17:思いがけない来訪

「レイ君、ケーリィンちゃん、すまん。パンを買い忘れておった」

 ケーリィンたちが空きっ腹で食堂へ戻れば、ぺろりと舌を出したロールドの無慈悲な言葉が待っていた。

 ケーリィンはたまらず、膝から綺麗に崩れ落ちた。

 床に両手をついてうずくまった彼女のお腹が、ぐぅと一声鳴く。その音すら物寂しい。


「ジジイ、さっさと買いに行って来い。もちろん全力でな」

 腕組みするディングレイが剣呑な顔で恫喝を行うも、言っていることは一応真っ当である。

 しかしロールドは、わざとらしい苦悶の表情で額を抑え、首をふりふり。

「行きたいのはやまやまじゃが……それが丁度、ローストビーフとソースを作っている途中でな。代わりに買いに行ってくれんかね? 好きなお菓子も、一緒に買ってくれてかまわんよ?」

 最後の一文はニコニコの揉み手で、ケーリィンに向けて。


 なお大食漢かつ肉食のディングレイのため、神殿では朝昼晩関係なく、食卓に肉が並ぶ。

 ケーリィンは舞姫であるが聖職者ではないし、男性陣も大雑把に言えば中央府の職員――つまるところ公務員なのだ。

 故に肉食、なんら問題なしである。


 また神殿の最寄りのパン屋には、焼き菓子やプリンも売っている。

 ケーリィンはそこの、卵の風味たっぷりの固めプリンが大好きなのだ。

「行きます!」

 プリンの誘惑と、根っからの下っ端根性によって、彼女は奮い立った。


 そもそも、パン屋は歩いて五分圏内。ウジウジと言い合っている間にお使いへ行く方が、無駄もない。

 ケーリィンは舞姫の身辺警護が仕事であるディングレイも伴い、足早に外へ出た。まだ彼は、ちょっとだけ不服そうであるが。

「……クソジジイめ、肉を盾にしやがって。肉さえあればどうにかなると思ってそうなのが、腹立つんだよ」

 道すがら、ディングレイが仏頂面で繰り出す愚痴に、ケーリィンはつい笑ってしまった。

 彼女も靴を履いての生活に、少しずつだが慣れて来ていた。

 しっくり足に馴染む編み上げ靴で、歩道に敷かれた石畳を踏みしめながら、ディングレイと並んで歩を進める。


「ケーリィンお姉ちゃん、おはよー」

「ジルグリットさん、おはよーございまーす」

 通学途中の学生たちに出くわせば、若さゆえの馴れ馴れしさで声をかけて来てくれた。思い切り手も振ってくれている。ケーリィンも微笑んで手を振り返した。

「おはようございます。試験、頑張ってくださいね」

「えー、やだー! ――って、うそうそ。今回はお姉ちゃんのおかげで、自信あるんだ」

「はい、その意気ですっ」

 神殿の図書室で試験勉強に付き合った女子生徒は、おどけつつも、最後は満点の笑顔で宣言する。


 一方のジルグリットは

「おい、お前ら。もう拾い食いすんじゃねぇぞ」

「するわけないじゃないっすか!」

「そーですよー!」

「毒キノコ生食して、死にかけたヤツがよく言うぜ」

女子生徒より、そこはかとなく呑気顔の男子生徒たちに呆れつつ、それでも小さく笑って彼らを見送った。


 パン屋を視界に捉えたところで、ケーリィンは見慣れぬ一団が店から出て来るのに気付いた。

 ケーリィンは市民の顔を、大雑把にだが把握しつつある。ドサ回りが功を奏しているのだ。

 そんな彼女でも見覚え皆無な集団は、皆が大きな鞄を手にしていた。旅行客だろうか。よくよく観察すれば、先頭を歩く人物が旅行雑誌を手にしている。


 彼らとすれ違い、豊かな香りが漂うレンガ造りのパン屋へ入店する。扉の上に備え付けられたカウベルが、カラランと軽快に鳴った。

「あら。ケーリィンちゃん、ジルグリットさん、いらっしゃい」

 朝の七時から営業しているパン屋の女主人は、ケーリィンを目にして破顔する。

 まめに顔を見せているおかげか、彼女の夫が作るプリンへの感想を熱弁したおかげか、パン屋夫妻は新しい舞姫に好意的だ。


「おはようございます、おかみさん」

 ケーリィンもにっこりと、ディングレイも軽い会釈を返す。

 女主人に今日のおすすめパンを尋ねつつ、先ほど見かけた一団について触れた。

「さっきのお客さんたちは、旅行の方ですか?」

「そうそう。なんでも旅行雑誌に、ウチの市が紹介されてたんだってさ」


 穏やかにくつろげる、おとぎの国のような家が並ぶ街――そんなフレーズで特集記事が組まれたのだという。

 記事には、このパン屋も掲載されていたらしい。その甲斐あって、先ほどの団体客以外にも、何組か観光客が来店しているという。


「ちょっと前まで、宿なんて一組貸し切り状態が多かったらしいのに。今は三ヶ月後の予約も埋まってるそうよ。可愛い舞姫様のおかげね」

 女主人は艶やかな頬を緩め、とても嬉しそうだ。

 焼き立てパンを陳列しに来た彼女の夫も、柔らかい笑顔で付け加える。

「そうだな。ケーリィンちゃんが来てくれてから、街もなんとなく、明るくなったよなぁ」


 ケーリィンは幸福感で、つん、と鼻の奥に鈍い痛みを覚えた。慌てて目じりを拭い、二人に笑みを返す。

「お役に立てて、嬉しいです」

「あんたのおっちょこちょいな踊りでも、効果あったんだな」

 からかい混じりに、ディングレイがケーリィンの赤らんだ鼻を軽くつまむ。

 が、女主人が豪快に笑いながら、彼の腕を平手で連続殴打。その振動が指越しに、ケーリィンにも伝わる。

 これは痛そうだ。

「やっだー、ジルグリットさんったら! 照れ隠ししちゃってー! ほんとは自分も嬉しいくせに!」


 訳知り顔で腕を組み、夫もうんうんと首を上下させる。

「前の舞姫様ん時は、いつも怖い顔をして、野良犬みたいに警戒心丸出しだったのにな」

「丸くなっちゃってねー、もう、ほんとに。今はぬくぬく育った座敷犬――じゃなくて座敷猫? ううん、座敷山猫って感じよね」

「おっ、なんか新種の山猫みたいだな」

 女主人の言葉で、夫が軽快に笑った。


 ディングレイが大型の猫っぽいという印象は、どうやら共通のものらしい。

 ついでに言えば彼の警戒心の強さは、ケーリィンにも覚えがある。

 だって彼女も、初対面で露骨に疑われていたのだ。ただあれに関しては、聖域側の不手際が原因だとケーリィンも断定できるけれど。


 ケーリィンがそんなことを考えながら隣を見上げると、苦虫を頬張ったような凶相で耐えるディングレイがいた。照れているのか。それとも未だ続く、女主人の張り手が思いのほか辛いのか。

 おそらく両方だろう。


 女主人も夫も、人好きのする性格だ。それに、ケーリィンにも偏見なく接してくれる。

 しかし接客業故か、あの年齢層特有の性質なのか、女主人は話が長い。とにかく長い。

 ケーリィンは空腹を抑えてしばらく世間話に付き合っていたが、ディングレイが先に「空腹で死にそうです」と珍しく丁寧語で根を上げてくれたので、暇を告げた。


 結果、帰り道でもディングレイはぼやく羽目になった。ただ行きに比べ、声に元気がない。

「あの人は、喋り続けないと死ぬのか……?」

「そんな、マグロじゃないんですから」

 慌ててケーリィンが否定した。マグロは泳ぎ続けていないと死ぬ、と彼女も聞いたことはあった。

 しかし彼の仮説を、根拠なしの妄言と言い切れる自信はなかった。沈黙している女主人の姿が、記憶になかったのだ。


 頑張って脳内を掘り起こしているケーリィンの横で、ディングレイが形の良い鼻をすん、と小さく動かした。続いて首をひねる。

「おい、リィン」

「はい、どうしました?」

「甘いパンって買ったか? 蜂蜜使ってるヤツ」

 唐突で、しかも意図がよく分からない問いだ。そもそも一緒にパンを選んだのだから、紙袋の中身は知っているだろうに。


 しかし律義なケーリィンは、二重に折られた紙袋をディングレイから受け取る。そして紙袋の口を開き、中を覗き込んだ。

「いえ。バゲットとくるみパンと……あ、プリンならありますけど」

 甘さに飢えているのかしら、と推測して、そう付け足す。プリンはちゃんと、三人分買ってある。


 しかしディングレイは苦笑して、首を軽く振った。

「変なこと訊いて悪かった。甘い匂いがしたから、少し気になっただけなんだ」

「甘い、匂い?」

 ケーリィンは全く気付かなかった。だが護剣士は、舞姫を守るために身体能力や五感を強化されている、と聖域で習った記憶がある。

 彼女が気付かぬ、小さな変化も見落とさなかったのかもしれない。


 ただ蜂蜜の香りが自分たちの危険に結びつく、とは思えなかったので。ふんわりと、ケーリィンは笑った。

「どこかのお家で、ケーキを焼いてるのかもしれませんね。レイさんもお腹空きました?」

「ああ。毎日、朝六時には起きてるからな。今もめちゃくちゃ減ってる」

 初耳だ。ケーリィンはいつも七時に起床し、三十分ほど早朝練習に費やしている。


 ケーリィンは驚きで大きく開いた口を手で隠しつつ、しげしげと彼の仏頂面を見上げた。

「レイさんって、そんなに早起きだったんですか?」

 ディングレイは唇を尖らせて、ついと肩をすくめた。

「そうなんだよ。昔から寝起きだけは良いんだよな、忌々しいことに」

 どうやら訓練学校時代の起床時間が、未だに抜けないという。


 本人は不本意そうだが、ケーリィンは彼に尊敬の眼差しを向けた。金色の瞳がキラキラ輝いている。

「わたしは目覚まし時計を使っても、なかなか起きられないので。うらやましいです」

 ディングレイが薄青の瞳を瞬かせた後、ニヤリと笑った。

「そうか? なんだったら、今度から起こしてやろうか?」

「えっ! いいんですか?」

「あんたに起きてもらわねぇと、俺も困るしな。仕事のついでだよ」

「ありがとうございますっ」

 そんな実りのない、しかし穏やかな会話を交わしながら、二人は神殿に戻った。


 そこで待っていた人物に、凪いでいたケーリィンの心が微かに沸き立った。

「アンシア先生!」

 神殿に入ってすぐの、礼拝堂前の広間でロールドと立ち話をする女性は、聖域でお世話になっていたアンシアであった。

 驚きと嬉しさをにじませ、ケーリィンは彼女へと小走りで駆け寄る。

「お久しぶりです、どうされたんですか?」

「お久しぶりです、ケーリィンさん。元気そうで何よりです。今日は、こちらをお渡しに伺いました」


 かつての教え子に微笑む彼女は、片手に仰々しい封筒を持っていた。ご丁寧に、赤い封蝋も施されている。

 聖域からシャフティ市への、公式の謝罪文書であった。