53.迷子の安岐

   ……何処だ?


 そして彼は気がついた。

 白い砂まじりのまだ新しい、黒光りするようなアスファルトの上に寝転がっているような気がした。街の音がするような気がした。

 気がした。

 気がしただけだった。

 立ち上がる時ついた手には、砂どころか、何の感触もなかった。冷たくも暖かくもない。できたてのアスファルト道路特有のあのにおいもなかった。

 何かがあるから身体が支えられて立ち上がることができる、というのは判る。だが、何かに手を押されているような感触はあっても、自分が何かに触れているという実感がなかった。

 少なくとも、アスファルトの感触では、絶対になかった。

 そういう時なら、擦れてひりひりする筈の頬に触れてみる。だがそこには傷一つない。

 打ち身にはなっているらしいから痛みはある。にぶい痛みだけがあった。

 変だ。

 あらためて思う。そしてここは何処なんだろう、と考える。

 確かにここは先ほどまでいた所に、都市の風景に見える。だが、妙に実感がなかった。

 だいたい自分は、川へ落ちたはずなのだ。あの橋の上から。それで生きていること自体不思議なのだから、何が起こっても不思議でもない。あれが都市のように見えて、都市でなくとも何の不思議もない。

 とにかく安岐は歩きだした。

 もしかしたら自分はもう死んでいるのかもしれない、と思えなくもない。ここはあの世なのかもしれない。だから実感がないのかもしれない。

 だけどだからと言って、じっとしている訳にもいかない。立ち上がってしまったからには、歩き出さなくてはならない。

 近くだったのだろうか。いつのまにか「T-M」の公園入り口に見えるところに来ていた。見覚えのあるあの噴水塔。水が上の皿からこぼれ落ちる。昼間の光にきらきらと、水が輝く。


 ……昼間?


 暑くないのに。

 ふと気がついた。昼間だった。

 光は都市全体に満ちていて、初夏の緑は時々吹いているらしい風にゆさゆさと身体を揺らせている。

 濃い影が公園の中に曲線を描く白い通路に落ちている。子どもが遊んでいるように、見える。だが。

 熱がない。光は全てを照らしているが、そこには重さも熱も何もない。ただ明るいだけ。

 静かだった。何の音もしない。

 いつもなら必ず聞こえてくる、車のエグゾストノイズ、クラクション、信号の人待ち音、メトロの到着音、木々のざわめき、人の話し声、蝉の鳴き声、水しぶき、走り回る子どものはしゃぐ声、FMのDJの声、そして音楽…… 


 ―――何一つ耳には飛び込んでこない。


 自分の足音、心臓の音すら聞こえない。

 耳が聞こえなくなった訳ではない、と彼は思う。妙な確信があった。だが、音は無い。

 音が無いことが、こんなに不安をかきたてるものだとは、安岐は思ったことがなかった。

 そのくらい音は、いつも都市にあふれていた。昼夜問わず、いつでも何処でも、何があっても、何らかの音が都市にはあふれていた。ただの音だけでなく、音楽が。

 空間条令の一部に、こんな条項があったことを思い出す。


 「音楽はいつ如何なる時にも、都市では必要なものである」。


 どうしてだろう、と考えたことがある。何故音楽なんだろうと。

 だがその疑問はやがて日常の中に埋もれていった。それが当たり前になってしまうと、疑問は起こらなくなる。

公園を抜ける。

 安岐は目を見張った。

 電波塔がそこにはあった。目の前に、いきなり。SKの中心にあるはずの。

 そんな馬鹿な。

 「TM」と「SK」は、メトロで三つの駅の距離にある。こんな、すぐ隣にある筈がない。

 安岐は目をこする。だが幻ではない。電波塔のある、大通りの公園が、「TM」の公園と地続きになっている。

 花壇が不自然につながっている。

 無造作に植えられたサルビアがこじんまりとした赤を延々電波塔の方まで続かせている。

 サルビアで囲まれた花壇の中には夏の花が色とりどりに咲き乱れている。向日葵、ダリア、百日草、ベコニア、クレマチス……

 だが香りもない。ただ揺れている。その音もない。

 安岐は一瞬めまいがした。


 こんな筈がない。


 だが目の前の光景だ。


 だがそんなはずはない。


 そして安岐は同じ疑問を違う意味で投げかける。


 ここは何処だ。


   *


「帰ってきた」


 窓の外でライトが動く気配がしたので、芳紫は窓際に寄ってみた。


「みんな?」

「いや、一台」

「……ふーん……」


 藍地はカードをテーブルの上に並べていた。


「何してんの?」

「占い」

「何の」

「王道は恋占いでしょ」


 全くだ、と芳紫は思った。


「誰の?」

「誰かさんの」

「自分のはやらないの?」

「俺の結果は判ってるからね」


 なるほど、と芳紫は答えた。