朱夏が部屋に戻ったのは、もう昼近くになっていた。
「お帰り。結構時間かかったな。復旧が手間取ったのかい?」
東風はパソコンのキーボードを叩く手を止めて訊ねる。
「いやそんなことはない。私が『SK』駅に着いたのが遅かったんだ。一度六時台に起きたのだが、もう一度寝て起きたらもう十時だった」
「十時」
「そんな時間まで寝ていたのは初めてだ。そうだろう?」
「そうだね」
東風は苦笑する。そもそもレプリカントなのだから、睡眠が不必要なようにプログラムすることもできる。それをしなかったのは彼だった。
仕事用の場所を立ち、彼は朱夏が既に座っていた食事用のテーブルにつく。そして湯沸かしポットのスイッチを入れる。
「ということは、ずいぶん君の中で整理をつけなくてはならない情報があったってことなんだ」
「ということになるのかな」
彼女は首を傾げる。
「俺は朱夏をそうチューニングしたからね。ややこしかったり、それまでにない情報が一度に飛び込んだ時、君の
「うん」
「何かあったのかい?」
「音が」
音、と東風は繰り返した。彼も前から彼女の中で延々鳴り響いている音のことは聞いていた。
「音が、どうしたんだい?」
「何か、変なんだ。クリアになった」
「クリアに?」
「何って言うんだろう? 前にも私は東風に言った。耳に聞こえる訳ではないけど音があるって」
「ああ。聞こえの悪いラジオみたいだ、って言ったな」
朱夏はうなづく。
「まえに東風が、昔AMのラジオを録音したテープを聞かせてくれた。ああいう感じに、ざわざわした、直接関係ない音が聞こえていたんだ」
「それが何か変わった?」
「変わった」
「どんなふうに?」
東風は彼女にものごとを訊ねる時は、重ねては聞かない。一つのことだけを問う。
「AMじゃなくて、FMで聞いている時のような感じになった」
「クリアに…… ああそういうことか。それは何をしている時?」
朱夏は少し考える。時々ゆらゆらと頭を揺らせ、何処から話していいものか、迷っているように東風には見えた。
「この間、私を綺麗だと言った奴のことを覚えているか? 東風」
「ああ。俺がさんざん笑ったんで君がずいぶん奇妙な顔していた時だな」
「そうだ。その時の奴に昨夜、会ったんだ」
「会った?」
「ライヴハウスB・Bで。何か、友達が来れなくなったから代わりに来たと言っていた」
「ずいぶんと変わった趣味の友達だな」
無論東風は、その時のライヴがどんなものかは知っていた。彼も昔から音楽は好きなのだ。その音楽好きが、今の状況を作ってしまったのだが、それでも彼は音楽は好きだった。
「むげに追い払うという訳にもいかないし、別に追い払うほど心地よくない訳でもないから、それからずっと彼は私の近くについていて、私を送ろうとした」
「ほほう」
湯沸かしポットが、中の湯が沸騰したことを告げた。彼はティーポットの葉を入れ替えると、キッチンからマグカップを二つ持ってくる。
「男は女を送りたいものなのか?」
「どうかな?」
「東風がその時の彼の立場で、夏南子が私の立場だったらどうだ?」
「朱夏、それはたとえが悪い」
彼は露骨に顔をゆがめる。
「夏南子だったら別に俺がどうしようと何しようと、勝手に帰るさ。でもたいていの男は、好きな女の子は送っていきたいと思うんじゃないかな」
「そうなのか」
「そういうことを言われたんだ?」
「言われた。だから別に構わない、という意味のことを言って、B・Bのある『I2』からH線に乗ったんだ。ところが『SK』でM線に乗り換えようとしたら」
「停電だった、と」
「そうだ。こっちはどうだったんだ? 東風。『KM』は」
「こっちは何とも。何やらSKだけのことだったらしいよ。公報でそう言っていた」
彼は部屋の隅に置いてあるミニコンポを指す。
FM放送がこの都市では中心なのだ。都市管理に関する情報は、「公報」と呼ばれ、公安局が直接市民に語りかける。昨夜の「公報」は高い声の長官だったな、と彼は思う。黄色の公安長官だ。
「そうか……」
「はいお茶」
「ありがとう。ああそういえば、彼は緑茶を出した」
「緑茶を」
「東風は紅茶しか出さないが、何か理由があるのか?私は緑茶も悪くないと思ったが」
「ああ、そうだね、俺の好みだけに偏ってしまっては良くないね。今度買ってくるといいよ」
「東風、質問に答えてない」
朱夏は重ねて訊ねた。彼は苦笑すると、彼女の髪をかき混ぜた。
「ねえ朱夏、人間は、答えたくない質問には答えなくていい権利があるんだよ」
「答えたくない質問」
「俺は、ちょっとその質問には答えたくない。だから、朱夏も、もしそういう質問が出たら、答えないでいることもできるよ」
「判った。そういう時があったらそうする。でも今は答える。別に問われて答えたくないと私は思っていないようだから」
そうだね、と彼はうなづいた。
「それで君はそこから電話してきたんだ」
「彼の部屋に電話があると言ったから。そうしたら停電がきた」
「その時までは、彼の部屋は停電してなかったのかい?」
「ああ。何か知らないが、いきなり」
おかしいな、と東風は思った。そういう停電の仕方は。
「その彼の部屋は駅から近い? 遠い?」
「近い。近いから彼は誘ったと言っている」
まあそれは半分方便だろう、と彼は思う。
だが朱夏の主観でもそう感じるのだから、実際近かったのだろう。…だとすれば、やはりおかしい。
「SK」地区は中心地だが、そう大きな地域ではない。駅が停電したのなら、一気にそのあたり全体が停電しなくてはおかしいのだ。
「話していたらいきなり消えたんだ」
「周りはどうだった? 「SK」だろう?通りのすずらん灯とかはどうだった?」
「私達が歩いている時点ではまだ点いていた。だからその時、一気にに消えた気がしたんだ」
「なるほど。じゃ君結構心地悪かっただろうね」
ああ、とうなづきながら、それまで無表情に話していた彼女が、軽く眉をひそめた。
「照明が一気に消えると、目が慣れないから、その時音がひどくうるさくなる。まえに東風は認識対象が一気に減少するから、と言った筈だ」
「そう、確かに」
「見えないから、とりあえずそれまで話していた奴が何処にいるのか、確かめようと手を伸ばしたんだ。それで、探り当てて、触れて、触れられて…… 私は驚いたんだ」
「それで、音がクリアになった?」
「なったんだ」
彼女は力いっぱいうなづく。
「おかしいと思って、確かめたんだ。抱きしめた。だけどやっぱりそうだった。彼に触れるか、触れられてると、音がクリアになった」
「それで?」
「そういう意味のことを、彼に言って」
「それで?」
「それから意識が無くなるまで彼と寝ていた」
「なるほど」
はあ、と彼はため息をつく。それなら確かによく眠らなくてはならないはずだ、と東風は思った。一度に受けとめるには大きすぎる情報だ。
「で、今は、どう? 音は不快?」
「今は、そうでもない。昼だし、受けとめなくてはならない情報がいろいろある。だが何故、あの音は、私の中にあるんだ?」
「前にも話したよね、朱夏」
ああ、と彼女はうなづく。
「それが何故あるか、は俺にも判らないんだ。目的にはね。君は何か奇妙なレプリカだ。それにその音は、君の
「判ってはいる」
朱夏はマグカップを両手で持つと、紅茶をすすった。東風はその仕草を眺めながら、当時のことを思い出す。