のぞきこむ彼に、布由は言葉を投げる。え、とHALは目を丸くする。何の含みもない、ただ驚いているだけの表情。
それがかえっておかしいんだよ。
そう思ってしまう自分が悲しいが、彼ならそういう表情を自分に見せる訳がないのだ。
布由は気付いていた。HALが自分に向ける感情の複雑さを。複雑ゆえに、絶対に自分に、あからさまな表情を向けることがないことを。顔は笑っている。だけど決して目が笑っていない。怒っているように見える。だけど目は笑っている。
ところが目の前にいる彼にはそれが無い。
ただ単に笑い、ただ単に怒る。
電話はともかく、最後に会ったのはほんの十日前だ。そんな短い期間……もしくは、昨夜でもいい。昨夜の会話を「無かったことにしたい」なら判る。それならHALらしい。あれは実にHALらしくない言葉だった。
だけど、どうやら本当に「知らない」らしいというのは。
そしてこの言葉。イントネーション。語尾の変化。
これはこの都市のものだ。
HALを含め、このバンドは途中参加した朱明以外、皆、西の地方の人間だった。西のイントネーションは、東の首都や、中部のこの地方のものとは全く違う。
中央の者を装うならまだよかったかもしれない。だけど、西の人間の言葉の変化は、そう簡単に変えられるはずがない。
「お前は誰だ」
布由は繰り返す。何言ってるんだよFEW、そう彼は繰り返す。
「HALは…… 俺のバンド名なんか、呼びゃしないんだよ」
はっ、とHALの目が険しくなる。
「お前は誰だ?」
三度、繰り返す。正直言って、布由は背筋に得体の知れない悪寒が走るのを覚えていた。大気の流れがおかしい、と思った。
「勘のいい子だね」
腰に両手を当てて、HALの姿をしたものは、くくく、と声を立てる。そしてにっと笑う。
ぞくり、と布由は全身が総毛立ったのを感じた。
ひどくそれは魅力的だった。今までこの顔その声の持ち主には見たことのない類のものだった。
動けない。目が離せない。
「私はお前が最初にこの街に現れた時から、ずっと守ってきたというのに」
力などさほど無いように見えるHALの手が、椅子に掛けた布由の肩を押さえつける。
「その私から逃げようとしたって、無駄なんだよ」
「逃げる?」
覚えがない。一体何から自分は逃げたというのだ。
「俺が…… 一体」
「この街がいちばんお前の声をよく通す。当然だろう? 私にとって一番心地よい声だからね?」
露骨なまでの、この地のイントネーションの言葉がHALの声で耳に飛び込んでくる。
「何で…… 俺の……」
「私は何でも知ってる。この地にお前が入ってきて、第一声を発した時から。その時から私はお前が、お前の声が欲しいと思っていた。この街に必要だ。この街の大気の安定に一番合っている」
HALの手が、指先が布由の喉を撫でる。よく知っているはずの手なのに、悪寒が走る。
「HALは……」
「この身体の持ち主? まだ眠っているよ、私の中で。ずっとこの身体を狙っていたんだ。お前に生身で近付くために。別にこの身体の持ち主には悪気はない。いやあったかな。この身体の持ち主は、お前を抱きしめることもできる」
確かにそれは可能だが。
「だが私は人の身体を通さないと、お前に言葉一つ投げかけられない」
「何だ…… 霊か何か……」
「違うよ」
きっぱりと低音が響く。
「私はこの都市だよ」
何を、どうしようとしているのか、全く布由には想像ができなかった。思考が空回りしているのが判る。
「俺を…… どうしようと」
「別に身体をよこせなんてことは言わないさ。ただこの地に留まって欲しいと願うだけさ。決して中央にも西にも行かず、ずっと、じっとして、この街で歌い続けてほしいというだけ。私のためにね」
ひどく単純な…… ほとんどそれは求愛に近い、と布由は頭の隅で思っていた。
考えがまとまらなかった。ただ流れていく。何をすればいいのか、どうこのHALの皮を着た「都市」に言えばいいのか。
HALはどうなるのか。
「HAL!」
はっ、と布由は耳を澄ます。HALよりも更に一回り低い声。どんどん、と戸を乱暴に叩く音。
「おーい入るぞ」
ぱっ、とHALの顔をした「都市」は顔を上げた。
そして次の瞬間、表情が動いた。細い腕が、勢いよく布由を椅子ごと突き飛ばした。
「朱明! ドアを開けて!」
叫ぶ声。
「え?」
朱明は反射的に大きくドアを開けた。と、いきなり彼にぶつかってきたものがあった。
「な……」
目の前には、転がっている布由がいた。HALは自分自身を抱え込むように腕を前で交差させると、大きく息をついている。
「布由逃げて! 朱明! 布由を外へ出してやって! 早く!……」
「HAL……?」
「早く! 間に合わない!」
朱明は何のことやら訳が判らなかったが、とにかく優秀なドラマーは反射的に、言われるままに身体を動かした。半ば動けない布由をずるずると引きずり出してドアを閉めた。
「……おい布由…… 何があったんだ……」
「……」
驚いた朱明に問われて、布由は口を動かす。その時布由はぎくりとする。喉に手をやる。声が届かない。
「都市」がHALにしてきたことはこれなのか?
「……おい布由? 話せなくなったのか?!」
朱明の大きな目がぎょろりと開かれる。布由は頭が混乱していた。
だけどHALの言葉…… あれは絶対にHALだ。HAL本人だ…… 言った言葉が頭をぐるぐると回る。
布由逃げて!
そうだ、俺は逃げなくちゃ……
「……おい布由!」
朱明が止める言葉も耳には入らなかった。バランスを崩しながら、時には壁にふらふらとふつかりながらも、布由は来た道をまっすぐ引き返す。
バックステージパスを返すことも忘れて、彼は駐車場に走った。車に飛び乗った。震える手でキーを差し込む。エンジンを掛ける。こういう時身体が覚えているというのはうれしい。ギアチェンジする。
走り出す。