電子タバコの水粒子が主な成分の人工煙が部屋にくゆっていた。
ぼんやりと祥無と深羽がパズルであそんでいるのを悠真が椅子に座って眺め
ていた。
時々、二人がこちらに目をやって微笑む。
一緒にやろうと誘われたが、十分で止めていた。
森などの草花と街の風景のジグソーパズルだが、ピースが多すぎて面倒くさ
くなったのだ。
深羽には呆れられたが。
彼女は自分の小型ビジョンで音楽を流していた。
古い日本の歌手で、Saluyというはるか昔の女性が歌う曲がお気に入り
のようで暇があれば延々と聴いている。
まるで異界にでもいるかのような劇的に変わった生活に、悠真は内心、戸惑
ってもいた。
全ての人間関係も社会生活も捨てたような孤独な生活から、一挙に安心感を
与えてくれる温かみのある日々。
夢か。
煙を吐きつつ、燈霞病という致死律百パーセントの病気が末期の悠真は自嘲
してみる。
インターフォンが鳴った。
時間は午後二時丁度。
悠真はすぐに脳を燈霞にリンクさせる。
「問題ないですよ。ちなみにイマジロイドの方です」
祥無が何気ないといった気楽な声を投げてきた。
悠真は一応、普段通りの装備を身に着けているので、ジャケットを羽織り、
そのまま玄関にでた。
扉を開けて目に入った人物は、女性だった。
涼し気な民族系の服を来た細いオレンジ色をした髪の長い、少女と言ってい
い人物だった。
「はじめまして。宵(よい)というものです。少々、悠真さんにお話しがある
のですが?」
「へぇ」
ちらりと、祥無を見ると深羽とパズルに夢中といった様子である。
「ちょっと、出るか」
悠真は相手がうなづくと、暑苦しいアパートの外の路地を歩きだした。
「その辺の公園で良いです」
言いつつ、彼女は先導してゆく。
近くの公園まで歩いて十五分はかかる。
二人は重苦しい雰囲気にもなることなく、人影もない樹木で囲まれた場所に
ついた。
ベンチに座ると、微風が葉を揺らして互いに擦れる音が頭上で鳴っている。
「さてと。まず燈霞の話です」
宵は、隣の悠真に視線をやらず、真っすぐ前を向いていきなり喋りだす。
電子タバコを咥え、悠真はリラックスした様子で、前かがみになった。
あえて相手が何者かは尋ねず、喋るままにしておく。
「内部で抗争が起こっています。深羽奪還派と追放派で」
「ほー。どっちにしろ、放っておく気はないんだろう?」
「ありませんね。それどころか、深羽は危険です」
「危険?」
つい、聞き返す。
「実は、燈霞も脅威に思っている勢力がいるのですが、燈霞は万が一が起こっ
たときには全人類を道連れにするつもりです。そして、深羽は、古代から現在
のあらゆる人の怨念を一身に封じられている身体です。こちらも何かがあった
なら大変なことになるでしょう」
「……それで?」
「あなたはもすぐ死にます。それに、燈霞や第三勢力に対抗できるほどの人物
でもありません。まるで象と蟻のようなものです。おとなしく、深羽を燈霞に
引き渡すべきです」
悠真は嗤った。
「……知らんよ。まぁ、情報はありがたいがね。大体、こっちはこっちの事情
で動いてるもんでな」
「伊瑠コミュニティですか。まぁ、伝えることは伝えました。有益に使ってく
ださい」
宵は立ち上がり、背を見せた。
「ああ、言い忘れてましたが、公安があなたを狙ってますよ」
肩口に言うと、路地に消えて行った。
電子タバコの煙が立ち上っては、風に消えてゆく。成分には燈霞病の治療薬
をいれているものだった。
死ぬことなんてわかりきってる。
面倒くさい話ばかりである。
悠真は立ち上がって、やや猫背気味にポケットに手を入れて帰りの道を進み
だした。
いつもより、無意識に目が座っていた。
気が付けば、道に迷っているらしい。
訝しげながら、頭のマッピング機能を使うが、反応しない。
突然、目の前に以前見た姿が現れる。
珍しく、悠真にの背中が冷えた。
両手を鉄の野太い釘で壁に打ち付けられた死体である。
ここにもか。
舌打ちしたい気分で、かすかに指先を震わせながら改めて眺めると、以前と
少し違う。
腹は裂かれてはいるが、内臓が垂れてはいない。
連続殺人鬼は、サインを残す。
目的の一つが、一種の追うものとの知的ゲームでもあるからだ。
とにかく、アパートの近くに釘打ち事件の犠牲者が出るというのは問題だ。
ただ、なぜか悠真の気分はいつの間にか幾分か晴れたものになっていた。
訳がわからない。
戸惑っていると、急に目の前が歪み、見知った道の真ん中に立っていた。
今度は舌打ちした。
もう少し、調べていたかったのだが。
「余りにも、過激すぎる!」
形を成さない、空間の中で、怒りに満ちた意思が浸透してゆく。
「何を怯えているんだ? 我々が全てを支配している。十分じゃないか」
まるで酩酊して歌うかのような陽気さが応じる。
「我々が滅んでは意味がないだろう!?」
「落ち着けよ。全てを手に入れているのは我々だよ? ニカラはそこから何を
得ることができるんだ?」
「人類のことは考えないのか!?」
「考えたさ。これが結果だ」
永遠と続けられるぶつかり合い。
だが、そこに進展も後退の余地がなかった。
燈霞が意思を持った。
その技術がありながら、何故、魂を作ることが不可能なことがあるのか。
哉藻はいつものように、自分に言い聞かせるように考える。
執務室で、別のことも考えていた。
伊瑠は、何故接触をしてこないのかと。
事態がこの状況になった以上、東久瑠との全面戦争を考えていないのだろう
か。
それとも相手にしていないのか。
とにかくも、彼はずっと連絡を待っていたのだ。
グラスにウィスキーを注いだまま、そのままぼんやりとして。
腰から下が動かない。
過去の抗争の怪我によるものだ。治療不能という。
現代科学も大したことがない。
ならば、自分が超えてやる。
自嘲の意味で、グラスを一口つける。
もう、午後八時を過ぎる。
突然、彼の眼前に浮遊ディスプレイが開いた。
そこには何の特徴もない女性の顔が映っている。
『哉藻様でいらっしゃりますね。伊瑠コミュニティの者です。お時間はよろし
いでしょうか?』
やっとか。
哉藻は内心嗤う。
「かまわんが?」
『湖守がお話をしたいと言っております』
「代わってくれ」
すぐに画面が、スーツを着て髪をなでつけた男性のものになる。
小さな微笑みをたたえた表情だ。
『久しぶりだな』
「お互い忙しいしな」
『それもそうだ』
敵対コミュニティの相手同士だというのに、旧知の友人間のような雰囲気が
あった。
「で、正直うちが深羽を狙っている件について、どうするつもりなんだ?」
いきなりだが、まるで昼食を尋ねるように斬りこまれた湖守は微笑を浮か
べ、見透かしたような目だけを向けてくる。
『建前上、手を出すな、としか言えんなぁ』
「こちらが伊瑠関連に仕掛けたら?」
『遠慮なく全面戦争だ』
向き直った湖守は、無表情だった。
「今そちらから動くきはないのか?」
ニヤリとした笑みが返ってくるだけだった。
『まぁ、楽しく殺し合いしようじゃないか。うちら極道はしょせん、そんなも
んだろう?』 哉藻はグラスを口にして笑った。
通信のディスプレイが同時に切れる。
それなら、ちょっとつついてみるか。
手詰まりだ。
悠真は内心イライラしつつ、眉間に皺を寄せてアパートに戻った。
パズルは完成間近だった。
お帰りと、陽気に迎えられるが、悠真は黙ったまま煙を吐き、二人の近くに
座った。
何とはなしに悠真が残ったピースをはめてゆくと、風景画は完成した。
「おお、いいとことってくじゃねぇかよ!」
感動したように深羽が笑顔で叫ぶ。
「あー? これぐらいならなぁ」
少しだけ、満足感を見とめつつ、悠真はニヤリとしてみせる。
祥無も満足そうだ。
「よし、飾ろうぜ!」
深羽は額縁を持ってきた。
ふと、気付いたように、悠真と祥無を見る。
「写真もいれない?」
「良いですねぇ」
「……あー?」
「なにその気乗りなさげな声?」
ムッとした顔を悠真に近づける。
悠真は職業柄、写真は余り好きではないのだ。
「お願いしますよ」
祥無が、穏やかに悠真に頼み込む。
結局、満面の笑みの笑みと、ピースサインの祥無、そして仏調面で視線を外
して電子タバコを咥えた悠真が風景がのなかに入った。
「もっと良い顔できないもんかねぇ」
深羽は眉間に眉を寄せながら、額縁のパズルを眺める。
「まぁ、良いじゃないですか」
「いいだろう、べつに……」
「いいけどさ」
間を置いた深羽は、手を伸ばして突然、悠真をの脇をくすぐった。
「お、おい、やめ……!」
無理やり笑わされたところを、祥無に写真を取られる。
そして、額縁の端っこに貼り付けられることとなった。
悠真は勝手にしろとばかり、不機嫌にそっぽを向いたが、深羽と祥無は満足
げだ。
呑気なもんだ。
煙を吐きつつ、あえて気分を抑えながら思った。
「で、彼女は何の話をしてきたんです?」
祥無が、水をむける。
目だけやった悠真は、鼻で笑った。
「何のために来たか、わかってたようじゃないか。あえて俺から聞くのか?」
「疑問もあろうかと」
少年は悪びれる様子もない。
「……どうするつもりだよ、おまえは。どうして俺のところに来たんだよ?」
「どうしてでしょうね。深羽の意思、でしょうか」
「あー? 何だそれは? ありゃ偶然だろう?」
「結果、深羽が決めたことです」
「なんでだよ?」
悠真は、パズルに見入る深羽に目をやり、呆れたような顔を祥無にやる。
「さあ?」
「随分と無責任だな」
祥無はあえてニッコリ笑っただけだった。
こいつも喰えない。
悠真は軽く舌打ちと同時に煙を吐く。
「まったくどうしていいかわからんのだけどね?」
はっきりと、悠真は腹のうちを晒す。
「僕もわかりません」
笑顔は変わらないままの答えだった。
「……やってられねぇ……」
悠真は煙だらけの天井を仰いだ。
ビジョンでは、心霊特集が流行ってから廃れることがなかった。
詩衣は、むしろわざとらしくおどろおどろしい街中を冷笑を込めつつ、オー
ルド・カーのアストンマーティンを運転していた。
国民たちの怪異趣味は増すばかりで、一種の娯楽として流行していた。
なにしろ、誰一人そのようなものを信じてはいないのだ。
都市部になればなるほど、派手さが増してゆく。
だが、朝に見るその風景は滑稽以外の何物でもない。
皆、わかっていてやっているのだから、暇なものだと詩衣は鼻を鳴らすこと
すらしなかった。
彼女の務めるリクナル本社は、半壊したヨーロッパの古城の姿を取ってい
た。
アストンマーティンを駐車場にとめて、そのまま中に入り自分のオフィスを
覗くと、三十名ほどのスタッフがすでに席について勤務していた。
課長用のブースにある席に座り、まずは報告文書に目を通す。
リクナル社は主にイマジロイドの医療器具や各種パーツの製造・販売を行っ
ている。
詩衣の第十二課は、新たな技術の研究を統括する部署だった。
報告文書の一つに彼女は目を止めた。
昨晩、取引先の医療機関から危篤状態のイマジロイドを保護したが、原因不
明の誤作動などでリクナルの研究所に搬送されたという。
信用できる取引相手だ。そこで、処理しきれないイマジロイドの状態という
ものが引っかかった。
部下に資料を送るように指示しつつ、早速席を立つ。
脳に直接報告書を流しつつ、すぐに、本社から郊外にある研究所まで自分の
車で向かう。
研究員に迎えられてラボまで来ると、ベッドに寝かされた十代半ばと思われ
る少年が半裸で眠っていた。
「……ああ」
詩衣は何者か一見してわかった。
少年の右目下に、逆さ十字のタトゥーがいれてあった。
「トライ・クロス・クスのメンバーだ」
彼女がいうと周りにいた研究員の数名が眉をひそめた。
トライ・クロス・クスとは、ストリート・ギャングのなかでも有名な集団だ
った。
決して主流ではないが、ギャングや半グレ集団の裏の調停役として特異な地
位にある。
調停に名が出せるということは、それなりの実力を持たねばならないが、そ
れを発揮した事件などは一度もない。そのくせ、目立たない訳でもない。
いわば曲者集団だった。
「……心臓と脳は活動していますが、意識が回復しないのが現状です。幾ら刺
激を与えても、反応がありませんパルス自体にすら」
余計な説明をはぶき、そばに立った研究員が言った。
詩衣はくすっと皮肉気に笑んだ。
「ワザとだろう。偽死だ。本人は死ぬつもりなんてないさ。別にいい、切り刻
んで捨ててしまえ」
楽し気な声だった。
研究員たちは一瞬目を合わせていたが、上司の命令である。手術での肢体切
断の準備を始める。
「……そんな面倒なことをしなくてもいい。鉈とか斧とかで叩き斬れ」
余りに無造作な言い方に彼らは絶句するも、緊急時の防災用斧などを持って
くる。
迷いなく、少年の身体に数人が斧を振り降ろす寸前、素早く回転した身体が
ベッドの下に潜った。
幾本の斧が叩きつけられ、布団が覆われた金属製のベッドは鈍い音とともに
ひしゃげる。
悲鳴とともに、研究者の数名が崩れるように倒れた。
その隙間からナイフを握った少年が飛び出し、一気に出口に駆けだした。
だが、ドアは硬く閉ざされて彼は小さく舌打ちした。
無言で振り返り、詩衣を睨みつける。
詩衣は脳に焼けるような衝撃を受けたが、すぐに壁を造ってフラクタル・ス
ペースからの攻撃を防いだ。
一方の残った研究者たちは、あっという間に全員が顔を歪ませて床に身体を
崩す。
二人きりになった研究室で、詩衣は冷笑を浮かべた。
「観乃(みの)君ね。麻深(おみ)って下の名前の方がいいかしら?」
麻深は何も口を閉じたままだった。
睨むような視線も変わらない。
「釘打ちの犠牲者そばで意識を失っていたそうね。ここに運ばれたの、感謝し
てほしいわ。余計な口出しする連中はいないから」
「……で?」
ようやく、呟くような反応があった。
「経緯が知りたいわ」
「……たまたま通りすがっただけだ。何も知らない」
「トライ・クロス・クスは?」
「釘打ちみたいな奴に興味持つ訳がない」
詩衣は、思わず笑った。
「……確かにそうね」
「出せ。殺すぞ?」
「釘打ちをあなた方が調べるというのなら、いいわよ?」
「言ったろう。興味ない」
「素直なのねぇ。たしか、十五歳だっけか」
詩衣は微笑ましいとばかりに唇の片方を釣り上げる。
平均的な高さの肢体は均衡がとれた細身で、無駄な肉がない。エスニック系
のシャツにズボン、スニーカー。跳ねの多い髪は一本だけみつあみを左側の耳
の前から肩口まで伸びていた。
麻深は憎悪を込めた目になった。
「あなた方は信用商売だものね。当然か。でも、あなたがここに来たって話、
みんなにどう説明するつもり?」
何枚も上手だと、麻深は認めざるを得なかった。
彼は相手をただの堅気の商売人と舐めてかかっていたのだ。
「……わかった。条件は噂を流さないこと」
「良い子ね、お小遣いもねだらないなんて」
「もういいだろう。出せ」
詩衣は無口でプライドの高い少年をからかうのが楽しかったが、度が過ぎる
のも考え者だとして、うなづいた。
「ドアは開けたわ。釘打ちの件は頼んだわよ」
哉藻はいつも通りにクスリを打ち、ウィスキーでリラックスしていた。
目の前の水槽をぼんやりと眺めていると、後頭部に硬いものが押し付けられ
た。
「……わざわざ、ここまで来たのか?」
彼は呟くと、自然な動作でグラスを片手に取った。
「うっせぇよ。こっちはプロだ、舐めんな」
悠真の声も静かだった。
身体の各所には数発弾丸を喰らっている。感覚遮断を行い、悲鳴を上げてい
るであろう身体を何とか鎮めていた。
「で、おまえは深羽らがほしいのか? イマジロイド集団はそんなに寂しいの
かよ」
哉藻は薄く笑った。
グラスの中身をちびりと傾け、息を吐く。
「あんたんとこのボスはおまえを見捨てたよ」
「……だろうな。やりそうなこった」
「見栄張ってるが死にそうだろう、あんた。何の用だ?」
「手を貸せ」
悠真の言葉に、哉藻は声を上げて一つ笑った。
よほど面白かったようだ。
「何を差し出す? 深羽を持ってくる気か?」
皮肉気に尋ねる。
「……深羽はやんねぇよ。ただ、丸ごと死なれちゃおまえも楽しみがないだろ
う?」
「それはそう。よくわかってるね。けど、伊瑠と戦争はしたくない」
「あんな連中は放って置けばいい。どうせ何もしてこんよ」
哉藻はうなづいた。
「確かにな。わかった、できるだけのことはする」
「なら俺の位置をそちらに常時流す」
「随分と、切羽詰まってるな?」
「元はといえば、おまえらのおかげだよ」
「首突っ込んできたのは、あんただ」
「うっせーな。成り行きだよ」
「その割に、必死だな」
嗤われたが、悠真は冷静だった。
「なら、話はまとまったってことで良いか?」
「家まで送ろうか?」
「いらねぇよ」
悠真はいつの間にか気配を消した。
哉藻は悠真の存在に内心、ぞくりとしていた。まさか、いきなり本部のこの
部屋まで自ら乗り込んでくるとは思わなかった。
おかげで良い刺激になった。
哉藻は愉快でたまらなかった。これだから生きてて楽しいのだ。
悠真はシボレーで高円寺の外れに住んでいる闇医者の元にいた。
陶器の皿に、鉛の塊がまた一つ、体内から取り出される。
「あんたは良い客だよ」
闇医者は喜々として術後に言った。
電子タバコの煙を吐きつつ、悠真は鼻で嗤った。
支払いは全て伊瑠コミュニティにさせているのだ。
痛みは麻酔と感覚遮断のおかげで一切ない。
まったくもって、どうしたものか。
とりあえず、身体は動く。
心配もされまい。
「ああ、その感覚遮断、やめたほうがいいよ。痛いってことは、身体が労われ
って言ってることだろう?」
「知らんよ」
むしろ小馬鹿にするような目で、悠真は煙を吐く。
闇医者は鼻を鳴らしただけだった。
「ちょっと、ひと眠りさせてもらうぜ」
「好きにしていい。別料金だけどな」
闇医者は手術用のくせに汚い部屋から出て行った。
睡眠導入剤で、悠真は意識を強制的に落とす。
一時でも安寧を得ようと。
翌朝、悠真は何食わぬ顔でアパートに戻った。
やけに静かだ。
音楽も聞こえない。
それもそのはず、深羽の姿が見えず、ぽつりと祥無が椅子に座っているだけ
だった。
「……どこ行った、あいつ?」
「ああ、おかえりなさい」
祥無は相変らずの微笑みだった。
ただ、どこか困惑気な様子が見て取れる気がした。
彼から直接、深羽の位置についてのデータが送られてくる。
以前、連れて行ったに気配があった。
やたらとイマジロイドや人間の存在が掴める。
悠真は舌打ちした。
「クソガキめ、どうやってあそこまで!? 大体何してやがる!?」
「ちょっと、頼めませんか?」
祥無に言われるまでもなく、悠真はすぐにドアから外に出ていた。
悠真は高速でシボレーを飛ばしていた。
焦る気持ちはあるが、一体これが何なんだろうという冷静な部分もある。
だが、残りの命も短い。
現に軽いめまいに襲われていた。
腹部の傷のせいかとおもい、身体スキャンを行うと、明らかに燈霞病であ
る。
燈霞は人を蝕む。身体臓器に負担をかけて、じわじわと侵食してくる。
悠真の場合は後先考えず仕事のたび、過剰に使っているので、すでにボロボ
ロである。
それでもまだ時間はある。
シボレーはいつの間にか山麓の村近くまで来ていた。
祭りの時とは違い、民家も少ないおかげで、静かな夜だった。
長い石階段をできるだけ急いで登る。
だんだん、異様な気配を多数感じる。
異様どころではない。かなりの邪悪で憎悪に満ちた意識だ。
「クソガキが……」
息を切らしながら、やっと山の中腹まで来ると、視界が開けて加賀美神社の
前に到着する。
辺りは燈霞のおかげで薄ぼんやりとした青白く照っていた。
再び、クジラを目にした。
短い柴の上には、小さな少女が、多数の倒れたイマジロイドの中に一人、立
っていた。
「深羽!?」
乱れた髪の少女は振り返った。
片目から血の涙を垂らし、驚いた顔をしている。
「……何で来た? まぁいいや。ちょっと待ってろ、悠真。今、てめぇの敵を
皆殺しにしてやっから」
凄まじい笑みを浮かべて、ラ・モールのクジラたちを見上げていた。
とんでもない爆弾を抱えている。
宵という燈霞の人物が言った言葉を思い出した。
とっさに悠真がスキャンした深羽の身体は、かなりの負荷がかかり限界に近
い。
思わず駆け寄った瞬間に、深羽は彼に寄りかかるように脚をもつれさせて傾
いた。
その軽い身体を抱きとめてそっと地面に寝かせる。
ザトウクジラの形をとった空挺船から、人影が下りてきたのだ。
地上に立った男は、以前見た時とは様変わりしていた。
圧倒的な威圧感がなくなり、むしろ存在感が薄く感じられる。
頭からは長く細い触角が四本ほど流れるように生え、筋肉の塊のようだった
身体は細く引き締まっていた。
だというのに、巨大な斬馬刀を軽々と片手で無造作に握っている。
「よぉ、久しぶりじゃん。おまえ、悠真っていうんだな。どっかで殺し屋やっ
てるんだって?」
御堂はニヤニヤとしながら、挑発的な視線を向けてくる。
電子タバコの煙を吐いた悠真は、ため息交じりだ。
いつから、こういう厄介な奴に好かれるようになったのか。
内ポケットからロジ・ボールをそれぞれ十個ほど、両手の周りに散らばらせ
る。
「悪いがねぇ、あんたみたいの対手にしてる暇、無いんだわ。また今度にして
くれない?」
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ。俺はおまえを殺したくてたまんねぇんだ
よ」
「駄々こねるなよ」
電子タバコを咥えたまま、これ見よがしに深羽を両手で抱きかかえようとす
る。
御堂が動いた。
悠真はロジ・ボールから大量の小型地雷を彼の進行方向にばらまく。
爆発が連続するが、御堂の足は止まらない。地雷が反応する以前にすでに前
に出ている程のスピードだった。
すぐに間を詰められ、振り上げた斬馬刀が、悠真を襲う。
深羽をできるだけ優しく放り、左腕に握った鐵鋼製のトンファーで斬撃を足
元に受け流す。
同時にロジ・ロールから拳銃を握り、相手の胸部に至近距離からありったけ
の弾丸を撃ち込むと顎に突き上げるようなハイキックを喰らわせた。
弾丸の衝撃に軽く揺れただけで、胸のなかまで届いたものはなかった。
ただ、ハイキックは御堂をのけぞらせた。
拳銃を捨てて小型の肉厚ナイフを手にすると、脇腹を狙って突き刺そうとす
る。
刃が派手な音をして折れる。
唖然とした。
その腕を斬馬刀の柄で上から払われて、そのまま腰をねじるようにして巨大
な刃の横薙ぎが振るわれる。
とっさにしゃがんで避けて、何度か芝生の上を回転して距離を取った。
9mmのHM弾が効かないとか地雷源をかけぬけるとか、冗談じゃない。
いつの間にか落としていたので、懐から新しい電子タバコを一吸いすると、
悠真は手榴弾を四つほど投げて、深羽の元に走り出した。
御堂は舐めてかかったのだろう。そのまま手榴弾が爆発するに任せた。
だが、中からでてきたのは、シアン化水素だった。
流石の御堂も顔をゆがめて腕を振り払う。
原始的なものとはいえ、猛毒をただの煙に対するよう、ひたすら空気を振り
払っているだけだった。
勝てるわけがない。
深羽から離れてしまったが、御堂は少女に興味がなさそうなのが救いだ。
しかも、御堂の一撃でも喰らえば確実に致命傷になるだろう事は、燈霞をつ
かった計算で重々理解していた。
絶望にかられるものの、それすら一笑に付す。
だいたい、本来真正面からの戦いを好かない悠真である。
とにかく逃げるしかない。
深羽のそばまで駆け寄ると、彼女の意識は戻っていた。
ゆっくりと立ち上がり、御堂を見据える。
「お待ちどう……」
座った目で呟いた深羽と悠真に向かって、御堂が余裕たっぷりに近づいてく
る。
途端に澄んでいた辺りの空気がどす黒さに歪む。
御堂も悠真も、何事かと辺りを見回す。
そこら中で蠢く染みのような影がうずまき、大小の悲鳴や呻き声が響く。雷
鳴のようなものも聞こえる。
燈霞はいつの間にか、真っ赤に染まって不気味に頭上に浮いていた。
「な……なん、だ?」
足を止めた御堂は、怪訝そうに眉をひそめる。
「深羽?」
悠真は、御堂を睨む少女に鬼気迫るものを感じ、思わず名を呼んだ。
ザトウクジラから慌てるように、十数名のイマジロイドが降りてきた。
同じくして、マッコウクジラも向きを変えて、彼らに向かってくる。
異変に、ラ・モールも緊急体制に入ったらしい。
部分部分で影が濃くなってゆき、ゆったりと巨大になってゆく。それは増幅
してゆくとともに、心を蝕むかのような恐怖が湧いてくる。
悠真の電子タバコの先は無意識で小刻みに震えている。
彼は感情を制御しつつ、必死に現象を解析していた。
その点、いやに燈霞の反応が薄い。
まるで活動が止まったかのようだ。
一体なにがおこっている?
必死に集中しないと悠真ですら、すぐにでも恐ろしさに襲われて身動きすら
取れなくなってしまいそうだ。
電子タバコが無意識で地面に落ちた。
心拍数が凄まじい。パニックになるのも限界かと思った時、影たちが急に巨
大化し、御堂に向かって集中した。
御堂の頭上から泥の塊が落ちてきたかのようになり、御堂の姿が埋もれてし
まった。
次には、いきなり、がらりと雰囲気が変わった。
元の澄んだ空気の池の奥にある加賀美神社の風景に戻っていた。
深羽は再び、悠真の身体に倒れかかった。
「……どういうことだ……?」
恐怖も何もかもがかき消えていた。
ただ、御堂の左手の下腕がぽつりと落ちていた。