舞姫へ悪感情を抱いているのは、レーニオ青年に限ったことではない。少なくとも、ここシャフティ市においては。
それほどまでに、先代舞姫は在位期間のたった六年間で、独裁者もかくやの活躍を見せていたのだ。
舞姫であることを盾に、様々な飲食店で無銭飲食を繰り返し。
神殿の維持・管理費を無断で持ち出し、贅沢品を買い漁り。
日課の踊りを放棄し。
自分より美人な市民には、会うたびに罵詈雑言、時には暴力を繰り出し。
酔って暴れ。
見目麗しい男性市民数人~十数人と、同時並行に交際し。
また彼らに、金銭や装飾品といった貢物を要求し。
そして貢物が滞れば、態度を豹変させ、彼らを足蹴に追い払うのだそうだ。
ついでに言えば、最大十四股の中にディングレイの元同僚である、護剣士も含まれていた。
彼は市民と舞姫との、ドロドロ愛憎劇を二年に渡って繰り広げた結果、「護剣士として不適格」との烙印を押されて降格処分となった。
現在は南方諸島にある軍施設で、警備職に就いているという。ちなみに護剣士は、化け物級のフィジカルがないと就任できない軍部の花形職だ。
自業自得とはいえ、なんという転落人生だろうか。
レーニオから罵倒を受けた今、先代の所業をやんわり隠していても仕方がないだろう、とロールドとディングレイはケーリィンに諸々ぶっちゃけた。
二人の私見や、個人的な恨みも一部交えながら、かなり詳細に。
聖域では考えられないような悪辣舞姫ぶりに、当初ケーリィンは青ざめていたが、徐々に二人の恨みが伝播し、最終的には一緒になって怒っていた。
どれだけ街の人をコケにしたんだ、酷い、と淡い金の瞳に義憤の炎を灯す。
護剣士と神殿管理人と新米舞姫の心が一つになったところで、ある対策が打ち立てられた。
「新しい舞姫様は有害どころか有益ですよ、つまり
市内のあちこちを回りながら、市民と言葉を交わし、根気強くケーリィンの人柄を浸透させるという、政治家の挨拶回りのような作戦である。
地道なことこの上ない泥臭い作戦だが、先代の残した爪痕は深い。それを癒すには、相応の長い時間と根気が必要なのだ。
ディングレイの運転する車で市内を巡り、至るところで冷たい悪意の視線にさらされながらも、ケーリィンはじっと耐えた。
大丈夫、今の自分には逃げ場所も、理解者もいる――そう己を鼓舞し続けた。
また時には、嫌味や暴言をぶつけて来る住民へプッツンする、ディングレイの存在に助けられつつ、彼を宥めていた。
もちろん、ただ闇雲にドサ回りをしているだけではない。
実は有能で数多の人脈を持つロールド翁は、市長との面談も取り付け、そこへ複数の新聞社も同席させるよう手配してくれた。無害で有益と、宣伝するにはもってこいである。
ケーリィンはそれに備え、そして少しでも街が元気になることを祈りつつ、ほぼ無人の礼拝堂で毎日踊り続けた。
レーニオの宣言通り、今まで舞姫の舞曲を演奏してくれていた楽団は、礼拝への参加に拒否を突き付けて来た。
そのため新舞姫お披露目の目途も、未だ立っていない。ロールドは大変悔しがっているが、ケーリィンは実のところ安堵もしている。
なにせ未だに、踊るたびに毎回転んでいるのだ。シャフティ市に災厄が降り注いでいないのが、不思議なほどに。
唯一の観客 (というよりも、その鋭い眼光は審判に近い)であるディングレイは、披露二日目にして繁栄祈念の舞を覚えた。
先代がアレだったため、きちんと舞を見るのはこれが初めてということだが、凄まじい動体視力と記憶力である。
だがそのおかげで、三日目には彼女が転ぶ前に舞台へ駆け上がり、受け止められるようになっていた。
もはや彼は観客でも審判でもない。外野手だ。
彼女が着任して二週間目の今日も、尻もちをつきそうになった彼女の下へ滑り込み、危なげなく受け止めた。
「本当に毎日、ごめんなさい……」
いつものように膝に乗せられ、ケーリィンはうなだれる。もはや彼のやや過剰なスキンシップに、文句を言える立場ではない。膝がなければ、木床に尻を強打しているのだ。
毎日強打していれば、近い将来、尾てい骨骨折という事態に陥りかねない。
一週間目の時、彼から
「毎日違うところでトチるんだな。特定の振り付けが苦手、というわけじゃねぇみたいだ」
との指摘を受け、そして今日は
「気になったことが二つある。言ってもいいか?」
二点の注意があるらしい。毎日練習しているのにどうして増えるのだろう、と己の不甲斐なさにめまいがしつつも、ケーリィンは頷く。
「はい……」
「気になったことの前に、一つだけ確認だが。あんた、俺の方を見てないよな」
「えっ?」
ぱちくり。ケーリィンは目を瞬かせる。首をかしげると、ディングレイは小さく笑う。
「なんだ、自覚なしか。踊ってる最中、あんたの視線はいつも遠い。たまにこっちに顔を向けても、俺を通り越して礼拝堂の壁を見てる感じがするんだ。トランス状態ってヤツか?」
ケーリィンは頭を抱え、踊っている最中の自分を振り返るも、いつも真っ白、無我の境地である。
「うーん……いつも無我夢中なので……」
「それは見てても分かる。で、ここからが気になる点だ」
ディングレイはぴしり、とケーリィンの困り顔を指さした。
「なのに失敗する時は最初に顔を強張らせて、その後で足が滑稽な動きになってる。俺の言いたいこと、分かるか?」
「転び方が喜劇役者みたい……ですか?」
ディングレイはしばし、渋い顔で沈黙する。
「うん、それもあるけどな」
「あるんですね」
「それより気になったのは、あんた、本当は観客の視線に怯えてるわけじゃないだろ? だって見てない客のことなんて、頭からすっぽ抜けてるはずだ」
「あ……」
「何がそんなに怖いんだ?」
揶揄の色など全く見せず、怖いぐらいの真顔で顔を覗き込まれる。空色の瞳をじぃっと見つめ、ケーリィンは考える。
指摘され、考え、ようやく気付く。
ディングレイの指摘通り、舞の最中は余裕が皆無なため、彼の存在が脳裏から消えている。綺麗さっぱり、跡形もなく。
そして失敗の引き金も、彼――すなわち目の前の観客ではなかった。
失敗をもたらすものは、過去だった。
「まあ! いやだわ、みっともない! あなた、それで踊っているつもりだったの? 身なりも顔も貧相だから、物乞いでもしているのかと思ったわ!」
気付いた途端、すぐ目の前で嘲笑われているかのように。
ヴァイノラの嘲笑と、取り巻きたちの媚びた哄笑が、生々しく蘇った。
聖域で、舞の練習の際に笑われた記憶だ。
昔話と一笑するにはまだ新しく、
それが閃光のように脳裏で煌めくと、身体は途端に硬直するのだ。ケーリィン本人も気付かぬ内に。
自分は彼女たちに、どれだけ縛られているのだろう。
そう思うと、柄にもなく自嘲めいた笑みがこぼれた。
「……思い出の観客に、怖がってたみたいです。レイさんに言われるまで、気付きませんでした」
「なんだ? 酔っ払いのオッサンにでも絡まれたことがあるのか?」
心配そうに眉をひそめる彼へ、ケーリィンは柔らかく微笑む。
「わたしは聖域育ちですよ? 男の人に会うなんて、ほとんどなかったです」
「そうだった、悪ぃ」
いいえ、とケーリィンは首を振る。
「観客は、一緒に育った舞姫でした。わたし孤児で、何をやってもドジだったから、よく目を付けられていたんです」
「それでいじめられてた、ってことか……舞姫の割に、性根の腐った連中が多くねぇか?」
舌打ち交じりの彼は、凶悪そのものの顔になっている。不機嫌な彼は、本当に恐ろしい。
だが彼の機嫌を損ねているのは、ケーリィンをいじめた舞姫たちである。彼女はそのことが、卑しくも嬉しかった。
だから心に余裕が生まれ、やんわりとだが、ヴァイノラたちを擁護するも出来た。
「特権階級って言うんでしょうか。子供心にも、周囲の大人が自分たちを特別扱いしてるのが、伝わるんです。舞姫は偉い、大事なんだって――だけどみんな子供ですから、敬われていることに感謝できなかったんだと思います。それでそのまま大きくなってしまう舞姫も、いるのかもしれません」
「リィン」
ディングレイが静かに彼女を呼んだ。まだまだ慣れない愛称呼びに、ケーリィンは耳まで赤くなる。
じっと彼女を見据えるディングレイは、怒っているように銀色の眉を寄せている。
「あんたもその中の一人だ。少なくとも、俺は――俺と爺さんは、あんたを大事に思ってるし、来てくれたことに感謝してる」
いつも斜に構えていることが多いディングレイだが、時折こうやって真っ直ぐな好意を伝えてくれる。
それはいつも、ケーリィンの心を温かくした。
「ありがとうございます。わたしもレイさんたちのこと、大好きです」
照れたようにそっぽを向き、ディングレイは癖だらけの髪をガシガシかき回した。
続いてケーリィンの頭も、豪快に撫でる。もはや慣れたその動作に、ケーリィンも頭をぐらぐらさせながら、彼の好きに任せた。頭を撫でられるのは、ケーリィンも嫌ではないのだ。
「まぁ、だから、なんだ。あんたが笑われる
それもそうだ。綿あめみたいになった髪に手櫛を入れながら、ケーリィンも笑う。
「はい、そうですね――あ、もう一つの気になったことは何ですか?」
ほっこりしたまま、聞き逃すところであった。
市長との面談が、二週間後に控えている。そこで舞を求められる可能性は高いので、気がかりは少しでも減らしたい。
ディングレイが、少しばかりばつの悪い顔になった。
「あー、まあ。些細なことなんだけどな」
「些細でも構いません。教えてください」
躊躇を見せる彼に、ギュッと拳を握って強く乞う。
息を一つ吸って、彼は改めてケーリィンを見つめた。
「なんでいっつも、白のパンツなんだ?」
「パッ……?」
一瞬の思考停止の後、ケーリィンの顔は耳まで赤くなった。
はくはくと無言で口を開閉する、言葉を失った彼女に構わず、ディングレイは普段通りの遠慮のなさで続ける。
「正直眼福だったから、転ぶたびにパンチラしてるの黙ってようかと思ったんだが。でもほら、たまにはレースとか、色物も可愛いんじゃって──痛ぇ痛ぇ」
真っ赤になったケーリィンは言葉の代わりに、彼の手の甲を思い切りつねった。
たおやかな外見に反し、ケーリィンの握力は強い。聖域の清掃活動で培った、雑巾絞り技能のおかげである。
彼女が絞った雑巾は全く水が滴らない、と称賛されたねじり技術を駆使しつつ、涙目でがなった。
「レイさんのバカぁ! しかも、些細じゃないです!」
「いや、モロに見えたわけじゃねぇぞ? 転ぶ時にチラッと見えるだけなんだから、些細だろ」
「チラッでもヤなの! なんですぐ、教えてくれないの!」
「俺へのご褒美に見せてくれてんのかな、と」
「そんなわけないでしょ!」
つねりを止め、代わりに一つ、手の甲を強く叩く。そして膝から降りようとするも、それは叶わなかった。
暴れる猫を捕獲するように、後ろから抱え込まれる。
なおも抵抗するが、雑巾絞りごときで鍛えられた舞姫と、実戦で鍛えている護剣士とでは力比べなど無意味である。しばらくジタバタした末、ぐったりとケーリィンは諦めた。
踊った直後の上、朝食もまだなのだ。
不貞腐れた顔で手足を放り出したケーリィンに、ディングレイは笑いを堪えつつ、
「悪かったよ。今度、可愛い下着買ってやるから」
「下着の話はもういいの!」
謝罪ではなく更なる燃料投下をかましてきたので、顔だけ持ち上げ、歯を見せてうなった。
彼女は本気で怒っているのに、ディングレイはとうとう声を上げて笑った。
何故まだ笑うのか、とケーリィンは釈然としない思いを抱いた。また同時に、彼にも随分慣れたものだと気付いてふと、遠い目になる。
最初は射殺さんばかりの表情に、怯え切っていたのに。
今では不機嫌顔程度なら、さらりと受け流せるようになっていた。
また、自分がこんなにもズケズケ文句を言う度胸があったなんて、知らなかった。
ただこれはきっと、自分が怒っても受け止めてくれる、彼の度量に救われている部分もあるのだろう。
そう考えて、自分を抱えている彼の右腕――の赤くなった手の甲を、優しくさすった。感謝と、少しやり過ぎたかもしれない、という謝罪も込めて。
もちろん黙って人の下着を鑑賞していたことに関しては、生涯忘れないが。
明日からは見られてもいいよう、オーバーパンツを履こう、とケーリィンは心に誓った。