それからシェリーは、翡翠と久し振りの東部の土地を散策した。目に触れるものが新鮮で、肌を撫でていく風が優しく感じられるのは、体調がみちがえたせいだろうか。今にして思えば、最近まで、やはり本調子ではなかったらしい。
二人は移動基地に戻ると、節約のために保存食で腹を満たして、入れ替わりにシャワーを浴びた。
シェリーが髪をドライヤーしていると、寝間着に着替えた翡翠が扉をノックしてきた。
「行きたいところ、決めたよ」
シェリーは翡翠が座れるだけの余裕を空けて、寝台に腰を下ろした。
座ると、翡翠が話を始めた。
「西へ行きたい」
それは、少なくともシェリー一人なら、考えたこともなかった選択肢だった。昔は仕事で遠出することはあっても、個人的に東部を出たことはなかったし、目覚めたあとも、今日まで西は遠い世界に思えていた。そう言えば、西には何があるのだろう。シェリーがモモカをちらと見ると、彼女が何か言いかけた。
翡翠が、話を続けた。
彼女の横顔、そして声音は、緊張しているようにも興奮しているようにも感じる。
「世界がこんなになったのは、西に棲む戦争を司る悪魔の仕業なんだって」
その突拍子もない発言は、まるで方程式の話でもしているくらい真剣で、妙な説得力を伴っていた。
「それは、都市伝説?」
つまり、翡翠は千年前で言うところの、ミステリーツアーのようなことがしたいのだろうか。
もちろん彼女がそうしたものに興味を持っているなら、シェリーは喜んで付き合うつもりだ。幸い、オカルトは恐怖の対象ではない。
「本当に悪魔がいるんだ。正体は分からない。西へ向かった旅人達は、一人も帰らなかったから。こんなにネットも発達した世の中なのに、不思議でしょ?捕まったという話も聞くし、悪魔に食べられたんだと予想している人もいる。天国みたいにいいところで、外の世界が嫌になったんだって話も」
「悪魔は、どんな姿をしてるの?」
「さぁ。だから、世界をこんな風にしたやつらがどんな風か突き止めて、戦争の原因を暴きたい。だって、人類滅亡の危機のせいで、私もかけがえのない人達を亡くした。畑をなくしたカケルくんに、それに、シェリー……嫌になるほど、悲しみを見てきた。受け身で悲しんでばかりいるより、せめて原因が知りたいよ」
翡翠の希望は、シェリーが納得出来るだけのものが備わっていた。
シェリーも今のままでは納得いかない。
戦争さえ起きなければ、千年も目覚めを遅らせないで済んでいた。注射剤一つ手に入れるのに、サバイバル並みの苦労を強いられることも、翡翠のような第三者を巻き込むこともなかった。
何より、悪魔などいない。ある種の職業病だが、本当に人智を超えた何かが西にいるなら、その正体を科学的根拠で解明したい。どうせ怪しい黒魔術師や宗教家、治安の悪い村にまつわる噂が、尾鰭を付けただけだろう。
「そう言えば……」
にわかに、モモカが会話に割り込んできた。彼女が寝台によじ登って、シェリーの膝に飛び乗る。
「シェリーの両親は、西に埋葬されているのです」
「本当?!」
「はいです。モモカはずっとここにいて、親族の皆さんの出入りも見てきたですから、確かなのです。地図もばっちり保存しているのです」
「それ、じゃあ……」
会話こそもう出来なくても、あの優しかった二人のために、まだシェリーに出来ることが残っていたということになる。それが墓参でも、するのとしないのとでは違う。
「でも、長期になるわね。そんなに遠くまで、翡翠は大丈夫なの?」
「どんなに遠くても、決意は固いよ。悪魔の正体を見てやりたいし、懲らしめたい。シェリーの負担じゃなければ、だけど……」
負担になるわけがない。
それに、シェリーはどこか安心していた。翡翠の顔は、昼間よりずっと晴れやかだ。ここ数日、彼女はこの件で悩んでいたのかも知れない。彼女を利用しようという気はないが、その悩みは、シェリーには都合が良かった。命だけは途方もなく延びて、したいことも見付かりそうになかった今、何か目的でも立てなければ寂しさに押し潰されそうだった。さもなくば、なくしたもののことばかり考えてしまう。
「行こう、翡翠。西へ」
シェリーは、きっとお化け屋敷に入っても、お化け役の係員に話しかけるタイプだ。それでも翡翠に共感していた。西へ行けば、何か変えられそうな気がする。