21.重力の無い声、認識できないバンドの名

「何を謝るの」

「いや、あの」

「いーよ別に。恐がられるのもとーぜん。あれがあいつの仕事だもの」


 だが確かに言われてみれば、思い当たるふしがなくもない。FMから流れてくる「公報」で、確かにあの低い声は聞いたことがあるのだ。

 「黒の公安」は治安維持が目的の部署である。この都市の治安と「適数」を保つために動いている。

 「川」を越えようとする市民を阻止するのもその役目の一つである。彼らによって「川」へ落とされた者も多い。

 彼らの「公報」は、その報告が大半である。あの低い声は淡々と事実を読み上げる。津島などは、彼の声を聞いた瞬間にラジオのスイッチを切ってしまうという。何となく怖いのだ、と彼は以前安岐に言ったことがある。


「あの低い声で、たまたま雑音が多い日に、川へ沈んだ奴の名前読まれると、何かすげえぞっとするんだよ~」


 判らなくもない。


「いいの? 本当に」

「本当にいーの。別にただ外へ出る分なのに、あいつ妙に気をつかうから」

「あのひと、本当に黒の公安長官なんだよね」

「うん」

「知り合い…… なんだよね?」

「うん。昔からの。で、奴は俺のこと好きなの」


 は? と安岐は目を丸くする。


「で、まあ、あいつは基本的に何ごともなければ暇な訳じゃない。それが一番いいんだけどね。で、そういう時には奴は俺の目付け役になったりもするの」


 何じゃそれは、と安岐は思う。いまいちその人間関係の意味が掴めない。黒の公安長官が目付け役になるような奴とは何なんだろう?


「あ、君ずいぶん俺のこと不審だって目で見てる」


 HALはくすくす、と笑う。撫然としなから、当然だろう、と安岐は思う。


「ところでさ、何のCD見てたの?」


 そういえば、CDを見ていたのだった、と彼は思い出す。


「別にお目当てがあった訳じゃないけど」


 HALはふーん、と首をかしげると、何段にもCDが並べられた棚の方へ向かう。


「ああ、新譜はやっぱり売れてしまってるな」

「あんたは何捜してるの?」

「俺?」


 ふと彼は一枚のCDに目を留める。そしてそれを取り出すと、じっと見つめた。背を向けていたので安岐にはどういう表情か掴めなかったが、その時間が少し長かったのが気になった。

 妙な奴だ、と思う。

 最初に「橋」の上で見た時の行動も不審そのものだった。花を投げるにしても、その大量さが気にかかった。

 だが妙に憎めない。

 その綺麗すぎる容姿のせいかもしれない。重力が無いような言葉の喋り方のせいかもしれない。

 それに彼は、どこか朱夏と似た印象を持っている。

 当初からそうだった。朱夏を見た瞬間、彼が何処かだぶったし、ここで彼を見た時には朱夏を思い出した。朱夏にはくすくす笑いはなかったが、それを抜きにすれば、二人はよく似ているような気がしたのだ。

 HALはCDを持ったまま、安岐の方へ向き直った。


「俺の好きな音楽を演るバンドはもう何処にも無いからね」

「へえ…… それは残念だね」

「もう十年も昔に、音を出すのをやめたんだ」

「十年? あんたずいぶん子供の頃から聴いてたんだね」

「子供の?」


 一瞬彼は豆鉄砲食らった鳩の様な顔になる。だがすぐに何かに気がついたようで、それまでのくすくす笑いではなく、あははは、と声を立てて笑いだした。


「ああそうか、俺、若く見られるもんなあ」

「へ? あんた幾つ?」

「秘密。でも君よりは確実に上だよ。俺歳とるのやめたの。面倒だからね」

「面倒だからって問題じゃあないでしょ」

「そうだね」


 しれっとそう言って彼はレジに向かった。買うのか、と何となく安岐は不思議に思う。

 やがてお待たせ、と言って彼はクラフト紙の袋に入ったCDを安岐に手渡した。


「はい?」

「あげる。聴いて」

「あ、ありがとう…… その、好きな音楽のバンド?」

「とは違うんだけど」

「その、あんたが好きなバンドって何なの?」

「ここにはないよ」

「捜してみるから、名前教えてよ」

「捜しても見つからないよ」

「いいから」


 仕方ないね、と彼は口を開く。少し厚めの、形の良い唇が。


 ?


 唇が動く。

 だけど音が伝わらない。

 いや違う。音は確かに発せられている。なのに、頭の中にその音が入った瞬間、それが認識できないのだ。


「何て、言った?」


 笑顔が凍り付く。やっぱりね、とHALは軽く目を付せる。

 何がやっぱり、なんだ、と安岐は問い返したいのだが、疑問自体が口を閉じ付けた。重力の無い口調で、彼は続ける。


「そういうバンドが俺は、とても好きだったの。特にそこのドラムなんて最高だったよ。本当に」

「HALさん……」

「あのさあ」


 戸惑っている安岐には彼は構わない。


「そういえば、今度の満月にはいけないモノが入るんだってね」


 HALの目から表情が消える。綺麗なままだが、何かが隠れてしまったようだった。


「何のこと?」


 安岐もまた、同じ表情のまま、感情を消した。


「気をつけてね」


 彼はそう言って、またね、とひらひらと手を振った。

 何を知っているのだろう、と安岐は一瞬背筋に悪寒が走るのを感じた。黒の公安長官をお目付け役にしているような彼は、何を知っているというのだろう?

 姿が見えなくなるのを待って、安岐は先ほど彼に渡されたCDをを開けてみた。

 カラフルなオレンジのジャケットには「BB」と書かれていた。二人組ロック・ユニットの様である。

 プラケースの中には、表にメンバーの一人、裏に別の一人をコラージュしている。

 「BB」。聞き覚えがある。今でも、この都市でも未だ人気があるロック・ユニット。このユニットはもう長い、と津島から聞いたことがあった。壱岐も昔は聞いたことがあると言っていた。

 何のつもりだろう、と安岐はCDをクラフト紙袋に戻しながら思った。