ケーリィンはエイルにしこたま撫でられた (頭だけでなく、何故か顎も撫でられた)後で来店日を取り決め、学校へ向かう彼女を見送った。
大学生に、洋裁店の店員、そして男ヤモメで社会不適合者な父に代わっての、家事担当。
多忙なはずなのに、エイルはいつもニコニコしている。
「エイルさんって、美人で恰好良いですよね。お店でもテキパキされて」
ぽんやり、とケーリィンは呟いた。
ドレスの素材やデザインを決めるため、何度か洋裁店を訪れていたが、いつも彼女の接客にはそつがないのだ。
ふん、とディングレイは鼻を鳴らす。
「親父がああだと、子どもは嫌でも自立すんだろ」
「あー……」
否定は出来ない。ケーリィンは半笑いになる。
「その逆を行ってるのが、この酒屋のドラ息子だな」
ちょうどバレイユ酒店の前を通りかかったので、ディングレイは冷めた目をそちらへ向けた。
「親父さんは商売上手の敏腕だが、息子があれじゃあな。先が思いやられるぜ」
ケーリィンもドラ息子こと、レーニオには痛い経験を与えられた。苦笑を浮かべ、小さく肩をすくめる。
聡いアンシアは、気遣わしげに二人を見た。
「その方と、ケーリィンさんの間に……何かあったんですか?」
「あ、いえ、大したことではないのですが……ちょっぴり、息子さんから嫌われちゃって……」
苦笑いのまま歯切れも悪く答えるケーリィンに、ディングレイが補足する。
「それも逆恨みでな。先代舞姫とドラ息子の間でひと悶着あって、まだ向こうが引きずってるだけだ」
吐き捨てるように言われた言葉に、アンシアも陰鬱な表情になる。
「まぁ、そうだったのですか……先代がご迷惑を掛けてしまった方々にも、聖域から謝罪を行うべきですね……」
「あー。いらねぇ、いらねぇ」
苦い顔で、ディングレイが手を大きく左右に振る。
「今でも恨んでる連中の大半が、先代に粉掛けられて本気にしちまった奴だ。あの女の本性も見抜けなかった奴らも悪いだろ」
所帯持ちもいたって言うのによ、と吐き捨てるように言った。
それが聞こえた訳でもなかろうが、酒店の扉が開いた。思わず、ケーリィンが両手を胸の前で握りしめ、身構える。
彼女の警戒は無駄にはならず、出て来たのは店主でも客でもなくドラ息子その人だった。なんとも間が悪い。
箒とちり取りを持っていたレーニオは三人を見つけ、飛び上がらんばかりに驚く。そしてすぐさま、ケーリィン以上に身構え、へっぴり腰で敵意を丸出しにした。
「なんだよ、何しに来たんだよ! あっ……まさか……」
ケーリィンたちが釈明する前に、レーニオの枯葉色の目に怯えが灯った。彼の視線はアンシアの着ている、教官用の濃紺のドレスに注がれている。
それは一見すると飾り気のない、地味なドレスである。しかしスカートの裾を縁取るように、聖域の象徴である白百合の刺繍が施されていた。
この刺繡によって子どもであっても、彼女が聖域関係者だと一目で分かるのだ。
すっかり青ざめたレーニオは、裏返った声で叫ぶ。
「ぼっ……僕のこと、聖域に言いつけたんだな! 卑怯者ぉ! 僕は悪くないぞ! 向こうが欲しいって言ったから、だから!」
ケーリィンには、彼の絶叫の意味が分からなかった。
彼女は彼から、悪罵以外に何も受け取っていない。もちろん何もねだっていない。
そうなると、ねだった人間は――
「お前、何言ってやがるんだ? 先代に何を貢いだんだ?」
ディングレイから、冷え冷えとした空気が発せられる。それは比喩表現などではなく、事実であった。
氷の粒混じりの冷気が、彼の全身から発せられ、レーニオの体へとまとわりついた。
レーニオが情けなくも、甲高い悲鳴を上げた。
「えっ、なにこれ? なんなの? やめっ、だって僕っ……僕も、被害者じゃないか!」
「寝言言ってんじゃねぇ! 無関係なのにてめぇに罵倒され続ける、リィンが一番の被害者だろ!」
レーニオは反論できなかった。
もはや喉の奥から、ヒュー……と無意味で物寂しい音しか出せずに、下肢や腕を氷で覆われていく。
湖の主である、リズーリのちょっかいに応戦した時と同じ、氷の魔術だ。
「だっ……駄目ですっ! レイさん、落ち着いて!」
ケーリィンは焦りながら、魔力の放出を止めない護剣士の胴にしがみつく。
「レーニオさんが凍死しちゃう!」
実のところケーリィンだって、レーニオに好感情は一切抱いていない。
だが、殺したいほど憎んでもいない。出来れば関わり合いになりたくないな、という位置づけなのだ。
そんな相手に対して、ディングレイが手を下すのは嫌だった。
舞姫としては最低の考え方かもしれないが、それでもディングレイのため、彼を必死に制止する。
何故ならば、彼はきっとケーリィンのために怒って、こんな荒っぽい手段に出たのだから。
駄々をこねる子どものように、彼に抱き着いて揺さぶれば、レーニオをねめつけていた視線がこちらへ向く。途端に、眼光の殺気が緩んだ。
すると魔力も途切れ、レーニオを覆っていた氷も溶ける。
氷が消えたのではなく溶けただけなので、彼はずぶ濡れのままだ。下半身を重点的に凍らされたため、まるでお漏らししたかのようだ。きっと、わざとだろう。
だが本人にも、そんなことを気に掛ける余裕はないらしい。その場にへたり込み、安堵の息を吐いていた。
「お話を聞かせては、いただけませんか?」
彼の呼吸が落ち着くのを待って、アンシアが前へ出る。
疲れと怯えにまみれた表情が、彼女を見上げる。
「あなた、僕を調べに来たんじゃ……ないの?」
「ええ。私はこちらの、ケーリィンの元教官です。彼女の様子伺いに参っただけの身ですので、今この場で貴方を罰する気持ちも権利も、一切ございません。どうか、先代との禍根について教えていただけませんか?」
教育者然とした、優しくも凛々しい声音に促され。
レーニオは青ざめた顔のままだが、ゆるゆるとうなずいた。
「……店の中、でいいですか? 今、中にいるの、店番してる僕だけなんで……」
「もちろんです。ご協力感謝いたします」
レーニオが笑う膝を抑えて立ち上がり、ゆるゆると店の扉を開ける。笑顔のアンシアが、それに続いた。
ディングレイとケーリィンも、その少し後を並んで歩く。
「さっきは、悪かった。いい加減、あいつに腹が立って」
ばつが悪そうに、ディングレイは視線を落としている。
「ううん。怒ってくれたの、嬉しかったです」
ケーリィンは笑って首を振る。
続いて背伸びをして、うなだれる彼の頭を控えめに撫でた。ふわふわとした見た目の通り、柔らかい髪質だ。
薄青の瞳を大きく見開き、ディングレイは彼女を凝視した。が、撫でる行為は拒否されなかった。
「……ありがとう」
褐色の肌を僅かに赤らめた彼は、平素以上に低い声でぼそりと、そう言った。
彼に受け入れてもらえたことが嬉しくて、ケーリィンも頬を染めてはにかむ。