有無を言わせぬ、とはこのことである。車の中に放り込んだのもそうであれば、車から引き出してきたのも、ここまで連れてきたのもそうだった。
まるで、でかくなりすぎた猫を抱えるように、朱明は肩の上にHALをかつぎ上げて階上まで運んだ。
荷物のように、仮眠室のベッドの一つの上に転がされても、HALはずっと黙っていた。聞けばいいのに、と大きな口を言ったのが嘘のようだった。いつもの減らず口も無い。かと言って逃げ出す気配もない。
「で」
ようやく重い口を開く。
「俺に何を聞きたいの?」
「全部だ」
「全部」
くすくす、とHALは笑って、ボンネットの上でそうしたように、ひざを抱え込んだ。
「朱明は全部全部と言うけれど、何処からの全部なんだよ? そんなあいまいな言い方されちゃ俺は答えられないよ」
「ああそうかい」
「もう一度殴る?」
「俺は無駄なことは嫌いだ」
「怒った?」
「当たり前だろ。それがどうしても必要だったって言うのか? 奴を呼ぶために」
さすがにその言葉にはHALもやや表情を動かした。
「……ああ…… それ、安岐に聞いた?」
ああ、と朱明はうなづく。
「そうだよ。BBの布由。彼を呼びたいんだ」
「必要なのか? 都市を開くのに」
「必要だよ」
「それだけか?」
「何それ」
ひらりと冷たくHALは問い返す。
「何か他があるって思ってる? あいにくと、それだけだよ。どうしてそう思う?」
そう言われると朱明は弱かった。
明らかに、これは嫉妬なのだ。あの夏に、藍地ほど露骨に態度に現さなかったにせよ、明らかに自分の中にあった感情だった。
「じゃ言い換える」
「どうぞ」
「何で、今なんだ?」
「何でって?」
「九年…… いや十年だ」
「うん。十年だね」
「お前はずっと、知っていたんだろ? この都市を元に戻す方法は」
HALは目を半分伏せる。
「ああ。知っていたよ。ずっと。最初から」
「最初から」
朱明は声を荒げる。
「最初から、知っていたと言うのか? お前が、九年前、その姿で戻ってくる前から?」
「そうだよ。気付かないお前の方が馬鹿じゃないの」
「知っていて、ずっと、黙っていたって言うのか?」
「そうだよ」
それを聞いて、朱明の中に再び怒りが湧く。
***
思いきり張ったヘッドを叩いた時の音が好きだった。最初からその感じは変わらない。
きっかけはもう忘れたが、その時の「その感じ」は今でも覚えている。
友達と一緒だった。そこへあの「影」が通ったのだ。友達にはそれが見えない。
判ってはいた。
子供の頃、最初に母親に告げた時からたびたびそれは彼の目の前に現れ、そしてそのたび誰かが死んだ。
十くらいの時からぷっつり見えなくなった。
そういうものだろう、と彼は思った。実際その頃周囲で病気やけがをする人も、老いて亡くなるような歳の人も少なくなっていた。
だから、忘れかけていたのだ。
それがその時「居た」。それもそれまでの何よりも鮮明に。
「影」というより、それは別の次元の生き物のように彼には見えた。それがじわじわと近付いて来て、友達の手にまとわりつこうとするのも。
彼は友達のもう片方の手をそのたびに取っては、その影から引き離そうとした。
すると友達は何だよ暑苦しい、と言いながらも一応その影のいる場所から離れてくれた。
だがその時の影はしつこかった。
子供の頃に見えていたそれは、もっとふわふわして、大気に流れてしまうようなものだった、と彼は記憶している。見えはするが、やがて消えゆくものではあった。
だがその時のそれは、消える様子はなかった。そしていきなり膨れ上がった。
彼は反射的にスティックを握りしめ、スネアドラムに思いきり叩き付けた。
乾いた音が防音された窓の無い部屋中に響いた。
何だよ朱明、いきなり、驚いたじゃんか。
友達は肩をすくめた。
そして影の姿はそこには無かった。
次に影が現れたのは、それからずいぶん後だった。
「西か」
ここいらで決めないと、自分は腐ったまんまだな、とその頃朱明は思っていた。
彼は、あるバンドに誘われていた。
パーマネントなバンドをするか、完全なスタジオミュージシャンになるか。そろそろ決め時だ、と彼は思っていた。
ドラム以外、音楽以外、他にできることはない。他にしたいこともなかった。
高校は卒業したが、それだけだった。だが他に手に職があるか、と言われれば、即座に「無い」と答える。
だから、自分にはそれしか無かった。そうなるように自分を自分で追い込んできた、とも言える。後悔はしていない。
彼を誘ったバンドは、BBと言った。