHALは腕を真っ直ぐ伸ばす。
「ほら、車が今あそこから入って行ったろ? あそこから奴が来るんだ」
「奴?」
「布由。俺が呼んだの」
「あんたが?」
「うん。奴のBBは北周りでずっとツアーをしていて、ちょうどこの日はオフだった。だから来ないか、と誘ったんだ。奴の…… というかBBの故郷だからね。この都市は」
ああなるほど、と安岐は納得する。
「で、BBはこの都市に好かれていた」
「うん」
「都市自体が、彼の声を抱きしめていた。抱きしめて、上手く放ってやっていた。今になってみれば俺にもそれがどういう感じか、よく判る」
「あんたが都市だから」
「そお。今なら、俺にだってできるよ」
「やってあげたくなるような声ってあるの?」
「あいにく」
彼はくすくすと笑った。
「まあだから、布由の声は、そうだった訳。で、逆に俺の声は、都市に嫌われていた…… 今になってみれば、何となく判るんだけど」
「何が?」
「俺の声が『彼女』にとってひどく耳障りだった理由」
そんな都市の気持ちまで自分には判らない、と安岐は思う。耳障りと言ったところで都市の何処に耳があるのだろう?と思ってしまうのが関の山である。
「『彼女』はね、俺の中のどろどろした部分とひどく似てたんだ。だから同族嫌悪。自分が嫌いなくらいに相手が嫌い」
安岐はそれを聞いてやや驚く。
「どろどろした部分?あんまりHALさん、あるようには見えないけど、あると言うんだからあるんだろうな? あるの?」
「あるの」
彼は簡潔に答える。
「少なくとも俺はそう思ったよ。もし俺がそう見えないとすれば、それは俺自身見たくないから、まわりにもそう見せないようにしていただけのこと」
「そうなの?」
「そうなの。俺はそういう自分は嫌いだったから。あの頃、奴の声が好きで、無いものが羨ましくて、ねたましくて、どーしようもなくて…… そのないものねだり、を持ってる相手へいつの間にかすり替えてしまった」
「すり替えてしまった? でもあんたはFEWのことがとても好きだったんじゃないの?」
「好きだったよ。確かに」
乾いた声がそう言った。そこには迷いもためらいもない。
「だけど過去形」
「そうなんだ」
聞く安岐にもそれ以上は無い。
「すり替えだろうが勘違いだろうが、好きだったのは本当。でもさ……」
彼は空中に大きく輪を描く。輪の中に次第にくっきりと映像が浮かび上がる。
「この時間の、この公会堂の中だよ」
*
布由はドアをノックする。
ドアにはバンド名とメンバー名が書かれている。どうぞ、と聞き慣れた声よりさらに低い声がした。
「こんちわ……」
先客あり。全身黒のドラマーが、その部屋の主の以外に入り込んでいた。よお、と朱明はやや寝不足の目をしながら煙草を持った手を上げる。
「おいHAL、起きろよ……」
友人は、ソファで眠り込んでいた。朱明はそれをゆさゆさと揺り起こす。ん、ととろんとした声が布由の耳に届く。
「ほら起きろHAL、客だぜ」
「きゃく……」
彫りの深い、ぱっちりとした二重の目は、眠い時には半分閉じて影を落とし、本当に眠そうな目になる。「眠そうな目とはどういう目か」と問われれば、今そのこれがそうだ、と提示したくなるくらいな目でHALは「客」を確かめる。
「……ああFEW、来たの」
「お前が来いと言うから来たんだろうに」
それじゃ後で、と朱明は言うと、ひらひらと手を振って楽屋から出ていった。布由はしばらくその出ていった扉を眺めていたが、やがて自分を呼んだ当の本人の方へ向き直った。
「で」
一歩踏み出す。
「一体お前、何を怖がっているっていうんだ」
「俺が? 何を」
目がぱっちりと開く。布由はぎくり、とする。
何か、変だ。
昨夜の会話が全く無かったかのように、彼の表情には、嘘が無い。
だったら自分が昨夜電話したというのは夢だったんだろうか? 布由は首を横に振る。夢じゃない。ホテルを出る時の清算書にちゃんと電話代はついていた。それも、やや距離が離れた所であることが判る程度の料金で。
「お前の方が何かどうかしちゃったんじゃないのか?」
声が通らない、と言った。だがそんなことはない。ちゃんと自分に届いている。だけど昨夜の、あのまるで妨害電波のようなノイズも、また事実だ。
「それより、来てくれてうれしいよ」
にっこりと彼は笑う。
「今日は全部見ていってくれるんだよね?」
「ああ…… そのつもりではいるけど」
何か変だ。
布由は次第に自分の中に疑問符が積もってくるのを感じる。
本当にこれは俺の知ってるHALなのか?
何が違う、というのが判るようで、うまく判らない。