だがそれは、後になってみると、的を射ていたことは彼にも否めないのだ。
確かにそれから会う相手全て、彼をこよなく愛してくれた。それは彼にも判るのだ。
だが、その気持ちにどうしても「足りない」と思ってしまう自分が居るのだ。
ショウケースの中の相手に、布由はつぶやく。
「俺はお前のところへ戻ってきたんだ」
そうだった。
あの夏の、あの時の、強烈な、自分をがんじがらめにするほどの思い。
強烈すぎて、その瞬間、彼が恐れたその思い。とりあえず記憶の、意識の底に閉じこめなくてはならなかったほどの。
封じ込めたその思いは、表面に出てこないに関わらず、布由の何処かを変化させた。彼は、比べてしまっていた。無意識のうちに。
愛しているのよ。
その時の相手が言う。彼は無意識のうちに問う。
どのくらい?
あの「彼女」と同じくらい俺を愛してくれる?
大気中の、声を止めてしまうくらいの。
都市一つを、閉じてしまうくらいの。
そんな無謀さや身勝手さで、俺を愛してくれる?俺の全身を総毛立てるくらいの恐怖を見せてくれる?
そしてそのたびに彼は違う、と思ってしまうのだ。
「俺を全部やる。お前に全部やる。俺を捕まえて、お前の中に取り込んで構わないから俺を抱きしめて。お前のその思いで」
目を閉じる。ケースの端にかけた手を組み合わせる。力を込めて握りしめる。まるで祈りの様に。
……何かが自分の額に触れている。
そして布由は顔を上げた。
ゆっくりと、目の前の身体が動き出す。ゆるゆると上げた手で、HALの身体を支配した「彼女」は、布由の額に触れていた。手は次第に下へ動いていく。
『……声を』
聞き覚えのある、本物の声。だがそれはHALの声ではない。「彼女」の声だった。
そして「彼女」は上体をゆっくりと起こす。布由は顔を上げる。
『お前の声を、聞かせて』
あの時とは、やや印象が違うが、その中に含まれた強烈な感情は変わらない。熱く甘く濃い、どろりとした感触の。
「いくらでも。お前が望むなら。でもその前に俺の願いを一つ聞いて」
布由は「彼女」の瞳を見据える。視線が絡む。大きな目が、布由を見据えて離さない。
「俺はこの都市を元に戻したいんだ」
『可能だ』
「彼女」は即答する。
『奴と、お前の声があれば、それは可能だ』
「それと…… その身体を奴に返してやってくれないか?」
「彼女」はゆっくりと大きく首を横に振る。
『それは駄目だ』
「何故?」
『都市を戻すことは、可能だ。だが都市を元に戻すとなると、最初に切り離した時より、はるかに大きな力が必要になる』
「……」
『現在のこの都市は、時空の流れの渦に巻き込まれないように切り離し、浮かべてあるに過ぎない。そもそもあれの声と私の思いが共鳴した時に渦は起きた』
「元に戻すには、じゃあ」
『……奴の声と再び共鳴を起こして渦をもう一度起こし、その上でお前の声で機動修正せねばならない。お前も奴も、私同様に通常次元からは切り離される』
「やっぱり」
確かにそれは予想できた。HALが言ったとおりだった。それはこの世界での布由とHALの「終わり」を意味する。
『どうする?』
「彼女」は布由に問う。だがその質問は、裏側に別の問いを隠している。
お前の一番大切なものは何だ?
全てを犠牲にしても得たいものは何だ?
その裏側の問いが読める。そして彼はその答も知っていた。
HALが自分でなく朱明を選んだように、自分の答も決まっていた。
「都市を元に戻したい」
「彼女」は答に満足する。それが彼の本心であることも「彼女」は判っている。それは布由が「彼女」を選んだと同じことだった。
「彼女」は両腕を伸ばす。布由は自分に絡みつき、力強く抱きしめる腕の感触を心地よいと思う。
ああそうだ。
息が止まるくらい、強く、苦しいくらいに力を込めて自分を抱きしめる腕の感触。
そうだこれだ。
自分を殺しかねないくらい強烈な。
俺はずっとそれが欲しかったんだ。
布由は「彼女」の首に腕を回した。途端更に相手の力が強まる。息が出来ない程に強く。
俺はずっとこれが欲しかったんだ……
*
「それじゃ、これが三ヶ月分の報酬だ」
藍地はかなり疲労のたまった様子の東風にそう言って封筒を渡した。東風は中の明細と銀行の口座残高を確認する。
「ありがとうございます」
「いやこちらこそ。急に頼んだりして。君の『表』の仕事も休ませてしまって」
「あ、いいんです。どうせ向こうの仕事では俺は『駄目社員』でしたから」
「駄目社員」
くっ、と藍地は笑う。
「で、あれはいつから動かすんですか?タイマーをセットしておきます。それだけは俺が最後にやっておこうと思いますので……」
「明後日の朝かな」
「明後日」
「そうだ。明日大がかりなコンサートがあるだろう?」
「ああ、そうですね」
その話は彼も聞いていた。BBのライヴのことは、FMが大々的に宣伝していたし、チケットも即日ソールドアウトしていた。
「職員も俺達も出払ってしまうからな」
「そうですか…… あんな大がかりなコンサートなんて久しぶりですね。しかも外部の」
「そうだな」
東風は十年前、彼らのライヴに来ていた。だがその話は二人とも口にしない。何はともあれ、もう過ぎたことなのだ。原因も結果も、もういい、と彼は思った。
「明後日の朝ですね。では九時にセットしておきましょう」
「そうしてくれ…… ああ、君そのライヴのチケットは?」
「どうでしょうね。うちの奥さんもそろそろ安定期ですから、行ってもいいとは思いますが…… チケット発売の頃はまだ結構動くの辛そうな時期でしたから」
「ああそうか」
じゃあ、と藍地はデスクの中から何枚かのチケットを取り出した。その中から何やら選び出すと、五枚ほど東風に向かって差し出した。
「行ってくればいいよ。この席なら何があってもそう問題は起こらないと思う」
「あ、でもこんな枚数……」
その席は、関係者席として用意されているところだった。
「どうせ俺達には用はないから。まあまず会場内をぐるぐるとしているだろうしね」
「はあ」
「それに周囲にエキサイトされても彼女は困るだろう? 下手に人がぶつかったりしては……」
「……あ、ありがとうございます」
丁寧に、東風は礼を述べた。これは明らかにただの好意だ、と彼は思ったのだ。ただの好意には、ただの好意で返すべきだ、と彼は思う。
では、と言って東風は工房に一度入り……やがて出てきた。
今日で最後だ、と夏南子には告げてある。きっと今日は御馳走だろう、と彼は思う。それとも食事に一緒に行こうか?
楽しい想像が頭をよぎる。それはひどく穏やかな光景だった。
東風は朱夏が戻ってきていることは知らなかった。