とにかく合わせてみよう、という話になり、西の都市にいる間に、と翌日朱明はバンドのメンバーとスタジオに入るという話になった。
藍地はにこやかだがやはり強引だった。別れ際、時間と場所を指定すると、二本のテープを彼に手渡した。
「ヘッドフォンステレオ持ってる?」
彼はうなづいた。必需品ではある。
「何のテープ?」
「こっちは今日の」
「こっちは?」
「こっちは、こないだウチも参加した、オムニバスアルバムのコピー」
そのオムニバスアルバムの名前は彼にも聞き覚えがあった。BBのFEWが面白いコンセプトだ、と言っていたものだった。
とすると、ただの集団という訳ではなさそうだなと彼は思った。
「で、俺に明日までにコピーしろって言うの?」
「何もコピーじゃあなくてもいいよ」
藍地は西のイントネーションで、優しく、だがはっきりと言った。何となくそれは彼に挑戦しているかのようだった。
「わかった。じゃあ明日な」
朱明は苦笑してテープを受け取った。
*
泊まったのは、同じスタジオミュージシャンのようなことを演っている友人のところだった。意外にも、友人はそのバンドの名前を知っていた。
「こっちでは結構有名だよ」
へえ、と軽く答えて、彼はデッキを借りた。ヘッドフォンステレオもあったが、やはり聞けるならこっちの方がいい。まずライヴテープを入れた。途端、結構おどろおどろしい音が流れてくる。
「ああ、それは多分昔の曲だよ」
「詳しいな」
「まあね。今のギターが入って、でもずいぶん明るい音になったっていうけど」
「ギターも変わってるのか」
「ありがちなことだろ?結構あそこのリーダーは…… ベースの奴だよ、頭いいらしいし」
「そんな気はしたな」
そして声が入る。やっぱり怒鳴っていた。
「そう上手くはないよね」
「だな」
そう。確かにそう上手いとは彼にも思えない。あの場に居た時もそうだったし、こうやって平面的にテープで聴いてもそれは同じだった。
取り立てていい声、というのではない。抜けだって悪い。
……なのに。
「おい朱明、どっか悪いのか?」
「へ?」
黒い太い眉を大仰に寄せて、友人の問いに振り返る。
「何かすげえ、変な顔してるぜ」
「……うーん……」
実際、彼もどう考えていいのか判らないのだ。
決して上手くはないのだ。なのに、何か引っかかる。
彼は直感を重視する。その直感が何か告げているのだ。
「ここいらでは人気あるんだよな? このバンド」
「うん。でも、あそこのヴォーカル目当ての女の子ばっかってこともあるぜ。だって見たんだろ? あのヴォーカルの」
「HAL?」
「そう、そのHAL。とんでもねえ、って感じじゃん」
「とんでもねえ?」
「あのルックス自体が、もう反則って感じじゃん」
「……へ? そうか?」
「何お前、そう思わなかったの?」
「……」
確かに華奢で可愛いとは思った。
多少化粧が濃いとは思ったが、化粧などしなくても整った顔、大きな目、深い二重三重のまぶた、やや厚めの唇、同じくらいの歳の男とは絶対に思えないようなその顔だの身体だののしなやかなライン。
確かに目に入っていたけれど。
「お前結構鈍いんじゃねえ?」
「うるせえよ」
そしてテープを変える。
ライヴテープはごちゃごちゃとしすぎてやや掴みにくい。オムニバスアルバムのコピーの方なら、きちんとした録音だろう、と。
B面の二曲目。律儀にもテープはそこに合わせてあった。
そしてその音が流れた時、彼はあれ、と思った。
浮遊する音。
あれ? と友人も鳩豆な表情になっていた。こんな音だったのか、とあらためて気付いたように、目を丸くしている。
取っかかりを見つけた。
*
「一曲だけ」
翌日、スタジオに入ってきた藍地と芳紫に朱明は言った。
彼は時間より早く出向いて、押さえてあったスタジオのドラムを自分のやりやすいようにセットしていた。
「一曲だけ?」
「あのオムニバスアルバムの中の曲。他の曲は、何が何だかさっぱり判らない」
あけすけな口調で朱明は言う。
初めから手加減するつもりはなかった。向こうもこちらをパーマネントなメンバーとして誘おうとしているのだから、初めから自分らしくやっていかなくては意味がないのだ。
「……そうだね」
怒ったな、と朱明は思った。どうやらこのバンドリーダーは一見穏和な外見をしていて、ずいぶんと負けず嫌いらしい。だが彼は、だからと言って手加減するつもりはなかった。
要は、音なのだ。それでお互い納得できたら正解。できなかったら、それだけなのだ。
朱明は前日の夜、何度も何度も、曲を聞き返した。聞き返しすぎてテープがよれてしまったくらいだった。
友人は先に寝るからヘッドフォンで聴いてくれ、と彼に注文をつけた。そして煙草の吸いがらがいつのまにか灰皿にあふれていた。
彼はCDの中のものと同じドラムを叩くつもりはなかった。それでは意味がないのだ。だから、彼は、それ以外のものを身体に叩き込んだのである。
そしてその中心に、あの声があった。
こんな声だったのか?
彼は最初に聴いた時点でかなり驚いていた。怒っていないHALの声。何となく固さはあったが、訳の判らないことをわめいているのではなく、歌に聞こえた。声が届いた。言葉が聞こえた。
声が、絡みついた。
それが、ずいぶん心地よかったので―――
もう一度生でそれを聴きたい、と思ってしまったのだ。
「……じゃ演ろうか」
リーダーが合図する。このくらいのリズムで、と彼は手で合図する。
朱明は髪が落ちないように黒いターバンをぎゅっと頭に巻いた。
ハイハットを四回打つ。明るいギターの音が入ってくる。ベースラインはずいぶんと動き回る。まるでそれ自体が歌っているようだった。
そこへ、その声が入ってきた。
囁くように…… 何処か外国の言葉めいた発音で、HALは言葉を放った。
朱明は、とりあえずは、その間、基本的な4ビートのリズムを叩いていた。だが、ギターソロの合間に時々入れるフィルは確かに彼のものだった。
それに気付いた藍地は彼の方を向く。その間も藍地の手は、うねうねとしたメロディアスなベースを弾いている。
明るいギターの音。だけど明るいだけではなく、何処か切ない音。何故かライヴではその正体が掴めなかった、その音。
そして声。
やはり、叫んでいた。
だけど、それは怒りではない。
怒る対象がそこにないせいなのか、そんなこと考えてもいないのか、その声の中には怒りはなかった。
だが、あの絡みつくような感触もなかった。
何だろう、と朱明は叩きながら思った。何かに似ている。だがその似ているものが思い出せない。
何だったろう?
曲の調子は次第に盛り上がってくる。ふっと、彼はその盛り上がりに比例するように絡みついてくるものがあるのに感じだした。
最後の間奏。きらきらとしたギターの音の間から、吐息のような声が漏れてくる。ふわふわとタイミングを取りながら歌う姿が目に入る。
朱明はここぞとばかりにスネアを打ち下ろした。その音に正面で背を向ける相手が一瞬びくっとしたのに気付く。
ちらり、とHALは朱明の方を向いた。視線が一瞬絡む。
ちくり、と何かが胸を刺したような気がした。
そして最後のサビで、ヴォーカリストは、叫んだ。感極まった声。
そうか。
その時、朱明はその声が何に似ているのか気付いた。
―――これは泣き声だ。
演奏が終わった時、朱明はとっさに、自分の正面に振り返ったヴォーカリストの表情を探していた。
無論HALは、泣いてなどいなかった。あくまで彼がそう感じただけである。それは朱明も判っている。だが彼は自分の直感を重視するくせがあった。
「……どう?」
にやりと藍地は笑う。だが目は笑っていない。真剣そのものである。芳紫の顔からも、笑いは消えていた。そして彼は朱明に言った。
「あんた、すごいよ」
だがその表情は、明らかに、音楽を演る相手として、同等か、それ以上のものとして認めたものだった。
「藍地がすげえいい、すげえいいって言ってたから、どの位かって思ってたけどさ、俺…… あんたすごいよ!」
そして真剣な表情が、一気に百万ドルの笑顔に変わる。
「俺もそう思う。本当に。一緒にできない?俺はあんたとしたい」
「うん……」
朱明はちらり、とHALの方を向く。藍地もその視線に気付いて、HALにどうだった?と訊ねた。
「うん。いいよね…… いいんじゃない?」
「HAL?」
「俺はいいよ…… 一緒にやろうよ……」
にっこり。
朱明はその瞬間思った。確かに反則だ。
だって。
「……いいな。そうしよう」
そう口から出ていた。それはBBの話を蹴るということと同じだった。絶対的に有利な条件の向こうを。
そして彼は自分がそう答えてしまった理由が判った。確実に判っていた。反則だ。
捕らえられた。この声に。泣き声のようなこの声に。
決して自分の方など向いていないこのヴォーカリストの声に捕らえられてしまったのだ。