19:撫でたい頭

 アンシアはこのまま、シャフティ市で一泊してから帰るという。神殿には小さいながらも客室がある旨も伝えたのだが、

「宿も取ってありますし、経費として落としますので、ご心配には及びません。教え子の守る街の活性化に、少しでも寄与できるなら幸いですし」

 にこやかにそう言い切られれば、ケーリィンたちも無理強いできない。


 神殿へ泊まる代わりに、街の様子を教えてほしいという彼女の希望を叶えるべく、ケーリィンが案内をすることになった。

 例によってディングレイも伴い、三人で散策に出る。

 ディングレイは平素と異なり、二人から数歩下がった位置を維持している。いつもなら彼の立ち位置は、ケーリィンの隣か前方だ。

 彼なりに一応、気を使ってくれているのかもしれない。


(普段より、圧迫感が薄いかも)

 ケーリィンは隣を歩くアンシアをちらりと見て、そんなことを考えた。もちろん胸の内に留めておく。

 もしも口に出そうものなら、ディングレイから絶対に鼻をつままれるであろう。


 学校へ行くには遅すぎるし、買い物に出るには早すぎる。中途半端な朝の時間帯であるため、道ですれ違う人は少なかった。

 そのため、旅行客らしきトランクを携えた人物が、殊更目立って見えた。

「……早めに宿を取っておいて、本当に良かったです」

 彼らを遠巻きに眺め、アンシアがしみじみと嘆息する。

「ですね。旅行雑誌に掲載してもらったおかげで、今は三ヶ月先まで宿が埋まっているそうです」

 パン屋の女主人からの情報を、ケーリィンは伝えた。


 教官としてのアンシアも一切手抜かりがなく、常に下準備を怠らない人物だった。それゆえに厳しい部分も多いが、ケーリィンにとっては憧れの女性でもあるのだ。

「宿を押さえられたなんて、先生はやっぱりいつでも完璧なんですね」

 ケーリィンは出来る恩師へ、尊敬の眼差しを注ぐ。しかしアンシアは、少しだけいたずらっぽい笑みになった。


「残念ながら、私は特に何もしていません」

「え? それじゃあ聖域の他の方が――」

「いえ。貴女なら真面目に務めをこなすだろうと考えて、早めに予約を入れていただけなんです。その時期がちょうど、旅行雑誌の発売と同時期だったようです」

 そこでアンシアの笑みが濃くなった。

「ですのでむしろ、ケーリィンさんのお陰と言うべきかもしれませんね」


 約十五年前まで、シャフティ市はワインが名産の宿場町として栄えていたという。

 だが先々代の舞姫は若くして持病を患い、十分な踊りをこなすことが出来なくなった。そして市は、衰退の兆しを見せたのだ。

 そして先代が歴史的ビッ――問題児であったため、衰退は止まるどころか追い風任せに加速し、現在に至っているという。


 アンシアに評価してもらえるのは嬉しいが、現実のケーリィンは毎日踊っては転んでの繰り返しだ。晩年の先々代と大差ない気がして、良心も痛む。アンシアへ返す愛想笑いも、不格好になった。

「……踊りが下手なので、せめて街に天変地異とか引き起こさないよう、頑張ります」

 そうだな、と後方のディングレイが同意。

「神殿の庭のバラが、また青くなりゃしないか、実は毎日ヒヤヒヤしてる」

「……また、ですか?」


 朗らか笑顔だったアンシアがたちまち、鬼教官の顔に戻った。

 ケーリィンは慌てて彼へ振り返り、言わないで!と涙目で訴えるが、非常に良い笑顔で黙殺された。こんな爽やかに笑えるんだ、とケーリィンは場違いに驚愕する。


「庭園で顔合わせをした時に、バラを咲かせてくれと頼んだんだ」

「それはまた、何故でしょう?」

 戸惑うアンシアに、ディングレイは爽やか笑顔のまま鼻で笑った。器用である。

「事前情報では高慢ちきなクソガキが来るって話だったのに、実際現れたのは真逆の、虫も殺せねぇようなお嬢ちゃんだったからな。何か騙されてんじゃないか、とこっちもあの時は半信半疑になっちまってたもんでね。悪いな」


 ディングレイもロールドも、先代舞姫の暴挙をただ遠目に観察していたわけではない。本人にも聖域にも、苦言・苦情を再三申し入れていたのだ。嫌味も言いたくなるものである。

 この辺りの事情も聞かされているのか、アンシアは反論もせずうなだれた。

「そう……ですよね。その節は申し訳ありませんでした」

「ま、今はこの子で良かったと、もちろん俺も感謝してるけどな」


 ディングレイは顔を伏せたアンシアへ素っ気ない口調でそう伝え、次いで半泣きのケーリィンを見た。

 微かに口角を上げた笑みは、いつもの不遜なものとも、先ほどまでの嘘くさい爽やかなものとも違った。優しい笑顔だった。

「なにせリィンは舞を失敗したのに、赤いバラを青に変えて咲かせちまったんだ。それだけで、街を任せるに足る舞姫だと判断出来たよ」


 あの時ディングレイが何を考えていたのか、初めて知った。ケーリィンは目を丸くする。驚く彼女を見下ろすディングレイの笑みが、ほんのり濃くなった。

 ケーリィンを最初に認めてくれたのは、彼だったのだ。その事実に気付くと、彼女の涙もたちまち引っ込んだ。


 ケーリィンの強張っていた顔もほころんで、ディングレイへはにかみ笑顔を返す。

 初めて見る、教え子の心底嬉しそうな顔に瞠目どうもくしつつ、アンシアは前方からの自転車に気付く。

「ほら、ケーリィンさん。後ろ歩きは危ないですよ」

「あ、ごめんなさいっ」


 自分のおしめ時代を知る人物ににやけ面を見られた、と思うとケーリィンの背中に冷や汗がにじんだ。なのに顔は赤面する。

 真っ赤な顔を両手で仰ぎつつ、慌てて前方へ向き直った。そして彼女も自転車――に乗る絶世の美人を見つける。


 女神の如き女性も、ケーリィンと目が合い、すぐそばで停車した。

「おはようございます、ケーリィンちゃん」

「エイルさん、おはようございます」

 父親と違って礼儀正しい彼女は、自転車から降り、楚々と頭を下げる。


 そんな礼節をわきまえている彼女も舞姫を名前で呼ぶのは、ケーリィン自身がそう望んだからだ。様付けなんて柄じゃないので困る、と平身低頭おねだりしたのだ。

 その結果、今では彼女に好意的な住民のほぼ全員が、「ケーリィンちゃん」呼びである。

「これってある種の踏み絵だよな。名前呼び出来るほど、お前は舞姫を愛してるんだろうな!って具合の」

とは、人の悪い顔になったディングレイの談である。

 ケーリィンにそんなつもりは毛頭なかったので、なんとも不本意だ。


 舞姫の呼び方問題はともかく、エイルの優美で清楚な笑みに、アンシアも陶然となる。

 そう、エイルは男女問わずに魅了するのだ。魔術も用いず、持って生まれた顔面のみで。ちなみにほぼノーメイクだというから、末恐ろしい。

 本気で着飾った暁には、国家転覆も夢ではなかろう。


 ケーリィンがへどもどと、エイルとアンシアへ互いの素性を簡潔に伝えることにした。ディングレイに任せたら、かなり雑になるはずだ。

「エイルさん、こちらは聖域でお世話になっていたアンシア先生です。アンシア先生、こちらのエイルさんは、お世話になっている洋裁店の娘さんです」

 ケーリィンはそう言いながら「わたしって、誰かのお世話になってばかりだなぁ」と、どうでもいいことも考えた。たまには手取り足取り、誰かのお世話もしてみたい。


 二人の淑女は、丁寧なお辞儀を互いに贈り合う。

 興味もなさそうにそれを眺めていたディングレイだったが、エイルの自転車籠の鞄に気付いた。左眉をぴくり、と持ち上げる。

「おいエイル。学校はいいのか?」

 彼女は市内の大学に通っている、と以前聞いていたことをケーリィンも思い出した。エイルを見上げると、楚々と頷いた。

「今日の講義はお昼からなんです。その前に、ケーリィンちゃんへお伝えしたいことがありましたので、ちょうど神殿へ伺おうとしていたんです」

 ニコニコ言いつつ、エイルはケーリィンの頭を優しく撫でた。


「ケーリィンちゃん、父からの伝言です。ドレスの仕上がりも順調ですので、一度試着していただきたい、とのことです。近々、お店に来ていただけますか?」

「ありがとうございます! もちろんです!」

 ケーリィンは金色の目を輝かせ、何度も頷いた。間近に迫った市長との面談の際に、フォーパーのオーダー・メイド・ドレスを着る約束をしていたのだ。

 これはケーリィンが頼んだと言うよりも、

「男フォーパー、我らが舞姫の晴れ舞台を、麗しいドレスで盛り上げようぞ!」

と、面談の噂を聞きつけたフォーパー本人が、盛り上がったためだ。そして勝手に、ドレスの製作を前倒しにしてくれたのだ。


 たしかに彼は、変人である。だが、他の仕事もあるはずなのに、ケーリィンのドレスを最優先にしてくれたことは、心の底から嬉しかったし、ありがたかった。

 なにせ既製服も、全て見目好しで着心地も最高である。出来るだけ肌に縫い目が触れないよう、最大限の工夫が凝らされているのだ。

 卑屈なケーリィンだが、フォーパーのドレスを着れば自信が持てる気がした。


 喜色満面の教え子と看板娘を、アンシアはしげしげ眺める。

「ケーリィンさんは、街の方からよく頭を撫でられているんですね」

「そういえば」

 彼女の指摘で、ケーリィンもハッとなった。

 たしかにこの街へ来て以来、色々な人から頭を撫でられる。何故なのか。


 その震源地であろうディングレイへ目を向けると、事も無げにこう言い切った。

「思わず撫でたくなる、後頭部のフォルムなんだよな」

 訳が分からない。

「あ、分かります」

 にもかかわらず、エイルもすぐに賛同する。


「撫でるとケーリィンちゃんが嬉しそうにするから、つい……それになんだか、ご利益もありそうで」

「な、ないと思います、けど……」

 そんな望みを託されていたのか、とケーリィンは戦慄するが、撫でられること自体は嫌でなかった。

 元々孤児で、誰かに甘えた経験も少ない。スキンシップに飢えている彼女にとって、頭を撫でられることはすなわち、ご褒美でもあった。


 本来であれば舞姫は、尊ばれるべき存在である。あまりマスコット扱いされるのは、よろしくない。

 しかし撫でられている当人も幸せそうなので、まあいいかとアンシアも苦笑するに留めた。