83.十年前の七月二十三日①

 暑い日だった、と布由は思う。

 どうしてその光景が今ここで見えるのか、彼には判らなかった。

 だけどそれは、確かにあの日の光景だった。自分がずっと忘れていた。自分が封じ込んでいた。

 だけどこれは夢の中だというのに。

 懐かしい都市の中。現在はどうなっているかは知らない。だって今見えるのは当時の光景だ。まだ『都市』へと車で自由に入れた時の……

 高湿度、夏のこの地方、ねっとりとした大気が身体中にまとわりつくように吹く中で、過ぎていく列車の土手にずるずると伸びている赤紫の葛の花と葉の姿が目に入る。

 きっと近付けば特有のあの甘いような酸っぱいような匂いがするのだろう、と彼は思う。だけど車内ではそんな風も入ってこないから、さわやかなあの匂いもしない。相棒が時々吸う煙草の残り香に時々気付く程度だった。

 エアコンをがんがんに効かせてきたので、車を降りた瞬間、一気に汗が吹きだした。関係者用の駐車場に車をとめると、布由は関係者入り口の方へ回る。

 受付嬢は、どうぞどうぞ、とバックステージ・パスを彼に渡す。そして布由は自分を呼んだ相手の元へと足を速める。



 三日前、ツアー先のHALにやはりツアー中の布由は、ホテルから電話をしていた。

 HALから掛かってきたことはまずない。いつも自分が掛ける方だった。そしてその時もそうだった。

 どうやらその時の自分は、向こうのツアーの合間のオフ日を聞きたかったらしい。すると。


『オフ…… はしばらくないな』


 そんな風に軽く言われてしまった。ああまたか、と布由は思う。だいたい時間を絞り出すのは自分の方なのだ。


『だけど、布由お前、二十三日は空いてない?』 

「二十三日? 何で?」

『うちのライヴ、お前の故郷のあそこだよ』


 サイドテーブルの上に置いておいた手帳を取り、やや不安定な体勢でスケジュールを見る。


「ああ、オフだ」

『ならちょうどいい、おいでよ』


 そうだな、と彼は答えた。こんな風にHALが自分をライヴに誘うことはまずなかった。珍しいと言えば珍しい。

 布由はHALのバンドのライヴをまともに見たことが、メジャーへ行って以来殆どない。

 メジャーデビューの時期がほぼ一緒であるので、音楽業界の商業タームが重なってしまうことが多かったのだ。

 するとたいていBBのツアーだのプロモーション期間だのと、日程が重なってしまう。結果として、布由はHALのバンドのライヴを見られず、HALはBBのライヴを見られなかった。

 おかげで前の年の夏の、野外のイヴェント以来、布由はHALの歌を生で聴いたことがない。

 このツアーは、彼らのバンドにとって結構大切なものだ、と布由は聞いていた。彼らのバンドがブレイクして、最初の全国ツアーだった。顔が知られ、声が知られ、ある程度の曲がぽん、と売れた後の。


「うん、そうだな、久しぶりに寄るのもいいな…… あそこはいい所だよ」

『いい所?』

「ああ」

『何処が?』


 おや、と布由は受話器を持ち変える。いつもの通りの軽い言葉なのに、妙に悪意が感じられる。


「いい所だと思うけど…… 俺は」

『ああそお、布由には良かったんだよな……』

「は?」

『うんいいよ、おいでおいで。俺は歓迎するから』

「おいHAL?」


 ぶつ、と通話が切れる。

 何を怒っているのだろう、と布由は不思議に思った。そもそもHALは不機嫌であることはごくたまにあっても、怒ったところを見たところはない。

 それに、妙に話の内容も気にかかる。


 いい所? 何処が?


 HALにはいい所ではないのだろうか。布由は考える。

 彼にとって、と言うより、バンドにとっての地元であるあの都市は、非常にいい所だった。何がどう、というのではないが、ヴォーカリストとしては、ひどくありがたい街だった。

 と言うのも、あの都市では、どんな会場でも声の抜けがいいのだ。

 どんな会場でも、である。

 ほんの小さな地下のライヴハウスでも、二千人クラスのホールでも、城の公園内の野外ステージでも、はたまたSKの吹き抜けの広場でも、同じだった。

 どんな時でも、その都市の大気は、自分の声をつつんで、上手く広げてくれたような気がする。

 つまりそれは、この都市の環境自体が、人間の声を通しやすいものなのではないか、と彼は解釈していたのだ。

 だが。



 次の電話は、前日のホテルだった。

 打ち上げ後に戻ったホテルのフロントからメモを渡された。誰だろう、と広げてみると、見覚えのある名前が目に入った。最近やっと教えてくれたHALの本名だった。

 ずいぶん呑んでいたし、疲れていたから今かけるべきかどうしようか、とずいぶん考えたが、一昨日の彼の様子も気になった。

 相手もまたホテルに居たらしい。当初フロントにつながり、それからすぐにつながった。


「どうしたの? 珍しい」


 相手は黙っていた。


『……ずいぶん遅かったみたいだね』


 声がずいぶん遠かった。


「明日はオフだから…… 打ち上げがあって」

『そう』

「なあHAL、いつもと違って、お前、用件があるんじゃないのか? あるならはっきり言わないと、俺には判らないよ」


 実際そうだった。

 いつもなら、それでもいい。どういう手順を踏んでいるのか判らないが、結果的にHALの要望が通っていることになっている。だが電話。それに距離。妙にそれが布由には遠く感じられた。


『……明日』

「明日? ……ああ、お前らのライヴ。行くよ。いつ頃の方がいい?」

『いつだっていい。だけど、絶対来て』

「行くよ。行くってこないだも言ったじゃないか。行くと言ったら行く」

『本当だよね?』

「本当。お前に嘘ついてどうすんの」


 奇妙な気がしていた。明らかに電話の向こう側に居るのは、いつもの低音の友人なのに、何かしら、いつも彼が接している友人とも恋人とも知れない相手とは何かが違うのだ。

 何が違うんだろう? 布由は思う。

 何かが違う。だが、何が違うのか、決め手が見つからない。

 それはともかくとして、と布由は受話器の音量をいっぱいまで上げた。それにしても遠いな。


「もう少し大きい声で言ってくれない?」


 電話の向こう側の相手は、布由のその注文には構わないように続ける。


『俺、怖いんだ』

「え?」

『この都市が怖い』

「この、って……」


 ふっと布由は伝言メモの電話番号を見る。局番が、確かに見覚えのあるものだった。あの都市の、三桁の。

 都市が怖い。意味が通じるようでいて、ひどく曖昧な言葉だ。


「どう、怖いんだよ」

『今こうやって、お前に電話してる、その声が通りにくくなってる』