三時十五分。
あと四十五分か、と安岐はファーストフード店の掛け時計で時間を確かめる。
SKの地下街は異様に広い。もともとこの都市は、閉じる前から地下街が広いことで全国的に有名だった。
この中心部「SK」と、それについで「外」との玄関口だった「ME」。その二つの地域は雨天知らずの買い物エリアだった。
現在「ME」はその利用客の減少により、大半の店を閉め、地下街はただの地下道と化していたが、「SK」はやはり中心部だけあって、変わらないにぎやかな空間だった。
地下街のちょうど上には、かつてはテレビ塔、と呼ばれていた電波塔がそびえ立っている。
現在はこの都市の情報をまかなうFM局がここから多数の電波を送り出していた。局数は全部で二十。都市の中のケーブルTVも二、三ここに入っている。
「いつもの場所」へ行く前に安岐は腹ごしらえしていた。
腹が減っては戦はできぬ。だがまだ時間があるようである。彼はてりやきバーガーを黙々と口に運ぶ。
腹がくちくなると、彼は地下街に出た。
暇つぶしにCDでも見よう、と店の一つに入る。新譜は一ヶ月に一度… 下手すると二、三ヶ月に一度しか入ってこないので、滅多に品ぞろえが変わる訳ではない。
その品揃えが変わる時を狙えばいいのだが、「外」の新譜はすぐに売り切れてしまう。そして結局、店に並ぶのは旧譜ばかり、ということになる。
「あ」
柔らかな低音が耳に届く。耳の裏をふっと灰色の羽根で撫でられたような感触があった。
肩を叩く気配。安岐は何となく不吉な予感がしつつも振り返る。
「こんにちは。また会ったね」
彼、だった。あの橋の上から白の花束を投げていた。
「髪、切ったの?」
「え?」
彼は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにその顔は軽い笑みに閉ざされた。
「ああ、一応」
ずいぶん長かったはずなんだけどなあ、と安岐は何となく残念に思う。
なにしろその時にはまだ背中の半分まであったはずなのに、現在目の前にいる彼は襟足程度に切りそろえていたのだ。
上と途中、二ヶ所止めていたのも、頭の上だけ一ヶ所になっている。
無造作なのは変わらなく、そのさりげなさが整った顔なのに奇妙に合っているのが不思議だった。
「どうしたの? こんなところで」
「暇つぶし。人と約束があるんだけどまだ時間が来なくて」
それは、事実である。
「あんたは?」
「あんた、じゃないの。俺は
「じゃ、HALさんは何してんの?」
「俺はね……」
言いかけた時だった。びく、と彼の形の良い眉が片方上がった。そしてHALは安岐に不意に接近した。
あれ、と安岐は思う。小柄と思っていたけど、見おろした時の視線の位置が朱夏に対する時のそれと、ほとんど同じことに気付いた。
何となく奇妙な気持ちだった。しかも彼は「彼」なくせに、肩幅とかも彼女とほとんど変わらないように思える。
そんな安岐の思いなど気付いているのかいないのか、彼は殆どくっつきそうな程に顔を寄せると、耳元で囁いた。
「ちょっと協力してもらえる?」
「え?」
HALはにっと笑った。
公安の黒い服を着た男が小走りにやってくるのが見えた。
ああ、あの時の男だ、と安岐もさすがに気付く。この間「橋」のところでHALを迎えに来た男だ。HALは確か彼を朱明と呼んでいたっけ、と。
だがこの男が単独で動いているだけで、この地下街では目立つ。
彼はただでさえ人の多いこの地下街だが、その人の間をするするとすりぬけて行く。実に良いフットワークだ、とぼんやりしたふりをしながら安岐は感心する。
その男には確かに何か人目を引くものがあったのだ。大したもんだ、と安岐は思う。
つっ立って時計を気にしているフリをとる。HALに言われた通りに。
と、彼は安岐の前でいきなり立ち止まった。
大したものだ、という感心は更に高まる。彼は息一つ乱していない。
「……お前は」
「はい?」
驚いてみせる。何と言ったって相手は公安の制服を着ている。しかも黒である。基本的に、「黒の公安」は都市の人間には恐れられている存在なのだ。
公安と言っても、大きく中は三つに分かれていて、それぞれの部門に長官がついている。
黄色、赤、黒という色でその部門は市民に認識されている。
停電の時にがんばる…… 都市の機能を維持するのは「黄色の公安」であり、都市内ネットワークなどの新技術を駆使して都市の生活を向上させようとする「赤の公安」だった。
そして「黒の公安」は。
「この間『橋』のところで会ったな」
低い声が問いかける。声を掛ける以上のことをする訳ではないが、近くに寄られるだけで、強い圧迫感を安岐は感じる。
サングラスの下には鋭い眼光が隠れている。そんな感じがした。
「……え? そうでしたか?」
朱明はそんな彼のポーズには構わない。彼は市民のそういう態度には慣れていた。
「奴を知らないか?」
「奴?」
「この間お前が『橋』のところで話していた相手だ」
「何かあったんですか?」
「聞いているのはこっちだ。見たか、見なかったか?」
いえいえ、と安岐は平然と首を横に振る。こういう制服組に対する嘘は実に上手いのだ。上手くなってしまうのだ。
「何かあったんですか?」
「……何もない!」
そう言って朱明は再び走り去っていった。あっという間のことだった。
何かが、引っかかっている。
何だったろう、と彼は思う。確かにあの声は何処かで聞いたことがあるのだ。特徴のある、低い声……
背にしたCD屋からHALはぴょこん、と顔をのぞかせる。
「ご苦労様。ごめんね、こんな役やらせちゃって」
「別にそれはいいけどさ…… あの人公安…… 黒の公安のひとだろ?いいの?」
「いーの。それにただの黒の公安じゃないよ。
「げ」
思わず安岐は口に出していた。そして出してしまってから、ごめん、ととっさに返していた。