宿泊先とされたのは「ME」にある、都市内で最も大きなホテルだった。
「都市」が閉じるか閉じないか、という程度の時期に完成したホテルは、当時、ステーションホテルとしては全国一の高さと規模をうたわれていた。だが現在、その大半が使われていない。
「現在はホテルは数が多くはありません」
支配人らしい男は説明した。
ホテルというのは、外部の人間が理由はどうあれ宿泊するのが基本だ。外部の人間が殆ど入って来られない現実に、ホテル業界は、別の職種への変更を迫られるか、単純に閉鎖されるか、そのどちらかの道を選ばなくてはならなかった。
あの時点でこの「都市」に取り残された外部の人間の宿泊所となったものが大半であるが、ほんの一握りはそれでも生き残った。
もと「駅前」。最も新しく、大きく、豪華なホテルであったこの建物は、その生き残ったものの一つである。
実際これをただの宿泊所にしてしまうのは確かに惜しかったに違いない、と入り口を一歩入った布由は思った。
赤のじゅうたんがほこり一つなく整えられている。高い天井から吊り下げられているシャンデリアは、柔らかな、さほど明るくない光を辺りに振りまいている。今でもきちんと磨かれているらしい。ほこりが積もっている気配はない。
場違いだな、と布由は苦笑する。
自分達はこの場所にふさわしい格好ではない。何しろ自分達は、何だかんだ言ったって、ただのロック・ミュージシャンなのだ。
「似合わねえよな、全く」
布由は横の土岐に囁く。
「全くですね」
あっさりしたコットンのシャツにパンツの土岐もうなづいた。
*
スタッフ総勢二十八人は、それぞれ個室ないしはツイン・ルームに振り分けられた。BBの二人とサポートメンバー、事務所社長と大隅嬢には個室が与えられた。
だが個室となると暇になる。入ってすぐに用意された夕食をとったら、後はすることがない。そんな訳で、朱夏は同じフロアにある土岐の所へ出向いた。
朱夏は相変わらず、自由な行動は取れなかった。それはこのツアー中も同じである。
それは、「規則」を植え付けられていないレプリカントである朱夏を守るという意味もあった。何が原因で、彼女の正体が判ってしまうともしれない。
どんどんどん、と勢いよくドアを叩くと、土岐はひょい、と顔をのぞかせた。
「土岐……」
「おや朱夏。どうしたの?」
「暇だ。楽器はまだ輸送トラックの方だし、別に他の人達のように出かけられる訳でもないし」
「ああそうだね。どうしようかな…… でももうじき、『こちらの代表』と会わなくちゃならないんだ。君も必要らしいし…… 遠出はできないし」
どうしたものかな、と土岐も考える。これが自分一人だけだったら、TVを見たり、手持ちの本を読んだり、映画のチャンネルでも眺めていればいいのだが、彼女が入るとそうもいかない。
結局、二人して隣の布由の所へ出向いて行った。
オートロックなので、ノックをし、呼びかけてみる。
「布由さーん」
返事がない。
「……留守かな?」
すると朱夏は耳を澄ませる。
「そんなはずはない。人のいる音は聞こえるぞ」
「聞こえるの?」
「私の耳は、指向性を絞ればかなり小さな音まで捕らえることができる。普段は広げているからそうでもないんだが」
それならば、と今度は土岐も声を張り上げる。ドアを勢いよく叩く。
「布由さん居るんでしょう?」
ふっと朱夏の表情が動いた。
「土岐…… もう一人居る」
「え?」
「ちょっとどいてろ」
朱夏は土岐をドアのそばから除けると、少しドアの前から離れた。そして助走をつけると、右の肩から勢いよく体当たりした。
ごとん、と金属の落ちる音がして、ドアが開いた。
「布由さん!」
「……!」
ドアのノブが落ちる。向こう側が見える。だが、そこには誰もいなかった。
「居ないな」
「誰か居るなんて、朱夏、聞き間違いじゃないのか?」
落ちたノブと朱夏を交互に見ながら、土岐はやや困った顔になる。
「そんな筈はない。私は聞き間違えない。確かに別の個体が動いている音がしたんだ」
「別の個体」
妙に、その言い方が気になった。そう言われると、何やらゴキブリか何かが動いているようなイメージが土岐には浮かぶのだ。
「……おい、うるさいな…… ちょっと待て、どうしたんだこのドア……」
騒ぎに出てきた社長は壊れたドアの鍵に驚く。
「済まない、社長、私だ」
そう言って朱夏はぺこん、と頭を下げる。
「朱夏? そんな馬鹿な」
「あ、あの社長、理由は後で説明します。それより布由さん知りませんか?」
「布由? いや…… だが先刻隣の部屋から電話の音とドアの開く音は聞こえたが」
誰かに呼ばれたんだ。土岐と朱夏は顔を見合わせる。土岐は慌ててその場から駆け出した。それを朱夏も追う。
「何処へ行く気だ土岐!」
「フロントへ。何処から電話がかかってきたか聞かなくては」
彼らのフロアは、宿泊フロアの最上階にあった。真ん中のフロアは殆ど閉鎖されている。
迷うことなく土岐と朱夏はエレベーターに駆け込む。下の階からやってきたエレベーターには既に人が居た。降りることなく、その先客は、ボタンに手を掛け、こう言った。
「何階へ行きます?」
「……フロントは…… 一階?」
「一階。でも布由は外だよ」
くるり、と先客は二人に向きなおる。
土岐は全身の血が真下に落ちていくような感覚を覚えた。それが降りていくエレベーターのせいなのか、それとも。
「……何で居るんだHAL、ここに!」
朱夏が勢い良く叫ぶ。
土岐は目の前に居る人物の姿自体が信じられない。何せ、それは彼が十年前に最後に見た彼の姿と同じだったのだから。
違うと言えば髪の長さくらいだった。にっこりと笑いながら帽子を取ったそ髪は、朱夏と同じくらいに短くなっていた。
「どうしてかなあ」
そんな土岐の様子には気にもかけない様子で、のんびりとHALは答える。
「それに土岐には土岐で会ってほしい人達が居るし」
彼は「5」のボタンを押す。それはホテルとして使用していないはずのフロアの数字だった。
ドアの上の数字が次第に点滅しながらずれていく。やがて足の裏から突き上げるような感触がし…… 五階でエレベーターは止まった。
HALは五階の一室に二人を案内した。特別な所ではない。ごくごくありふれた三人用の部屋である。
ノックもせずに彼はドアを開けた。途端、中に居た人物の視線が一斉にこちらを向く。
「よお、久しぶり」
だるそうな低い声が、土岐の耳に届いた。
間接照明の、さほど明るくない室内に、見覚えのある人物が揃っていた。
予想していた公安の制服ではなく、やってきた自分達に負けず劣らずの、思い思いの恰好をした、かつての好敵手達が、そこには居た。