悠真はあえて東久瑠コミュニティの縄張りを走った。
哉藻は約束を果たしているのか、シボレーは何事もなく快調に進んだ。
何故かラ・モールもクジラたちも追ってはこない。
というか、そもそも彼らの目的がわからない。
アパートに到着すると、ありがとうございますではなく、祥無がおかえりな
さいと二人を迎えた。
「とりあえずは、おまえに診せるのが一番とおもってさ」
深羽を抱きかかえた悠真は祥無にいって、落ち着いた呼吸をしたまま意識の
ない少女をベッドに寝かせた。
「これは、あとで洗濯が大変ですね」
呑気なことを言って、祥無は深羽を覗き込んだ。
深羽はボロボロの服で、血と泥にまみれた姿だった。
改めて明かりの元で照らされた姿は、幼い容姿もあって凄惨といっていい。
「大丈夫なのかよ?」
一見、感心もなさそうに電子タバコを咥えたまま、近くの椅子に座る。
「偽死状態ですね。相当、外部への負荷を懸念したものと思います」
「外部?」
祥無はうなづく。
「今、深羽の意識はかなり不安定です。それで万が一を考えたのでしょう」
悠真は、宵の言葉を思い出した。
そして、多賀見神社で何があったのかも。
いまさら、黙って成り行きを見ていただけの祥無に怒りはわいてこない。
大体、この少年はここから移動させないほうが都合が良いのだ。
「いつまで、この状態が続く?」
「そうですねぇ、ちょっと待っていてください」
祥無は深羽の広い額に手をあてた。
彼の眼球が細かく微細に揺れる。
しばらく経ち、ため息交じりの苦笑をして、悠真に向き直った。
「手に負えません」
「そうか……死ぬわけじゃないんだろう?」
「多分」
「……曖昧だなぁ、おい」
ぼんやりとした表情はそのままに、眼光だけが鋭くなる。
「そんな顔されても困りますよ」
小首を貸しげて、答えようがないといった祥無だった。
「役に立たないもんだ」
煙を吐き、悠真は鼻を鳴らした。もう、いつもの気だるげな様子にもどって
いる。
「申し訳ありません」
祥無の声は淡々としたものだったが、どこか感情の片鱗を感じさせるものだ
った
この少年にしては珍しい。
それほどに、今の深羽から無力感を受けているということか。
燈霞と完全に一体化していると言って過言ではない祥無が。
部屋の雰囲気はどこか重たげで暗いものになっていた。
「……あのな、笑うなよ?」
「どうしました?」
しばらく逡巡し、悠真は指の間に電子タバコを挟んで口を開く。
「化け物をみた……」
「御堂ってラ・モールの男ですか?」
「違うだろう。わかってて言うなよ」
祥無はニッコリとして、うなづいた。
「わかります」
「だいたい、あんなもんがいるわけないだろう、この世界に?」
「そうでしょうか? 例えばリンク・チップによるフラクタル・ネットワーク
は、人間の人間による人間のための空間を造るものです。端的にいって、力学
は情報化されてひさしいのですが条件として、必要なモノ以外を斬り捨ててい
ます。なので、知覚外の存在の可能性は普通にあります」
悠真は無言になった。
電子タバコを再び咥え、ちらりと深羽に目をやる。
彼女はただ静かに横たわていた。
「……まいったもんだ。長い間、人間ばっか殺してきたけど、化け物相手にし
たことなんてないわ」
半ば呆れた溜め息のようにつぶやく。
突然、その顔面に枕が飛んできてまともに叩きつけられた。
手だけで落ちた電子タバコを拾うと、こちらを睨んでいるベッドに胡坐をか
いた深羽がいた。
「……どうせ、手のかかるクソガキとでも思ってんだろう?」
声は低く、淡々としたものだった。
「あー、なんだよ?」
急なことで、悠真はついていけない。
「うるせぇ!」
深羽はベッドから降りると、しっかりとした足取りでそのままアパートを出
て行った。
「せめて着替えて行ってほしかったですねぇ」
呑気な祥無だ。
ぼんやりとドアを見つめる悠真に、追いかけてくださいと付け加える。
言われるまでもなかった。
「何怒ってるんだよ?」
真後ろを歩きながら、悠真はいつも通りの口調で声を掛ける。
「もう、おまえは用済みなんだよ! どっか適当なところに行く!」
「はぁ? いきなりすぎんだろう?」
深羽は振り向きもしないで、力ずよい歩調のまま、暗い路地を真っすぐに進
んでゆく。
「どうせすぐ死ぬじゃねぇか!」
悠真は頭を掻いた。
「あんなぁ、舐めてんじゃねぇぞ? そんな簡単にコロっと行くかよ。大体一
人で多賀見神社行くとか、どういうことだよ?」
深羽は無言だ。
悠真の目も、段々と座ってくる。
「どこか目的地はあるのか?」
「伊瑠コミュニティ」
厭味ったらしく、それだけを言う。
悠真は鼻を鳴らした。
「ああ、伊瑠な。哉藻は手なづけたから、悪いようにはしないだろう。勝手に
行けよ」
煙を吐きは、悠真は来た道を戻ろうとした。
深羽の足が止まる。
「……おい!」
「あー?」
面倒くさげに振り向くと、目を潤ませて怒りの顔を満面に浮かべた深羽が、
彼を睨んでいた。
「ふざけんじゃねぇよ!! 止めろよ!! やっぱてめぇはその程度にしかオ
レのこと考えてなかったのかよ!!」
悠真は表情を消した。ふと星も見えない夜空を見上げて、煙を吐く。
「……俺はもう死ぬ。最後くらい、カッコつけさせてくれよ?」
吐息の用の声だった。
深羽はすでに涙が垂れている目で彼を見つめたままだった。
「おまえは俺が守るよ、安心しな。絶対にだぜ?」
流石に照れたのか、そっぽを向きながら苦笑していた。
「馬鹿やろう!!」
深羽は思わず彼に抱き着いた。
小さな体とは思えない力に、悠真は戸惑った。
「死ぬとか言うな!! そんなために守られたくねぇよ!! おまえも生きる
んだよ!! 俺が何とかしてやる!! 祥無もいる!! だから……だから…
…見捨てるようなこと言うな……」
最後は嗚咽と共に吐き出されてはっきりしなかったが、十分意図は伝わっ
た。
悠真は一つ息を付くと深羽をそのままにして頭をなでてやった。
腹部に鈍痛を感じながら。
湖守からみて、V・L・S(ヴァリス)は明らかに怯えていた。
苛立ちをそのままむき出しにしているが、原因は己の存在に危機感を覚えて
いるのだろう。
ヴァリスは伊瑠コミュニティにとって、燈霞から奪い取った「神」と呼ぶべ
きA・Iであり表面上の伊瑠コミュニティのトップである。
狭い円錐状の部屋の真ん中に立つ古守の周りに、百近い浮遊ディスプレイが
浮かび、それぞれ文字を流し続けている。
同じ文字だ。
『ゆるさん』
『皆殺しだ』
『私の恐ろしさを知らしめてやる』
ただ、それだけの文字が永遠と続いていた。
確実に発狂している。
湖守は静かに考えていた。
ヴァリスがどうなろうとしったことではない。とにかく、伊瑠コミュニティ
の頂点に燈霞の存在があるということに意味があるからだ。
ただ、今回が周りに被害がでそうである。
彼は部屋から出ると、執務室に向かい、ヴァリスの管理技術主任を呼んだ。
「状態は堂んな感じなんだい?」
労わるかのような態度で、椅子をすすめる。
主任は実際、かなり疲れているらしく、顔色も悪く生気がない。ただ、以上
に目だけがらんらんと光っている。
クスリか。
湖守は彼の立場なら幾らでもやり放題だと思っているので、何も言わなかっ
た。
「……ヴァリス様はかなりの混乱状態にあります。原因はわかっていません。
ただ、これから製造されるリンク・チップの方に影響がでるかと」
「どんな?」
「意識の視野狭窄、とでもいうのでしょうか。自由に意識を操れていたフラク
タル・ネットそのものから、使う人間に閉塞感や不快感が現れると思われま
す」
湖守は机についたまままま、少し考えた。
「……わかった。今日はゆっくり休んでくれ」
サイフから、電子マネーのカードを渡す。
悠真の時との扱いがまったく違った。
「ありがとうございます……」
主任は素直に言葉とカードを受け取り、部屋を出て行った。
浮遊ディスプレイで数人と連絡を取り、状況を確認する。
どうやら、おかしくなったのは、伊瑠コミュニティの「神」だけではなく、
日本中の管理を行っている「神」的存在に不具合が起こっているらしい。
「神」とは、燈霞の代理的存在である。
人間もイマジロイドも、燈霞の機能は与えられるが、それだけだ。
燈霞に何か要求を仕様とした時、橋渡しとして「神」の存在が必要なのだ。
だが、このありさまである。
湖守は企画部と生産管理部の責任者と連絡を取り、この状況下の対処を練る
ことにした。
西部劇にでも出てくるような場末のビアホールをまねた、本物ものの場末の
ビアホールだった。
タバコとすえたような臭いが充満したホールに幾つもある丸テーブルには、
様々な客たちが昼間から酒を飲んで、すでに潰れている者、携帯ゲームにうつ
つを抜かすもの、ギターを引いている者など、様々だ。
突然、軍靴をならして堂々と入って着たコートを着て、アンシメトリーのシ
ョートボブ、タンクトップにショートパンツ姿の女性は、小柄ながら雰囲気が
客層とまるで違い、視線を集めてた。
乾いた木の板でできた床を真っすぐカウンターまで来ると、店主は卑猥な笑
みで端の方から寄って来た。
「何飲むよ。奢りにするぜ?」
「ウォッカをロックでね」
にっこりとして、片目をつむってみせた。
沙宮耶は、カウンターを背にして、店内を見回す。
もう、あえて彼女を正面から見ようとする客はいなかった。
脇に、グラスが置かれて、そのまま店主がそのうなじを眺める。
片手でグラスを持って一口つけると、ゆっくりもう片方の腕をあげて、客の
なかから一人を指さす。
「君、ちょっとこっちおいでよ?」
少年だった。
左側の髪を三つ編みにしている。
整った容姿をしているくせに、どこか暗い雰囲気をまとっていた。
目だけ向けて、薄汚れた中年や明らかに家出少女といった相手にポーカーを
していたが、反応はそれだけだ。
沙宮耶は息をついて、仕方ないとばかりにグラスを持ったまま近づいて行く
と、無断でそばから椅子を持ってきて、横に座った。
「麻深君、話があるの」
「俺にはないね。さっさと帰りな」
「ハートの五とスベードの二を捨てて」
丁度、ツーペアになる二枚のカードだった。
麻深はちらりと彼女を見ると、黙って言うとおりにして、新しくデッキから
二枚引いた。
見事にバラバラのぶたになった。
沙宮耶は笑った。
相手の二人も、診せられたカードを見て大笑いして、掛け金をもって別のテ
ーブルに移動していった。
「ひでぇことしやがるじゃねぇかよ?」
怒ったわけでもなく、わざと憎々しい声をつくった。
「最近、変なことが多いと思わない?」
「このカードとかな、あんたとかな」
即答だった。
「そう、色々あるよね。もっとあるけど」
少年は、相手が酔っているわけではなく元々の性格だと入店時の時点で見透
かしていた。
厄介な相手なので、できるだけ付き合いたくない。
「君、ちょっと代わってくれないかな? 奇喩(きゆ)のほうがいい」
睨むようにした少年の目の前で、沙宮耶は指を鳴らした。
とたん、麻深の表情が変わった。
トロンとした目で、口元に薄ら笑いを浮かべている。
「……あんた何もん? 麻深の意思無視して俺を呼び出すとかさあ?」
陽気でどこか捨てっぱちな響きのある口調で奇喩は勝手に沙宮耶のグラスを
とる。
美味そうに、氷を鳴らしながら一口すすった。
「麻深は多重人格。それぐらいは、わかる仕事してるの」
テーブルに一枚、カードを出す。
そこには、ローマ字で。ラ・モールと読める文字だけが簡単に書かれている
だけだった。
手にして頭上にかざした奇喩は、ほぅ、と口にだす。
カードは紙でもプラスチックでも、ましてや樹でもない。
触ったことのない感触で、燈霞を使ったスキャンをすると、ラ・モール藻の
文字だけが空中に浮かびあがる。
「……なるほどなるほど。本物らしい」
まるで苦笑するかのようにして、奇喩はカードをエスニック系の上着のポケ
ットに入れた。
「ポーカーで負けさせちゃって、ごめんねぇ。その代わりと言っちゃなんだけ
ど、良いことしてあげる」
「なんだい?」
少しも警戒も何もない返事だった。
「トライ・クロス・クスの魅也(みや))を、新しい世界の神にしてあげる」
一瞬だまり、耐えきれないとばかりに噴き出した奇喩は大声で笑った。
「それ、幾らあんたでもイタいセリフだわー」
「本気だけどね」
「……へぇ」
自然と、笑い声がしぼんでいった。
グラスをもう一度傾ける。
「御也かぁ。あいつは難しいんじゃねぇの?」
「適任なんだよねぇ、まさしく」
「いやー、本人嫌がるだろう?」
「ならあなたが説得してよ。どっちにしろ、良い思いができるんだよ?」
奇喩は皮肉に低く苦笑した。
「……逃げようがないのかぁ。まいったもんだ」
「じゃあ、トライ・クロス・クスを頼んだよ?」
沙宮耶はグラスをそのままにしたまま、ドアに向かって歩いて行った。
醒めた半眼で、奇喩はその後ろ姿を眺めていた。
ふざけてくれたもんだと思いながら。
ビジョンを眺めている祥無は珍しく無表情だった。
臨時ニュースが映し出している様子は、都市圏に連なる怪奇な建物群の上を
張って歩くそれを映している。
夕方の薄闇の中、巨大な目を一つ持つ、鱗状の長い胴体をもった異形の存在
が、細長い軟体生物を思わせる柔らかそうな何本もの脚でビルの上を這うよう
にゆっくりと進む様子だった。
人々は禍々しさを覚えて遠巻きにするだけで誰も近寄れず、記者も今のとこ
ろどの企業に問いただしても自分のものではないとはっきり謎の存在だと報告
していた。
不思議なのは、質感も重量感も十分だというのに、建物に崩れり破損してい
る様子が無いところだった。
「なんだ、怪獣映画みたいだな」
気楽そうに電子タバコを咥えて、椅子で楽な姿勢をしながら首だけ向けた悠
真が呟いた。
深羽は、まずらしく一人でおとなしく本を読んでる。
「……ええ、そうですね」
祥無は簡単に返事しただけだった。
「あとちょっとで飯だなぁ」
「ああ、準備しませんとね」
祥無はやっと気づいたように、キッチンに向かった。
ぼんやりと無言でその姿を眺めた悠真の胸元に、浮遊ディスプレイが広がっ
た。
湖守からの文章だった。
『こちらから一名、逃げた者がいる。おまえのところに向かったらしいが始末
したので安心してくれ』
これだけの文面だった。
悠真は鼻を鳴らす。
わざわざ知らせてくるには理由があるに決まっている。
これは、湖守一流の宣戦布告だろう。
ただ、何故この時期になのかわからない。
祥無にそのままデータを放り投げる。
彼は料理の手を休めることなく、何の反応もなかった。
黙っているということは、考える必要が無いということかと、都合よく解釈
する。
もはや、どうにでもなれという気分である。
「ああ、そのヴィジョンに映っている化け物ですが、ラ・モールと戦った時の
御堂という男が本体ですよ」
言われた悠真は思わずヴィジョンと祥無に視線を行き来させた。
あの男だと!?
驚いている間もなく、再び悠真の目の前に浮遊ディスプレイが広がった。
見覚えのあるオレンジの髪をした少女だった。
『お久しぶりです。宵です。いよいよ、ニカラが動き出します。ご注意くださ
い』
それだけで、通信は切れた。
ニカラ。
燈霞が恐れる第三勢力。
浮遊ディスプレイを使って来たというのなら、燈霞の方も覚悟を決めてこそ
こそする必要がなくなったのだろう。
「……どいつもこいつも。こっちゃ、若くもないただの社不な人間だぞ」
まだ腹部その他の身体は痛いし。
半ば自棄でわざと煙の輪を吐きだしす。
「いい匂いするな! 飯か?」
キッチンの方を見て、深羽はいかにも空腹そうに叫んだ。
「ハイハイ、もう少しですよー」
祥無はニコニコしつつ、答えた。
何んなんだ、ここだけ異様なぐらいに日常しているのは。
悠真はやってられなくなり、サイドボードにある安スコッチの瓶を取りに行
った。
深夜、悠真はテーブルにウィスキー瓶とグラスを置きながら、リビングで鮭
のドキュメンタリーをヴィジョンをただ眺めていた。
外では化け物たちが大量に出現して大騒ぎらしいが、この家の中はいたって
平和だ。
「……ねれない」
不機嫌そうな、ぼそりとし声に首を回すと、シャツとショートパンツ姿で、
大きなウサギのぬいぐるみを抱えた深羽が、隅に立っていた。
「あー。ソファでゆっくりしてろよ」
「……うん」
言われた通りに四人用のソファに寝転がり、やや丸まった姿でぬいぐるみを
抱いくとヴィジョンにうっすらとした目を向ける。
「音楽かけていい?」
「好きにしろよ」
深羽は、お気に入りのSaluyの曲を流す。
あの多賀見神社での一件のせいかなのか、どうなのか、ここのところ爆発的
だった深羽がおとなしめになってきていた。
祥無は相変らず、何も言わない。
「……なぁ、悠真。おまえって昔どんなだったの?」
唐突に、深羽が聞いてくる。
「昔?」
顔もやらずに聞き返す。
古い記憶をたどろうとした瞬間、悠真は異常な困難に襲われ、つい、ウィス
キーの入ったグラスを一気に飲んだ。
何だ? 記憶がおぼろげすぎる。
今まで、正に今のことしか考えてこなかった。
だが、自分の過去を改めて思い出してみようとするが、混濁にまみれてはっ
きりしない。
電子タバコの煙を吐き、困惑を誤魔化す。
徐々に心拍数が上がり、嫌な汗が全身から噴き出す。小刻みに震え出すの
を、必死に我慢して平静をよそおう。
それは、爆発的な恐怖だった。
ゆっくりと深羽に気取られないよう、グラスをテーブルに戻すと、不思議そ
うに様子を見ている深羽に、顔を向けないようにした。
「……どんなだっけな……忘れたよ」
今にも叫びだしたいのを我慢して、掠れたような声をだす。
何かが、圧倒的な何かが、目の前で自分を粉々にした。
意識の底からそんなものが脳内を一杯にして、視界すら曇らせる。
だが、それも一瞬のうちに消え失せた。
突然に。
どっと疲れが降りてきて、悠真は天を仰ぐように、首を後ろに反らせた。
祥無か。
鼻で笑う。
あいつ、何か隠してやがるな?
深く息を吐き、何とか咥えたままだった電子タバコの煙をくゆらせながら、
彼はのんびりとした調子でグラスにウィスキーを注いだ。
「そういう深羽こそ、燈霞じゃどんな生活してたんだ?」
深羽は口をすぼめて少し拗ねたような表情になった。
「……考えたくない」
悠真は、グラス越しに軽く笑ってみせた。
「なんだ、一緒だな。俺たち仲間みたいじゃないかよ?」
深羽はニッコリと微笑んだ。
「仲間だよ。今更何言ってんだ?」
そして大きくあくびをすると、目を閉じ、小さな寝息を上げ始めた。
悠真の知覚は、アパートの安全圏周辺での騒乱を捕えていた。
伊瑠コミュニティのメンバーと東久瑠のメンバーが本格的な抗争を始めてい
たのだ。
だが、悠真にしてみれば知ったことではない。
グラスを持ったまま、祥無の寝室にノックもせずにドアを開ける。。
少年は、カーテンも閉めない窓からの月と燈霞の明かりを背に、ベッドに座
っていた。
「よう。知りたいことがある」
戸口にもたれた悠真はカラリと氷を鳴らす。
「どうぞ?」
表情は薄暗く見えずらいが、まったく普段通りの祥無だった。
「俺の過去は?」
「知っています」
「何故、俺が自分でわからない?」
「あなたが自らロックしているからですよ。誰のせいでもない」
「へぇ……」
悠真は電子タバコを指に挟んでグラスを傾ける。
珍しく、祥無が悪戯っぽく微笑んで見上げてきた。
「知りたいんですか?」
「……ああ。そうだな」
「でもあの様子だと、まだ本当の覚悟が無いようですけど?」
悠真はそっぽを向き、再び電子タバコを咥える。
「……まぁ、いい。で、今度の騒ぎは何事だ?」
「全ては、多賀見神社の裏璃という方が仕組んでいるようですね」
「あー、あのクソガキか……」
「でも、聞きたいのは、そういうことではないのでしょう?」
「まぁな」
悠真の様子は変わらない。ただ、静かに煙を吐き出しているだけだった。
「なら、一度質問をちゃんとまとめてみて欲しいところですね」
「随分と手厳しいな」
「深羽とあなたに妬いているんで。大事な妹がとられたようで」
祥無は軽く笑ってためらいなく答えた。
「あらまぁ。それはそれは。すまねぇなぁ。てか、おまえにそんな独占欲があ
ったとはね」 悠真は面白げに祥無の顔を覗き見る。
「それより、外が大変らしいです。最大限にどうにかしますが、ここはあな
たの領分のようです」
何の話かと思うと、玄関のドアが数度激しく叩かれて、以降沈黙した。
悠真がいつもの恰好でドアをゆっくりと開けると、血まみれの男が一人、玄
関前にうずくまっていた。
「ああ、悠真さん……。頼む……俺たちじゃどうにもできねぇ、伊瑠の連中が
……」
明らかに東久瑠コミュニティのメンバーであるイマジロイドはそこで息絶え
た。
道路の向こうを眺める。
時々、夜風に派手な怒号が発砲音が流れてきた。
「……あー、これはお義理を返すというよりも、お仕置きだなぁ」
悠真は両手の周りにロジ・ボールを数個浮かべて、煙を吐いた。
細かい路地の各所では、関東を二分する非合法コミュニティのメンバーが死
闘を繰り広げていた。
若い男が息を荒くしながら、曲がり角の塀に背にして、二人の仲間とともに
相手への銃撃の機会をうかがっている。
「……おまえらよぉ、ここをどこだとおもってる?」
街灯の照らす隙間に立つ黒い影があることに、彼らは突然気付いた。
「うっせぇ、それどころじゃねぇんだよ、おっさん!! どっかに引っ込んで
ろ、死にてぇか!?」
男は凄んで低く響かせた。
「湖守から何言われてる? ちょっと仲間全員、ここに集めろよ?」
伊瑠コミュニティ代表の名前を出されて、男はハッとした表情をした。
呑気に立つ男を走査すると、悠真そのものだったのだ。
「てめぇ……!?」
途端に、夜の空気をつんざくような銃声とともに、脇と向こうの角にいたメ
ンバーの二人がバランスを崩して倒れた。
二人とも片脚を吹き飛ばされて、呻きながらアスファルトの血だまりと肉片
の上であがいている。
「はやく呼べよ? ここに悠真がいるぞって言えば済むだけだろう?」
スミス&ウェッソンM500を片手に、電子タバコを咥えた黒いスーツ姿の
悠真は、ニヤニヤとしていた。
同時に、悠真は自身を地上の公的監視装置に五分だけ姿をさらした。
時間が来るとすぐにステルスモードに入る。
男は恐怖か何かで動かず、かといって攻撃してくるわけでもなく、ただ悠真
を睨んでいた。
辺り中の気配が騒ぎ出した。
もはや、伊瑠メンバー対東久瑠といった単純な構図ではない。
個々にもつあらゆる殺気を、悠真は掴んでいた。
それらは、確実にここに集まりつつある。
遠巻きに囲んだ状態で停まっている警察の幾台の車もあった。
両勢力に買収されている彼らには、手が出ないのだ。
「いいねぇ。悠真さん、一世一代の晴れ舞台みたいだなぁ」
低く嗤う。
伊瑠の湖守が東久瑠襲撃を利用して、悠真を狙っているのだ。いや、逆だろ
う。悠真がそれほど大物扱いされているとは思えないが、この際、大物になっ
たのだ。
彼らは、狭い区域で銃撃を始めた。
いたるところに、車が乗り込んできては、銃火の嵐を巻き起こす。
「悠真はどこ行った!? かくまってんじゃねぇぞ、てめぇら!! 潰されて
ぇか!?」
伊瑠コミュニティの幹部の一人が、防弾のBMWにもたれながら、銃を撃っ
ている部下に背を向けながら東久瑠コミュニティメンバーの脳にに公的メッセ
ージを叩きこむ。
「ちんけな悪党丸出しで余裕ぶっこいてるなぁ」
突然に彼の脇から声がした。
反射的にみると、髪をなでつけた黒いスーツの男が、電子タバコを咥えなが
ら、リヴォルバーとロジ・ボールだらけの腕を垂らして立っていた。
「……ゆ、悠真?」
男は唖然としたようだった。
「死にたくなきゃ、おまえらはさっさと引いてもらおうか?」
悠真は銃を持った手を伸ばし、相手の顔面を狙った。
「……よくのこのこと出てきてな」
男は、浮遊ディスプレイを開きつつ、言った。
「ゆうまぁあぁ……」
その顔面が急に歪む。
表情ではない。形が。黒い影のようなものが顔面半分から膨張し、どんどん
大きくなる。
悠真は遠慮なく男の顔面を撃った。
頭部が爆発するようにBMWの車体に飛び散る。
だが、男の身体はだらりとしたまま、倒れなかった。
本体に比べて細いというだけで、十分太い脚のが影から生えて、地上を踏み
しめる。
見上げたそれは、巨大な目玉を持つ、胴の長い多脚の化け物だった。
眼球の下にいきなり避けるように乱杭歯の口が裂けて開き、唾液とともに、
両端が楽し気に吊り上がる。
「探したぞ、ゆうまぁあ……」
悠真は無言で眼球に一弾を放った。
まったく効果も手ごたえもない。
「……クソが……御堂とかいったか。しつこいな、おまえ」
舌打ちし、スミス&ウェッソンをその場に放り投げて二三歩、距離をとる。
といっても、脚の上、五メートルはある巨体からすれば、離れた意味もな
い。
辺りに、わらわらと伊瑠のメンバーが集まってくるのがわかる。
悠真は冷や汗が出ていたが、表面、平静を装って煙でごまかす。
「どいつもこいつも……」
一つだけの眼球が悠真を捕えている。
伊瑠のメンバーは彼がいることに気づいたが、御堂の姿に驚き恐れたため、
近寄れないでいた。
視界にとらえつつ、電脳走査されるのを遮断して、路地を横に走りだした。
できるだけ、アパートとは遠くの方に。
御堂の鳥類のような足が、次々とびなぶるようにそのすぐ背後の地面に着地
する。
伊瑠コミュニティのメンバーも東久瑠のメンバーも、悠真を忘れて御堂に発
砲する。
だが、弾丸はその体を通り抜けて、まったく効果がない。
御堂の方も、彼らにはまったく興味がないかのように、悠真だけを追ってい
た。
そうこうする間に、辺りの空気が怪しくなる。
御堂だけではない。
巨大なくちばしを持った、蝙蝠の羽根を生やした四本足の鳥に似た、これも
五メートルはありそうなモノや、羊の角をと短い白い毛を生やしたタコにしか
見えないモノなどが、ゆっくりと悠真の行く手の前に姿を現した。
「……なんだよコレ……訳が分からねぇよ」
眉間に皺をよせ、息を切らした悠真は歩をゆるめて、最後、立ち止まった。
電子タバコの煙を吐き、目だけは睨むように化け物たちを見上げる。
燈霞を使った検索でも、新たに出てきた怪物の項はない。
「邪魔だぁああああああ」
御堂はいきなり、タコの身体に身体を伸ばして、乱杭歯で?みついた。
肉を噛みちぎられたタコは、四本の触手で御堂に殴りかかる。
しかし、御堂はよろけてたが、その間、眼球は悠真に向けたままだった。
これは殺やられる。
思った瞬間、悠真は御堂に蹴られた。
骨が砕けたかと思うような衝撃とともに身体が高く浮き、容赦なくアスファ
ルトに叩きつけられる。
たったこれだけで、人間の肉体でしかない悠真は気絶寸前だった。
クソ……深羽……祥無……。
……すまない……。
悠真は必死に身体を這わせるように、その場から逃れるようにする。
だが、容赦なく、御堂は悠真を圧倒的な力と大きさの足で踏みつけた。
骨が砕け、肉は潰れ、悠真は破裂するように血だけをアスファルトに飛び散
らせた。