「……どうしてだか、俺にも解んないんですよ……」
捕まった翌日、泣きそうな顔で津島は壱岐に言っていた。
あれからずっと、壱岐と津島は捕まったままだった。東風と夏南子は無関係ということで、翌日の昼には釈放された。
津島は仕方がない、と東風は思う。だが壱岐はどうして、と詰め寄ったら、黒い制服の公安の一人は、「会社」自体捜索の手を入れなくてはならないから、と彼らに説明した。
仕方ない、と彼らは二人で「KY」のそれぞれの部屋に戻ってきていた。
……何か、広いな……
東風は自分の部屋に戻ってきた時そんなことを考えた。そしてそれからずっと、表の仕事から戻るたび同じことを考えている自分に気付く。
夏南子からの連絡はない。部屋へは送らなかった。送らなくてもいい、と彼女が言ったからだ。何となく気分が悪そうだったので、あえて言ってみたのだが、案の定断った。
とうとう愛想を尽かされたかな、とも思ってしまう。
正直言って、夏南子がずっと自分と一緒に居てくれたこと自体、ひどく不思議だった。彼は決して自分に過剰な自信は持たない。持ったこともないし、持てないのだ。
最初からそうだった。だから入ったばかりの大学で、どうして彼女が自分と付き合ってくれたのかすら判らなかった。そしてそれを訊く前に、あの夏の「あの時」がやってきた。
彼もまた、その時何があったのか記憶にはない。夏南子も、壱岐も、そして安岐の兄もそうだった。そして朱夏が現れるまで、そのことを考える余裕もなかった。
つくづく情けない男だ、と彼は自嘲する。
ここには何もない。友人も、恋人も、妹も。
―――どのくらいそうしていただろうか。がちゃ、と扉の鍵が開く音で彼は目を覚ました。ぶるっと一瞬身体を震わす。どうやらうたた寝していたらしい。
ぱち、と明かりのスイッチを入れる音がした。
「何してんの? 何またあんたそんなところで寝てたんじゃないでしょうね」
「……夏南子」
「あんた風邪ひきやすいんだもの、ちょっとは自分で気をつけてよね」
「ああ……」
彼女はどうやら何処かからの帰りらしい。普段自分のところへやってくる時よりはよそ行きの格好をしていた。
「仕事だったんか?」
「今日は休んだのよ」
「珍しい」
「無能な家電店員に言われたくないわよ。あたし普段真面目だからお休みくらい簡単に取れるの」
あ、そ、と彼は言葉を返す。彼女はああ重かった、とつぶやくと、手に抱えていたクラフト紙の袋をテーブルの上にどん、と置いた。
よほど一杯だったらしく、置いた途端、中からはオレンジがごろごろと転がりだした。
そういえば、と彼は思い出す。最初もオレンジだった。
入ったばかりで何処が何処だか訳が判らないキャンパス。迷ったところにいきなりオレンジが転がってきた。何だと思って見たら、緩い坂の半ばで、同じ色のTシャツを着た彼女が破れた袋を片手に、転がり落ちようとするオレンジを必死でくい止めていた。
彼はそういう現場に立ち会ったら、助けてしまう習性があった。ごくごく当たり前に、彼は転がるオレンジを止めては手に入るだけ抱えた。
彼女はオレンジと同じくらいの明るい笑顔を彼に向けて、助かった、と言った。春の学祭で作るケーキの材料だ、と言った。サークルの出店で使うと。ついでにそのサークルの部室まで届けてくれれば、ケーキの引換券をあげる、と彼女は言った。
そして彼は彼女のサークルを知って、学部学科を知って、最後に名前を知った。
それが最初だった。
そしてそれから十年一緒にいる。
だがどうしてこの長い時間を一緒に居てくれているのか、それは彼にはよく判らなかった。
十年も一緒に居て、週一くらいで夜も付き合うのだから、好きなのだろう、とは思う。だけどそれだけなのかもしれない、と考えてしまう自分もまた居るのだ。
ふっと気がつくと、オレンジの香りが部屋中に広がっていた。そして目の前にカップが突き出された。カップには半分に切られたオレンジがすっぽりと乗せられている。
「チャーミング・ティって言うんですって」
「また豪快な」
「あたしに言わないでよ。こないだ見つけた店でそういうのがあったんだからね」
はいはい、と彼は乗せられたオレンジを取ると、ぎゅっと中に絞った。
「あんたこそ今日は休みだったの?」
「家電屋は今日は定休日」
「ああそうだったわね」
あれ、と彼は思う。何か妙だ。彼女がそれを知らない訳がない。それに……
「夏南子お前、いつから宗旨替えした?」
「え?」
「お前確か、紅茶をレモンで飲むのは邪道だって言ってなかったか?」
彼女が好きなのは、英国流のお茶だ。向こうのお茶は伝統的にミルクティだ。
「気が変わったのよ」
「そう?」
「そうよっ」
東風は目をぱちくりさせる。やっぱりおかしい。それに、何処となく、彼女は何か、どう言っていいものかと言いあぐねているようにも見える。
「おい夏南子、何か俺に言いたいことある?」
「あるわよ」
ああとうとう別れ話かな、と彼は心中大きくため息をつく。仕方ないな、と。
「何だ?」
こうなったら真っ向から受けとめなければな、と彼は思う。最後くらいは。
夏南子はそれでもしばらく言いにくそうにしていた。うつむいたり、視線が飛んだり、およそいつもの彼女らしくない。
「あのさ……」
「うん」
「子供ができたの」
は? と彼は聞き返した。彼女は同じことをもう一度言った。
「……誰の」
途端に彼は左頬にひどい衝撃を感じた。素晴らしいタイミングで夏南子の右手は彼の頬に命中していた。
「あんたのに決まってるじゃないっ! この馬鹿!」