「子供までいるのか」
はあ、と朱夏は驚いたような声をあげる。
「意外?」
「結構意外だ。それでいてこんなハードな仕事をしているとは。いや違う、子供までいるからハードな仕事でもがんばれるのか?」
「まあそんなものだね」
くっくっく、と彼の笑いはよけいひどくなる。
「……三つかそこらの子供は、何でもどうしてどうしてと聞きたがる。意味が本当に判るかなんて、全く考えずにひたすら聞くんだ。朱夏、君それみたいだよ全く……」
「判らんから聞くんだ」
やや撫然とした顔で朱夏は言う。
「あいにく私は人間でもないし子供でもない。生きてきた年数からしたら子供なのかもしれないが。子供は知識が無いから全てが不思議で聞く。だが私は知識だけは無闇やたらに多い」
まあそうだろうな、と土岐は思う。彼女が好む好まざるに関わらず、知識だけは彼女の中に当初から埋めこまれている。
「だがそれは全然私にとってはつながらないものなんだ」
「つながらない?」
「つまり」
ベッドサイドの文庫本を取り上げる。
「ここに知識がある」
左手で本を掲げ、英会話のCMのように右手の人差し指でそれを指す。
「だがそれは『ある』だけだ」
「本を開いて、読まなくては知識は意味を持たない?」
「そうだ。私の『知識』なんて、手に持った本と同じだ。興味を持って、自分で読もうとしなかったら全く何もつながらないんだ」
「それじゃ朱夏は、それまで興味は持ったことがないの?」
「無かった? いや、最初は、そうだったと思う。だけど変わったんだ」
「変わった」
本を元あった所へ戻す。朱夏は自分のベッドに腰掛ける。土岐はフロアスタンドをつけて、天井の灯を消す。もともと大して明るくない室内だが、ますます明るくなくなってしまった。
「やっぱり寝てる人がいるからね」
そう言って土岐はデスクの椅子を朱夏の前にまで持ってきてかける。
「変わったの? 最初からそうじゃなくて」
「最初は、何もなかったんだ…… だから、全てのことは認識にすぎない」
「認識」
ひどく漠然とした単語である。
「目の前にあるものをただ認識していく、その繰り返しだ。そこには何もない。ただあるものをあると認め、それが自分にとって何であるか、をつなげていく。だがやはりそこには何もない」
感情のことを言っているのか、と土岐は気付く。
「それがまだ東風が私をチューニングしたぐらいの頃だ。そこへ夏南子が現れた」
「東風くんの彼女だね」
「そうだ。夏南子はいきなり現れた、という感じがした。……初対面から私のことを抱きしめた。胸が柔らかいから、現在の私の形と同じ形の人間、ということは、女なんだな、と把握した。だけど、何故彼女が私を抱きしめるのか判らなかったから、聞いたら、『だって可愛いんだもの』と答えた」
「『可愛い』…… ねえ。ちょっと理解しがたいな」
まあ言えないことはないが。
「私も彼女の感覚はよく判らない。だけど、彼女はその『よく判らない』感覚が、人間にはいろいろあることを見せてくれた。それは絶対、東風だけでは、絶対に見られないものだと思う」
「どうして?」
「東風は、夏南子に比べると表情とか感情とか、そういうものがひどく少ない。夏南子は人より多いらしい。表情が多い者は少ない者に教えられるが、逆はできない。だから私は、その点では夏南子に感謝する」
無論東風には東風なりの理由はあった。だがその辺りは朱夏は知らなかったし、知る必要のないものだった。
「だけどそれはそれで、やっぱりまだ『感情という名の知識』をつないだだけで、『実感』はないんだ」
「それじゃ、今はあるの?」
朱夏はやや首をかしげ、そうだな、とうなづいた。
「どうして?」
「安岐がいたから」
「好きな人?」
「好き…… 私は『好き』という意味が理解できなかった。今でも本当に理解しているのか、判らない」
土岐はうなづく。
「それがどういうものか、はっきり答に出してくれる人はいなかったし。東風も無理に答を出す必要はない、と言った。彼自身もしかしたら判らなくなっているのかもしれない、と言った。だけど安岐は何か違った」
最初から。
「最初から安岐は私が好きだと言った。私は意味が判らないから、どうしてと訊ねた。彼も判らないという意味のことを言った。だけど好きで、時々予想のつかないことをする。私はその予想がつかない状態に振り回されるのだけど、それが無いと、ひどく寂しいのに気付くんだ」
「朱夏……」
「土岐や布由はそういうことはないのか?」
自分ね、と土岐は考えてみる。
「無くはないけれど、それはもうずいぶん昔のことのような気がするな」
「そういう人がもう居るから?」
そうだね、と彼はうなづく。
「布由はどうなんだろう。布由はHALがいなくて寂しいという意味のことは言っていた。HALはそうじゃないような気がしていた、と言っていた。土岐から見てどうだったんだ?」
「俺から見て?」
そうだ、と朱夏はうなづいた。
「さあどうなんだろう?」
「はぐらかしているのではないだろうな?」
「はぐらかすつもりはないけど…… 俺にもよく判らなかったんだ、あの二人は」
土岐は自分の記憶をたどる。そして自分があまりあの二人が二人でいる所に出くわしたことがないことに気付いた。だが特別隠しているようでもなかった気がする。実際、時々電話を掛けている所を彼も目撃している。
「HALは、奴の声がずいぶん好きだったらしい」
「うん。布由さんもHALさんの声は好きだった。よく誉めてたし、わりあい忙しい間を縫って会っていたようではあったし。でも何か妙な感じはしたな」
「何で?」
「うーん…… 何って言ったらいいんだろう?」
土岐は迷う。実際、それは、本当に「そんな感じ」程度の感覚なのだ。どうして何故、と理由をつけられる類のものではない。
「何かさ、結構誰かが俺を好きな場合って、その人にとっては無意識なんだろうけど、それでも言葉とか行動の端々に、俺のことが好きだ、ってのが出ちゃうことがあるんだ」
「そういうものなのか?」
「うん。少なくとも俺はそう感じました。それは布由さんなんかにも言えて…… ああこの人は布由さんが好きなんだな、と判る時があるじゃない」
「あるとしよう」
「ところがHALの場合、そういう感じが、ひどく薄かったんだ」
「そうなのか?」
「だから、俺は、そう思った、ってことだよ。実際HALは本心見えない人で有名だったから…… だから俺程度には判らないけれど、実は布由さん好きなのかも知れなかったかもしれないし……」
「土岐はHALのことはどう思ってた?」
「俺? うーん…… 綺麗で、目を引いて、面白い声の人だとは思ったけど…… そもそも俺にしてみりゃ恋愛の対象外だったから」
「そのへんは安岐と同じことを言うのだな」
「何?」
「男を口説く趣味はないらしい」