緑茶の袋を抱えて朱夏が帰った時は、既に時間的には朝だった。
お帰り、と東風はモニターから目を離さずに声をかけた。
かたかたかたかた、キーボードの音が耳障りだった。
朱夏は緑茶の袋をテーブルに置くと、部屋の隅の寝台にごろんと転がった。すると視界に入った天井付近の、熱量が上がっていることに気付く。明かりはずっとついていたのだ。
「ずっと仕事していたのか? 起きていたのか? 東風」
「まあね」
「ずっと?」
「ああ」
「怒っているのか東風?」
「怒ってはいないさ」
「だけどテンションが落ちている」
かた、とキーを叩く音が止まる。
「何か私は東風に悪いことをしたように感じる」
「どうしてだ?」
「判らない。だけどさっき東風がこんな時間に起きてたのを見たとき、何か心地が悪かった」
「そうだな。せめて連絡の一つでも入れてくれると嬉しかった。電話の一つとかね」
「ごめん」
ぴょんと起きあがると、朱夏は素直に謝る。
「ま、いいさ。夏南子が言った通り、朱夏がずっと同じ朱夏でいるという訳じゃないし…… 俺がどうこう言ったって始まらない」
「でもやっぱり連絡はするべきだったと思う。ごめん。私が悪い」
そんな彼女を見て東風は苦笑する。そういう意味ではないのだ。
「朱夏のせいじゃないよ。俺は俺の、別の問題もあってちょっと精神的に疲れてもいるの。確かに朱夏のことも多少あることはあるけれど、基本的にはそれは俺自身の問題」
彼女は軽くうつむく。
「朱夏こそ元気ないじゃないか?」
「そうか?」
「ああ。何か判らないことができたのか? 俺に判ることなら答えられるから、言ってみな」
再び寝ころび、朱夏は頭を抱える。
「理解不可能なことが最近多すぎる。何でこうも世界は厄介なのだ」
「大げさだな」
東風はぷっと吹き出す。
「そりゃまあ、人間は複雑だし、その人間の作る世界はもっと複雑だよな」
「だが東風、その人間が私を作ったのだぞ。私を直した東風だって人間だ。人間より上手く動けるようにと」
「それは確かにそうだ」
椅子を動かして彼は寝台のそばに寄った。
「朱夏は確かに単純なことも複雑なことも、人間以上によく動けるのかもしれない。だがそれは朱夏に余計な感情が少ないものだったからだ」
「余計」
「そう余計だ。少なくとも一般的にはそう思われているだろうな。君のおおもとの作り主はどうか判らないけれど」
「何で?」
「『規則』のことは教えたろ?」
「ああ」
「あれが
「どうしてだろう?」
「それは、判らない。ただ何の目的もなしにそうした訳ではないと思うんだ」
「私の『音』もそうなのか?」
「たぶんね」
「じゃあ『命令』は?」
「『命令』?」
耳慣れぬ言葉に東風は身体を乗り出す。
「『音』の裏に『命令』があったんだ。やっと判った」
「どういう命令?」
東風にとってそれは初耳だった。
もともと『音』にしても、結局は朱夏の自己申告に過ぎない。どんな音が出ていて、彼女がどう聞こえているのか、は彼には判らないのだ。
「あの音は、歌なんだ」
「歌」
「BB、というのを知ってるか?」
「君に行かせたライヴハウス? それとも」
「ロックユニットのほうだ」
東風はうなづく。
「知ってるよ。俺も昔は聴いたことがある」
「その声だ。今流行ってるっていうそれじゃなくて、十年以上前のCDに入っているあの声なんだ」
十年前、というところに彼は引っかかった。
それこそ、彼がよく知っているBBの頃だ。彼に勧めたのは、友人だった。
都市が閉じる前の秋には、「IS」地区にある厚生年金会館にライヴを観に連れていかれたこともある。
「それに気付いたのはいつ?」
「昨日。安岐が、何かよく判らない奴からCDをもらったっていうんで、それを聴いたら、それだったんだ。私は何かひどく心地が悪くなって、安岐とそれから抱き合ってた。そうしたら、その音の、終点が聞こえたんだ」
「終点?」
「つまり、同じ一つのCDが、私の頭の中で、延々ぐるぐる回っているんだ。だからもちろん始まりと終わりがある」
「その合間が、聞こえたということ?」
「そうなんだ。それが、『命令』だった」
「何って言ったの?その『命令』は?」
朱夏は仰向けのまま、両手で目を覆う。
「東風、答えたくない質問には答えない権利があると言ったな」
「あ? ああ」
「ごめん、私は今、答えない権利を行使する」
東風は目を細めて彼女を眺める。こんな朱夏は初めてだった。
拾って三年になる。「規則」が組み込まれていないことを知った彼は、彼女に「感情」が生まれればいい、と思っていた。
半分は好奇心だったが、あと半分は花を育てる時の気持ちにも似ていた。
無論自分の、何処か欠けた感情を丸ごとお手本にすることほど悪いことはないので、何かと世話好きな夏南子の手を借りた。そしてそれは間違いではなかった。
成果はゆっくりだった。だがこんなものだろう、と彼は思っていた。
ところが最近ときたら。
彼はやや寂しいような気持ちになる。「代わり」の妹もまた、自分の手元から去っていくのだ。
「別にいいさ朱夏。君の買ってきた茶でも入れよう」
「ありがとう」
目を伏せたまま朱夏はそうつぶやいた。
「ところで朱夏、安岐くんは元気なんだな?」
「ああ」
「彼はどういう奴だ? ずっとこの都市に居たのかい?」
「いや」
彼女は起きあがる。答えられる質問には誠実に答えようとしているように彼には見えた。
「十年前にこの都市に来たと言った。兄が居たらしいが川に落ちたらしい」
「今幾つ? 二十歳くらいかな」
「ああ、そのくらいだと言っていた」
「じゃあ。誰が彼の面倒を見ていたのかな? 子供の頃――― 施設か何か? それとも」
「あ、保護者が居た、と言っていた」
「保護者」
「兄というひとの友人だと言っていた。その人に五年間保護してもらって、その後彼は、そのひとが副長をする会社に勤めているという」
会社ね、と東風はつぶやく。額面通りに信じていい言葉ではない。だが何にしろ、彼の危惧は当たっていたのだ。
安岐はあの安岐だ。
東風は確信していた。
川に落ちた友人の――― 彼と壱岐の共通の友人の弟だ。
共通の友人が川に落ちるのを共に救えなかったこと以来、壱岐は、東風と夏南子と完全に接触を絶ったのだ。