だがやはりあいまいだった。
何があいまいだったと聞かれてもきっと自分は答えられない、と布由は思うのだが、何か大切なことがすっぽり抜けているような気がするのだ。
逆かもしれない。何かがすっぽり自分の心から抜け落ちているために、自分はHALに対してどんな感情を持っていたのか、HALが自分に本当はどんな感情だったのか、思い出せないのかもしれない。
ただ、朱夏の言う「いなくて寂しい」はHALには無かったような気がする。
「朱夏は」
「何だ?」
「そういう風に『いなくて寂しい』相手が居るのか?」
「居る」
彼女はきっぱりと言う。そこには迷いはない。
「それが例の安岐くん?」
「そうだ」
「向こうもそう思っているかな」
朱夏は首を横に振る。
「それでも安岐のために、こうやってわざわざ俺を捜したんだ?」
「当然だと思うが?」
「何で」
「もう一度会いたいからだ」
真っ直ぐすぎる答え。何となく布由は、意地悪をしてみたい衝動にかられる。
「だけど彼は君に助けられたからと言って、君に感謝するとも限らないよ。もしかしたら『川』の中の居心地が良くて、帰りたくなくなっているかもしれない」
「可能性としては否定できない。だが別にそんなことはどうだっていいんだ。感謝だって要らない」
「どうだっていい?」
「私がそうしたいからそうするんだ。そんな不確定な未来を懸念して動けなくなる、そのことの方が私にはよっぽど良くないことのように思える。だってそうじゃないか」
「まあそうだね」
布由は苦笑する。
「ごめん朱夏。俺はちょっとばかり君の真っ直ぐさに苛立ってた」
「判らない」
朱夏はふらふらと首を揺らす。
「布由の言うことは判らない」
「判らなくていいさ。君はまだ本当に子供と同じだから」
「だけど、子供だと言って、許されることと許されないことがあるはずだ。私は安岐と約束した。お前を呼んでくるって。そうすれば全て上手くまとまると、私も思った。だってそうだろう。都市は元に戻るし、私の中の不快な音も消える……」
「音?」
「私の中に、お前の声があるんだ」
「俺の? 何で?」
「判らない。確かにお前が必要だから、その手がかりとして入れたのだとは思う。でも不快だ。ずっとずっとずっと同じCDだけが頭の中で回り続けている状態というものが理解できるか?」
「……確かに拷問だな」
それも自分で選んだのではなく。
「お前の声が、というのではなく、同じものが延々回っているのが嫌なんだが……これは私の第一回路に入っているから、作った奴にしか消せないんだ。でも安岐が居ると、その不快さが消えるんだ」
「消える?」
そうだ、と朱夏はうなづいた。
「安岐だけなんだ。彼が触れているとそうなんだ。他の誰でも駄目なんだ」
「……不思議だね」
それは確かに不思議だ、と布由は思う。
「私をずっと保護していてくれた東風でも、私を可愛がってくれた夏南子でも駄目なんだ。安岐じゃないと」
「……それは強烈だ」
「でも布由は、そういう話を私がいるたび変な顔になっている。そんなに私の話は変か?」
布由ははっとして顔を上げる。
「そんなに変な顔してたか?」
してた、と朱夏はうなづきながら断言する。
「別に話は変じゃないさ。ただ、お前、HALと似てるのは外見だけだなあって思ってね」
「だけど基本的に違うところないと思うんだが。私が一度消去されて、新しく始めたのは第二回路だ。第一回路は同じはずなんだ」
「でもお前の話じゃ、HALの入っているレプリカはただの容れ物ってことだろ?」
「そうだ。だけど布由、容れ物と言っても、自分と同じ姿のものに、別の性格を入れたいと思うか? 常識として」
「……まあ、不気味だろうな」
朱夏から「常識」という単語が出るのもやや不気味ではあるが。
「そう言えば、安岐はHALに、訊ねたんだ。あの時」
「あの時?」
「私を使って、都市を元に戻すことを言った時だ。それまで何を言われても平気だったHALが、動揺した」
それは珍しい。
「何て訊いたんだ?」
「何のために……いや、『誰のために』そうしようとしているのかって」
「誰のために?」
朱夏はうなづいた。
「そうしたら、いきなりあの空間から追い出された」
「らしすぎる……」
「今までにもそんなことあったのか?」
「さすがに『空間』から追い出されたことはなかったけど……」
「部屋から追い出されたとかそういうことはあったのか?」
「あった」
「どういう時だ? 何か興味がある」
「それは……」
言おうとして、布由は、気がついた。
思い出せない。
その部分に、完全に霧がかかっている。