67.思い出す喉の乾き

 どうしたんだ、と朱夏は何やら考えに沈んでしまったような布由に訊ねる。

 布由にしてみれば不思議だった。人間はそう簡単に忘れてしまうことなどないのだ、ということを思い知る。

 忘れたと思った記憶にしても、何処か奥にしまい込まれた箱(尤もそれは必ずしも宝箱とは限らない)のようなもので、鍵さえあれはそれは開くのだ。

 布由にとっての朱夏はその鍵の様なものだった。狂おしくめまぐるしい程の記憶があふれて押し寄せてきて、何となく布由は目まいがしそうだった。


「大丈夫か? 布由、顔色が悪い。何か持ってこようか?」


 答えを聞く前に、朱夏は扉の外へ飛び出した。そしてしばらくすると、これならいいと聞いたから、と冷えた缶の茶を持ってきた。ありがとう、と彼は受け取る。


「結構世話見はいいんだな」


 そういう布由の言葉を朱夏は不思議そうな顔で聞いている。

 不思議と言えば。


「……そう言えば朱夏」

「何だ?」


 布由には一つ不思議だと思っていたことがあった。


「お前さ、最初向こうの公安の黒い服羽織ってたけど…… 何でだ?」

「何でって」

「奪ったのか?」


 違う、と朱夏は大きく首を横に振った。


「奴が、私に着せたんだ」

「着せた。奴って誰だ?」

「黒の長官だ。HALの知り合いだから、お前も知ってるんじゃないか?」


 布由は眉を寄せる。話を聞いていない訳ではなかった。


「俺は、あの頃の奴の仲間が、公安長官になっているとは聞いたが、誰が誰とは聞いてないんだ。……どんな奴だった?そいつは朱夏の目から見て」

「とにかく黒い」


 そりゃあそうだろう、と布由は思う。黒の長官と言うなら。


「歳の頃はお前と大して変わらないと思う。それにお前より大きい。黒いのは着ているものだけじゃない。髪が真っ黒で固くて長い。それにずいぶんと目をむいて喋る。迫力はある」


 やっぱりそうか、と布由は思う。


「ひどく、部下からは恐れられているようだった」

「……え?」

「何故かは、判らない。だが、部下だけではない。あの時、たくさん並んでいた、車の中に居た業者もそうだ。奴を恐れていた」

「何かそれは、俺の知っている奴のイメージからは何か遠いな……」

「別に私は、怖いも何も感じなかったが、ただ、安岐も感じていたらしい。何やら、ずいぶんと奴と話す時には力を込めていた。そのくらいの力が必要らしかった」


 ますます判らなかった。

 HALの仲間で、「黒」と言えば、朱明しかいないのだ。

 彼は昔からその色が好きで、着るものもそればかりだったし、どれだけ周囲が髪の色を抜こうが染めようが、彼は断固として黒のままだった。その頑固な徹底ぶりが、彼という人物を実に周囲に印象づけたのは事実だったが……

 だが、「恐がられる」という単語とは無縁の奴だった筈である。

 そして、自分にとっては、やや複雑な立場の人物であったのも、確かである。


   *


 その夏は、暑かった。

 そして、二つのバンドがある程度ブレイクした年だった。

 そしてそのブレイクしたバンドが珍しく一緒のステージに立つ。それだけでも客はずいぶんと呼べる筈なのに、他にも2バンド。一つはやはりその年ブレイクしたバンドであり、もう一つは「将来有望」と業界から目されているバンドだった。

 あざといな、と布由はつぶやいた。

 あざといのは主催したその放送局だけではない。同時期にブレイクしたバンドが三つ、ということは、そのバンドのスポンサーであるレコード会社の客の取り合い合戦になるのは目に見えていた。

 そんなことをいちいちいちいち考えているから、このうだるような暑さの中で、余計に不快指数が上がっていくんだ、と布由は思った。木陰で昼寝なんてしている場合じゃない。

 何処かのバンドは元気にプールで遊んでいるという。そして何処かのバンドは、サンオイルを塗りたくって流行りの日焼けに挑戦しようとしているらしい。まあスタッフの噂であるから、実際のところは判らない。基本的には日陰大好き、のバンド諸君であるから、結局は一部に過ぎなかったりするのだろうが。

 そして、そのあざとさの一端が視界に入った。

 薄いオレンジと薄いパープルの何かがひらひらと動いている。何だろう、と布由がそちらに視線を移すと、クーラーも効いていない野外ステージの白い床の上に、真っ黒な物が居た。

 何じゃこりゃ、と目をこすってもう一度見直すと、それは朱明だった。この暑いのに真っ黒でよくやるなあ、と布由は思う。ドラムのセットアップをしているらしい。

 基本的に歌しかない、と考えているヴォーカリストの布由にとっては、彼のように楽器に一生懸命になる奴というのはどうにも理解が難しかった。まあ自分が「格好つけ」や歌詞にかけるパワーが全てそういうところに向かっていると思えば判らなくもないが……

 と、その黒い男に近付いていく奴が居る。HALだ、とそれはすぐに判った。動きに特徴があるのだ。

 後ろ手にオレンジとパープルの何かを持っていた。それがうちわだ、と気付くにはやや時間がかかった。何やらそれはこの夏のキャンペーン期間に配りまくったものらしく、バンド名とアルバム名の入ったものだった。

 どうやら入り口で配りまくるらしい、と布由はBBの所属レーベルのスタッフから聞いていた。

 あざとい、と布由が思ったのは、そういう点だった。この炎天下、うちわの一つでも欲しいと思うのはまあ理由は判る。そのあたりを利用するあたりである。

 とは言え、あざといとは思ったが、否定はしない。BBと彼らのバンドとはタイプが違うのだから、プロモーションの仕方も違う。BBはBBなりに自分達に合ったプロモーションをしているし、人が何をやったにしても、その方法を変える気もない。

 そもそもHAL達のバンドは、宣伝物のデザインに関してはセンスが良かった。特にその年は、それまでもやってきた「あいまいさ」を上手く生かし、かつポップな方向へ、日常へ生かせる方向へ、と持っていこうとするのがよく判る。彼らのバンドを知らない人が見たら、ただの何処かのブランドものかな、と思ってしまいそうな程の。

 そしてそういうデザインのものを見るたびに、そこにHALの手がかかっているのを感じとってしまう自分が布由にはどうにも不思議だった。彼のセンスがそこには見えた。

 HALは朱明に近付いて、ぱたぱたとうちわで扇いでは何やらからかっている。他はどうかは知らないが、彼はメンバー達とはよくはしゃいでいるようだった。

 会話を聞いているぶんには、藍地とは高校生同士のように、芳紫とは中坊同士のおもむきがあった。

 それでは朱明は、と言うと、これがよく判らなかった。

 そもそも布由はHALと朱明が話しているところをそれまで、あまり目撃していなかったのだ。朱明は朱明で、昔断ったバンドということで、多少の遠慮が入っているのか、あまり布由の目の前には現れなかったし、HALはHALで、布由と会う時に多人数であることは好まなかった。

 好まなかった、と思う。

 実際そう言った訳ではない。ただ、結果的に、いつもそうなっているのだ。

 結果。そう結果だった。

 そこがいつも布由には不思議だった。なりゆきで恋人とか愛人にするには問題があるんじゃなかろうか、と思う相手なのに関わらず、結果的にそうなってしまっているし、何故か自分自身も否定していないのだ。

 奇妙な感覚だった。

 時々自分が当初からそう望んでいたのではないか、という気にさせられてしまう。だが、時々、ということに気付くことができるくらいである。

 布由はそれが自分の意志ではないことに気付いていた。もしくは自分の意志をそのように持っていかれている、と。

 会話までは聞こえないが、しゃがみこんだHALと朱明は、穏やかに、かつ辛辣に何やら話しているように見えた。布由はそういうHALを見たことはなかった。HALは人の悪い笑みを始終浮かべている。

 スタッフが寄ってきて、二人に缶コーラを渡していく。


 それを見て彼もまた、喉の乾きを思い出した。


 ―――彼は目を疑った。だが見間違いではなかった、と思う。

朱明は、自分が居たのに気付いたようだった。