何ごと、と思いつつも、彼女の腕がしっかりと彼の二の腕を掴んだままで、しかもあまりにも力強かったので、離すこともできない。
騒ぎが次第に大きくなってくる、と彼は思った。
まずい。こんなところで、こんな状態でいるべきではない。
この事務所の入っているビルは、この事務所だけが入っている訳ではないのだ。階下も階上も別のオフィスが入っている。無駄な騒ぎは困る。
「布由さん!」
女性スタッフの大隅嬢が叫ぶ。せっかく綺麗にセットされた髪も、既にこの騒ぎの中で台無しになっていた。
「大丈夫ですかあ……」
その時ようやく、彼の相棒は部屋から出てきた。扉にもたれかかっていた布由は思わず倒れそうになる。おっと、と一言つぶやくと、土岐は相棒の身体を支えた。
そして再び、状況を判っているのか判っていないのか、のんびりとした口調で同じことを問いかける。
「ちょっと土岐、手伝ってくれ、この子、妙に重い」
布由は囁く。土岐は布由とその前にくっついている少女を素早く確認すると、ぱっと表情を変えた。
「あ、皆さん、お騒がせしました」
布由の相棒は、にっこりと笑い、ぺこりと頭を下げる。
そのタイミングの良さに、それまで慌てていたスタッフ達が一斉にお辞儀をする。そのすきに布由は彼女を抱えたまま、ドアの向こうにと消えた。
何なんでしょうねえ、とざわめくスタッフの声が聞こえる中、土岐は後ろ手に扉に鍵をかけた。重そうに布由は少女を正面にくっつけたまま、ソファに倒れ込む。
「土岐、お前遅いぞ。何してたんだよっ」
「やっと出来たんですよお。俺、結構こういうの苦手だから、一度とっかかっちゃったら最後までやってしまわないと絶対できないんですから」
土岐はファンクラブ誌の原稿をひらひらと布由の目の前で振る。それにしても緊張感のない奴だ、と布由は思う。
尤もこういう奴だから、十年以上も一緒にやってこれたのだと思う。十年も同じバンドをやって、なおかつある程度以上の人気を保っているバンドなど、この業界には滅多にいない。
「それにしてもこの子、重いな…… ちょっと土岐、手貸してくれ、はがしてくれや」
「はい」
土岐はだらん、と力の抜けた首には触れないように、彼女の手を外そうとする。かなり強く握っていたので、土岐は指の一本一本外さなくてはならなかった。
よっこいしょ、とかけ声を立てて土岐は彼女をそれまで自分が座っていた正面のカウチに横たえた。
「……何なんですかこの子…… うちのファン?」
「いや違うような気がするんだが……」
布由は立ち上がり、掴まれていた腕をさする。本当に何て力だ。人間わざじゃあないぞ、と内心つぶやきながら。
「じゃあ何なんですか?」
「俺が知るかよ…… でもなあ土岐、ファンは普通俺を俺だっていちいち確認するか? ここまでやってきといて……」
「だったらこの子、スタッフに渡した方がいいんじゃないですか? よく居るじゃあないですか、別にファンとは限らなくても危ない子って。おかしい子とか」
「だけどなあ」
「だけど、何です?」
布由は言葉に詰まる。こういう所で、この一見ぼうっとして優しげな相棒はきついのだ。
「実は……」
言いかけた時だった。あれ、と布由は耳を澄ませた。
「お前、今何か言ったか?」
「言おうとしたのはあんたでしょう?俺が言う番じゃあないですよ」
「じゃ……」
視線を少女に回す。閉じたはずの瞳が半分開いていた。
「気がついた?」
『……来て』
布由は耳を疑った。
『あの都市へ、帰ってきて』
心臓が、飛び上がるかと思った。灰色の羽毛で、全身を一気になぶられたような気がした。
この声、この声、この声!
『待ってるから』
それだけ言うと、少女は瞳を再び閉じた。やがてすうすう、と安らかな呼吸が聞こえ始める。
だが布由は。
「……布由さん……」
呼吸を止めていたらしい。土岐の声でようやくまともな呼吸を思い出したかのようだった。自分のことなのにおかしい。おかしすぎる。だけど。
「今の声……」
相棒の声も震えていた。こんなことは滅多にない。本当に滅多なことで動じない相棒が、明らかに動揺している。
土岐の顔色は変わっていた。
「気のせいじゃ、ないですよね」
それでは、自分の幻聴ではない。
布由は、相棒に目で訴える。確かに自分の耳にも届いたのだ。
ひどく困惑した表情で土岐は布由を見る。そして少女に視線を移す。少女のやや厚い唇を軽く開いたままの口から、確かに、それは聞こえたのだ。
「あの声?」
そんな馬鹿な、と思う。だけど、自分達が聞き間違える筈がない、とも思う。それは、土岐にも聞き覚えのある声だった。
十年前、さんざん自分達と並び比べられてきた、あの鮮やかな、華やかな音の真ん中にあった――― 声。
「……何で……」
布由は全身の血の気が引くのが判った。自分がちゃんと地に足をつけて立っているのが不思議だった。
そして同時に、相棒以外に聞かれてはいないだろうな、と周囲を見渡した。大丈夫だ、と土岐はうなづく。扉はぴったりと閉ざされたままだった。
「……布由さん……」
「何だ?」
土岐は長いさらさらした前髪をかきあげる。手持ち無沙汰の時に彼がよくする癖だった。
「この子、似てません?」
「俺も思った」
「あのひとに、似てるじゃないですか!」
「そうだよ」
そうだ、あの時この少女は何を言った? 彼は思い返す。
目を閉じて、無防備に眠る姿。そこに男と女という差はあっても、明らかにこの侵入者は、似ていた。似ていすぎた。
もちろん横に二人並ばせれば「違う」と言われるだろうが、記憶の中の「彼」の印象と同じものを、目の前の少女は持っていすぎた。
「この子は、俺に言ったんだ」
何を、と土岐は訊ねる。
めまいがした。
「何って、言ったんですか?」
土岐は重ねて訊ねる。
「HALが……」
相棒が顔を歪める。こんなことは滅多にない。
その名前。もう十年間、話の隅にも出さないようにしていたあの名前。あの名前を持つ奴の姿。……声。
「HALが、俺を探しているって……」
「布由さん」
「……今になって」
BBのヴォーカリストは、床にべたりと座り込んだ。