「聞きたいことはあれで良かったのか? 安岐」
ウェイター氏が立ち去ってから、朱夏は訊ねた。
「まーね」
「何があったんだ?」
「あ、気にしてくれるんだ」
「茶化すな。判らないことがあるというのは心地が悪いんだ。それがお前のことであっても、お前が私に疑問を提出した以上、私の問題でもあるじゃないか」
「そういうもの?」
「と思うが」
朱夏に相談しても、特に答えの出る問題ではないような気がした。
そもそもどうしてあの「彼」=HALは自分に思わせぶりなことを言うのだろう。
ただの気まぐれだろうか。それとも?
「こないだ、橋の上で花を投げてる奴を見たんだ」
「橋の上? 何のために?」
「朱夏は知らない? あの橋の上から、よく人が落ちるんだ」
「何で?」
「この都市を出たい、と思う人がいるから」
「安岐は出たいのか?」
「俺は、俺自身はどうでもいいんだけど、昔、俺を連れて出ようとした人は居たらしい。まあそれが俺の保護者だった人なんだけど」
「私にとっての東風みたいな人か?」
「そういうことになるだろうね。その花を投げてた奴とさっき出会ってね、何か人をまいてたのを手伝ったら、これをくれた、と」
「何だそりゃ」
「俺にも訳が判らない。それにそいつがまいてたのは、黒の公安長官で、その公安長官はそいつのことが好きだのどーの」
「何がなんだかさっぱり判らないぞ」
朱夏は露骨に困った顔になる。
「で、そのひとっていうのが、妙に朱夏、あんたに似てる」
「私に?」
「うん」
朱夏は困った顔のまま、コップの中身に口をつける。
「甘い」
「まあそういうお茶だからね」
「結構これはいい。口の中に心地よい」
「そういう時、『好き』っていうんじゃない?」
「え?」
「あんた『好き』ということの意味聞いてたろ?」
「ああ。ああ、なるほど…… そういうことか」
感心したようにうなづく。
「それはそれでいいが…… 私に似ているというのはどういうことだ?」
「うん……」
「はっきり言え」
そう真っ直ぐに見つめられても。
「例えばさ、こう…… 立って、朱夏のそばに立ったとするじゃない。そうした時に、俺の視線がどのあたりを向くか、とか、だいたいこのくらいの肩幅だったな、とか…… なんか、その人と会っていた時に、妙に朱夏のことを思い出して仕方なかったんだ」
「そういうものなのか?」
「うーん…… そういうものらしい」
「ということは、安岐はそのひとにもいろいろ触れたり何なりしたんだ」
「は?」
「だって何かそういう言い方じゃないか。私の身体を思い出していたんだろう?」
「ちょっと待て!」
安岐は慌てて両手を振る。
「いくら何でも、俺は男にそういうことするつもりはない!」
「あ、男なのか。だけど安岐、私にしたところで、別に女と決まっている訳じゃないぞ」
「朱夏……」
「この性別は便宜的なものだ、ということくらいお前、知ってるだろう?」
「それゃあそうだ。確かにそうだけど朱夏……」
安岐は頭を抱えた。
「別にどっちでもいいとは思うんだが…… とにかく物事がさっぱり判らないというんだな。聞いてる私にもさっぱりつながりが見えない。それにどうしてBBなんだろうな」
「そこだ。問題は」
「安岐はBBは聴いたことがないんだな?」
「ああ。そりゃ最近の、ヒットチャート程度なら耳にしたことはあるけどね、アルバム手に入れてじっくり聴こうと思ったことはないな」
「じゃ聴こう」
「え」
「このままじゃらちがあかない。お前の部屋にはミニコンポがあったな」
*
新しいCDをコンポのデッキに入れて、かける瞬間というのは、期待と不安、どちらも混じった「どきどき」が全身を支配する。
コンポのリモコンを取ると、安岐は朱夏の隣に腰を下ろした。
「バンドってあのウェイター氏言ってたけど、ユニットだな…… 二人組だよ」
「どう違うのだ?」
「どうって…… わりあいバンドって、ある程度の面子がいないとバンドって言わないらしいんだ。例えばうたとギターとベースとドラムが揃ってる、とか」
「昨日お前と見たあのバンドは、そういう意味ではバンドではないのではないか? そういう楽器で揃ってはいなかった」
「言葉のあやだよ。だから、二人だと、足りない楽器何でも他の人にまかせられるだろ? 何か、そういう、足りない所は外注に任せる集団がユニット、らしいけど」
「うーん……」
「ま、あんまり深く考えなくてもいいと思うよ。要は思いこみ一発」
「そういうものか」
「そういうものだと思うよ」
どくん、とその時音がした。妙なノイズだ、と安岐は一瞬思った。だがすぐにノイズではないことが判る。……心臓の音。
『……』
さほど強くはない声が指令を下す。カウンターがその瞬間数字を変える。
一転してギターの音がひどくひずんだまままっすぐに飛び出してきた。加工しまくりのリズムが低く厚く重く、単調に延々響く。
そしてその中を縫うようにしてベースがうねうねとはいずりまわる。
やがてそのベースに絡み付くように人の声が聞こえてきた。
「え?」
朱夏が声をもらした。今までに聞いたことがないほど、その声には驚きが混じっていた。
カウンターが変わる。いきなり今度はポップな、メロディアスなイントロが飛び出してくた。
同じアーティストとは思えないくらい、―――マイナーなメロディだが、実に分かりやすい――― 絡み付くヴォーカルの糖度は思いっきり上がっていたが―――
げ、と安岐は背中にぞわぞわ、と毛虫が這い回るような感触が走るのを感じる。
何だこの声は。
確かに男の声なのだが、その中音域が中心の声は、思いきり神経を使って伸ばした指先で全身を撫で回されているような触感があった。
生々しい。それも、確かに野郎の声だ、と自覚した上なので質が悪い。しかも、濡れている。
何でHALは、わざわざこれをくれたのだろう?
安岐はあの重力の無い口調の彼を思い出す。
彼はこんな濡れたような触感とは無縁のように見えた。どちらかと言うとあの彼は、決して誰にも触れそうで触れないような気がした。
たとえ触れたとしても、そこは決して濡れてはいないだろう。
「安岐」
ふと朱夏が自分のシャツを掴んでいるのに気付く。
「ん? どうしたの朱夏」
「何で」
「え?」
「何で、この音なんだ?」
「どうしたの」
安岐はとりあえずCDを止めた。朱夏はそのまま腕を回し、安岐に抱きつくような恰好になる。じゃれているのではなさそうなので、そのまま引き寄せると、子供にするように背中をぽんぽんと軽く叩いてやる。
「どうしたの?」
安岐は再び訊ねる。朱夏はやや震える声で答える。
「あの音、だ」
「あの音?」
「あの音だ。声だ。私の中で流れてるあの声だ」
どうしようもなく濡れているあの声。絡み付く、糖度が高い、一度気付いてしまったら、忘れようとしても忘れられないような。
「あれ、なのか? 朱夏!」
「そうだ安岐、あれ、だ!」
「本当にあれなの?」
「本当にあれ、だ!」
「何で」
「私が聞きたい!」
そして朱夏はさらに強く彼にしがみつく。
判っているのか? と安岐は内心問いかける。彼に触れていると音はクリアになり、その正体をさらに明らかにしてしまうことを。
「……捜さなくては……」
朱夏はつぶやく。
「捜す?」
「そうだ」
そして顔を上げて、まだしがみついたままの安岐にきっぱりと言う。
「どうしてかは全然判らない、すごく理不尽だと思う。不合理だし全然筋が通ってないんだが、私は今そう思ってるんだ!」
「落ちついて朱夏」
安岐はぽんぽんと彼女の背を叩く。
「筋が通ってないのは今のあんたの言葉だ。どうしたの、何をしたいの」
「私は、この声の主を探さなくてはならないんだ」
「『ならない』?」
「どうしてだか全く判らない。どうしてこう思うのか、私の記憶の中にはない。私が『KY』に住みはじめてからの記憶の中には全くない。だからすごく私はどう対応していいか困る。だけど」
「そうしたい、んだな?」
黙って朱夏はうなづく。そして目を瞬かせて、納得したように、
「ああ、そういうのを、『したいこと』というのか」
「今まではそう思ったこと、なかった?」
「なくはない。でもこれだけ強烈なことは今までなかった。いったいどうしたというんだろう…… すごく困る……」
「困る? どうして」
言われて、朱夏は確かに困ったような顔つきで大きな目を見開く。そして安岐の手を取ると、自分の頬に当てさせる。
「昨日のようにしてくれ」
は? と安岐はやはり大きい目を見開く。視線がぶつかる。真っ直ぐ彼女は自分を見つめているのが判る。
「お前に触れていると、音がクリアになる。音の後ろにある何かが見えるような気が…… だから……」
言いかけて朱夏は目をつぶる。そして少しの間を置いて、首を横に振り、違う、とつぶやいた。
「そうじゃない」
「朱夏……」
自分に触れさせている手に朱夏は軽く口づける。
「そんなことどうだっていいんだ」
「朱夏」
「気持ちいいんだ。お前に触れられてると。頭の中が何も考えられないんだ。頭の中でごちゃごちゃぬかすどうでもいい情報が一気に見えなくなる。ああそうかだからあの声が浮きでてきたのか……」
それはひどく自分勝手な言いぐさにも聞こえる。
相手のことではなく、自分がどうしたいか、しか言ってない。
だけど自分だって勝手なのだ。
そもそも最初からそうだった。最初に見た時から彼女が欲しかった。そして手に入れた。そして彼女にどう言われても、やはり自分は彼女を求めているのだ。
「朱夏は勝手だ」
取られている手を静かに離させる。
「安岐」
「だけどオレだって勝手だよな」
そしてあらためて安岐は彼女を引き寄せた。