どういう感じなのだろう、と安岐は首をかしげる。それに気付いたのか、HALは言葉を足した。
「君が歌うひとだったら判りやすいんだけど…… まあギターでも何でもいいや。そのギターの音が、妙に他の音に埋もれてしまうような状態って聴いたことない?もしくはその逆。何か無性に音が響くような日」
あ、と安岐は思い出す。時々、何かの拍子で津島のギターの音が妙に耳障りな日があった。
「何となく判る」
「ん、なら良かった。そうしたら説明しやすい。それでも安岐はまだいいね。説明して一応全部呑み込んでくれるから。頭の固い大人はやだね、こっちがいくら説明しても肝心の部分を判ってくれない」
「それはあんたの説明不足じゃないの?」
「俺の?」
HALは眉を軽くひそめる。
「だってHALさん、あんたがそういうアタマで説明すれば、結局相手には伝わらないんじゃない? 絶対相手は理解できないなんて初めっから思って説明したもんなんて、相手も真っ直ぐに受け取れないよ」
「言うねえ」
そしてようやくにっ、と彼は笑いを浮かべる。
「まあいいさ。とりあえず、今こちら側で俺が説明できるのは君だけだし、俺も何か判らんけど、君には説明しやすい。安岐ねえ、この都市にどのくらいライヴのできる会場があるか知ってる?」
「B・Bだろ? エレクトリック・キングダム、ミュージック・ビレッジにアメジストホールにハートビート、クラブ・バジーナ、芸術創造センター、公会堂にワーカーズホールに国際会議場…… 総合体育館もそうだっけ。市民会館に厚生年金会館、……そのくらいだっけ」
「まあもうちょっとあるらしいけどな。実際に俺たちが出たのはそう多くはないんだけど…… ハートビートに始まって、バジーナ、B・Bも出たな。で次がワーカーズ。最後が公会堂」
彼はふっと手を伸ばす。指のさす方向には、淡い茶色のこじんまりとした建物があった。
「ここだよ。ここが最後」
「最後……」
「あれから、俺達のバンドは音楽を止めた」
最後の公演。そういう意味だった。
「……まあね、どの場所の時も、それなりに出来は良かったんだ。音自体はみんな良かったからね…… だけど俺の声に関しては、滅茶苦茶だった」
「声だけ?」
「そう。声だけ。どんな機械を通そうが、どうスピーカーの位置を変えようが全く無駄。どの会場でも、俺の声だけが響かない。届きはするよ。一応ライヴの形にはできたんだからね。だけど」
「HALさんには不満は残る」
「そう」
彼はそれそれ、と指を立てる。
「だけどそんなこと、普通有り得ないんじゃないの?」
「そう。有り得ない。なのにそうなる。必ず。それは俺がプライヴェイトで友達の所へ遊びに行った時もそうだった。遊びで歌ったりする。その時でもそうなる」
「まるであんただけをねらい打ちしたみたいに」
「そうそう」
「でもそう言ったところで、それを判ってくれない奴が殆どだったんじゃない?」
自分のように、という言葉を暗に安岐は含める。
「そうだね。誰も本当の意味を理解はできなかった」
もう片方の足も上にあげて、彼は両足を抱え込む。
「歌わない奴には判らない。それがどういう感触なのか。空間に自分の声が響くかんじ、というのが…… 実際の会場ではアンプとスピーカーが間に入るんだけど、それ以前からして違っているんだ。空気自体が、通らせまいとしているのが判る。声に、絡み付いているんだ」
「ふうん……」
「安岐もやっぱり信じない?」
やや困った顔になっている安岐を見て、HALは訊ねる。すると安岐はうなづいて、
「そうだね」
と答えた。
「HALさんがどう言おうと、俺にはそれがどういう状態か、やっぱり理解できない。俺は歌う人じゃないもの」
だろうね、とHALは目を伏せる。
「でも」
伏せた目を開く。
「でもHALさんがそう信じて言うんだから、俺はあんたの言うことは信じるよ。少なくとも、あんたの中でそれは本当なんだろ?」
それは、安岐の本心だった。それは事実と真実の違いに近い。事実としての「声が通らない」は、安岐にはとうてい理解できない。だが、理解できなくとも、それを体感しているHALにとっては真実なのだ。
「本当だよ。そりゃ確かに俺も、そのせいで声が出にくくなっていたかもしれない。だけど俺はプロだよ。そういうことで出なくしてしまうような声の鍛え方はしてないんだ。そりゃ別に俺は無茶苦茶上手い訳じゃないよ。だけどそれでもやってきたんだ。やってこれたんだ。何度も、ひどいコンディションのところでも何とかしてきたんだ。この都市の会場は、何処もコンディションが悪いなんてことはないんだ。楽器の音だってよく通る。みんな楽器隊の連中はやりやすいって言ってたよ」
安岐はうなづく。
「ただ、俺の声だけが通らないんだ」
「……うん」
「……で、その逆の奴も居た」
「逆?」
「うん。俺の逆。この都市の、どの会場でも、どんなコンディションでも、そいつの体調が滅茶苦茶でも、絶対に声だけは通る奴がいたんだ」
それを聞いて、安岐は思い当たる。
「もしかしてそれがBBのFEW?」
「そ」
ぱちぱち、とHALは拍手をする。
「……それで、あんたはその声がすごく好きだった?」
「うん、すごく好きだった。絶対俺にはできない声だった。別にそうなろうとか全然思ってはいなかったけど、好きで、自分には無いものはうらやましい」
彼は組んだ足の上に顔を伏せる。
「無いものねだりだ。別に本当に自分の声として欲しい訳じゃない。だけど人が持っていて、それをやすやすと使う様を見てると、欲しくなる。あったからって自分が使う訳でもないのに」
「そうだね。確かにあんたにはあの声は似合わない」
「俺もそう思う。でも皮肉だよね」
「何が?」
「結局さ、俺と『彼女』は同じ奴の声を好きになってしまったんだ」
……やはりその感覚は安岐には判らなかった。