もう知らない、と夏南子は勢いよく立ち上がった。そしてカウチに無造作に置いた上着を取ると、そのまま立ち去ろうとした。
……が、それはできなかった。
まずは手だった。強い力で捕らえられる。
そして次の瞬間、背中から自分が抱きしめられているのを彼女は感じた。十年間友人で愛人だった男は、彼女の前でしっかり手を組んで、決して放そうとはしなかった。
「何やってんのよ! 放してよ!」
「やだ」
「人が珍しく努力して言ったのに何よあんたその台詞っ!」
「だからごめん。本当に、ごめん。謝る」
彼女が首まで真っ赤だ、と彼はその時やっと気付いた。そして改めて東風は手に力を込める。
「……本当にごめん。だけど……」
「どうせあんたのことだから、あたしが逃げたんじゃないかとかいろいろ考えてたんじゃないのっ! どーしてそんなこと考えるのよっ! 馬鹿じゃないの? あんたの悪いとこなんて、あたしは山程知ってるわよ! それでもあんたみたいな奴に十年間もくっついているんだから……」
「判った! 俺が悪い!」
「あんたは悪くないわよ! そうじゃなくて!」
ああもう嫌だ、と夏南子はもがく。身体のせいで、ひどく不安定な気分の上、一世一代の報告をしたのだ。これ以上つつかれれば、それこそ、滅多に働かない涙腺が特別労働を始めてしまう。
「放してよ!」
「嫌だ。放さない。もう、いなくなられるのは嫌なんだ」
夏南子の動きが、止まる。男は背中ごしに、彼女の耳もとで、繰り返す。
「……それってすごく身勝手な言葉じゃな……い?」
喉が詰まる。声がかすれる。だが彼はそれに気付いているのかいないのか、必死な調子で、繰り返す。
「身勝手だよ。そんなの判ってる。だけど本当だ。ずっと、一緒に、居たいんだ」
「……」
がくん、と首から力が抜けるのが彼女は判る。
ああもう嫌だ。夏南子は思う。涙腺が過剰反応している。いつまでたってもこの馬鹿が手を放してくれないから、ぽろぽろと涙がこぼれるのに全然止められないじゃないの。
「……責任とってよ! 一生!」
「うん」
*
その翌日、壱岐が釈放された。
彼は夜、電話で二人をSKまで食事を口実に呼び出した。
メニューを見ながら、ついでのように籍を入れた云々の報告をすると、ことのなりゆきを聞いた彼は、意外にもこうあっさり言っただけだった。
「何だまだお前ら結婚してなかったの?」
夏南子が黙ってメニューで壱岐の頭をはたいたことは言うまでもない。
「―――ってえなおい。変わらないな夏南子。でももう十年だぜ。とっくにお前らくっついてると思ってた」
「こいつが馬鹿だから悪いのよ」
東風は苦笑する。
「ところでお前の、あの部下のガキ、どうしたの?」
「……津島?ああ、まだ捕まってる」
やや壱岐の表情が曇る。
「まあね、あの騒ぎもダズルのせいだから、もう少し取り調べがあるとか言ってたけど、そうそうひどいことにはならないと思うよ。最も奴がダズル吸ってたこと自体変といや変なんだけどさ」
「変?」
「変だよ、奴は普通の煙草だって吸えないんだ…… 安岐の方がよっぽどよく……」
ふっとそこで彼は言葉を切った。
「結局俺、何してきたんだろな…… あん時、お前にあんなこと言って、逃げるように安岐連れ出して、都市ん中戻ってきたのにさ…… 結局安岐を川に落とすようなことにさせちまったし……」
「お前のせいじゃないさ」
東風はできるだけ軽い口調で言う。
「お前に責任があるなら、俺にだってあるんだ。俺は朱夏が安岐に会うのを止めなかった」
「止められる訳ないでしょ? 恋する若い子達を」
まあそれはそうだ、と男達はうなづいた。
「帰ってくるかしら、朱夏」
「やらなくてはならないことがあるって言ってた」
「本当?」
東風はうなづく。
「それをやり終えたら戻ってくる…… と俺は思ってる」
「希望的観測、という奴だな」
「希望は持たなきゃ」
夏南子が口をはさむ。
しばらくして、注文した料理が来た。多国籍料理という奴である。さほど豪華なものではないが、箸でつつきあいながら、壱岐は何やらひどく感動している。
「やっぱり美味いなあ……」
「何、そんなに食事、あそこは悪かったのか?」
「いや、そう悪いってものじゃないけれど、ただ、毎度毎度献立が変わらないのがな…… 自分で作った方がよっぽどマシかと思った」
「お前昔っから器用だったからな」
「お前だって器用だろ…… チューナーなんかやってる奴が何言ってる。……あ、そうだ、もしかしたら、お前にもお呼びが来るかもな」
「お呼び?」
「赤の長官が、チューナーを捜していた」
「ああ、じゃああの話かな」
何の話よ、と夏南子が訊ねる。うん、と東風は肉の塊を一つ口に放り込む。そしてそれをかみ終えてから、
「ちょっと仕事を頼まれてね」
「仕事?」
「全くよく調べてるもんだ。俺の裏稼業のルートきっちり押さえてる」
「何かやばい仕事?」
「やばいも何も…… 公安じきじきだぜ? 安全もいいとこ。ただ、ちょっと時間かかるから…… 泊まり込みにはなるかも」
「やだなああたし」
「あ、だけど家族なら来れるでしょ」
それもそうだ、と一瞬うなづきかけて、夏南子ははた、と籍を入れたばかりの自分のパートナーをにらむ。
「……あんたまさか、それもあってあたしに……」
「いやこれは単なる偶然。人生ってタイムリーだね」