新潟県でも北部の農耕地では夏でも爽やかな風が流れていく。一面緑の稲が風の通り道に合わせてサワサワと葉先を揺らし遮るもののない空間に一筋の線を描く。
白木啓介はその田畑の間の畦道を自転車で走りながら目の前に浮かんできた平屋の日本家屋を見つめた。田舎には良くある庭と畑が連なって石垣も塀もないこの辺りでは極々普通の家である。
そこに75歳の壮年男性が一人で暮らしている。田口源蔵という男だ。10年前に夫人に先立たれ毎日畑仕事と朝は少し歩いた先の川で釣りをするという日課を繰り返している。ある意味において優雅な老後を過ごしている男性である。
反対に白木啓介は22歳で地域課の交番勤務に配属となりこの地域・雷駐在所の駐在員になって7年。後3か月もすると30歳を迎える。つまり、ノンキャリアの中でも更に出世から離れた一生うだつも上がらない、光もあたらない駐在生活で終わる警察官であった。
今日もせっせと自転車を走らせて地域を駆け回っている。
それを白木啓介が望んでいたかというとそうではない。元々はテレビ番組の警察ドラマを見てそのカッコ良さに憧れて警察官になった。それこそ事件が起きると様々な手掛かりから全容を見て推理して解決する。
それを夢見て大学を卒業すると警察官試験を受けたのだが、配属されたこの交番に最初にいた先輩も新潟南部の所轄の刑事となって立ち去り、それから7年間希望を出してもそれが通ることはなく駐在生活を余儀なくされている。
そんな白木啓介からすれば理由も意味もないが先がないと絶望しかけているので少し何処か羨ましい生活を送っている男性であった。
白木啓介は目的の家に辿り着くと戸口の前に自転車を止めて扉をガシャガシャと音をたてながら
「田口さーん、お元気ですかー」
と声を掛けた。
シーンと返事はなく静寂が広がった。7年もこのようなことをしていればどういう状態なのかよくわかる。
白木啓介は息を吐き出すと
「ってことは、釣りか」
というとすぐに自転車に乗り右手に伸びる畦道を走った。
その先に川が流れておりアユやヤマメなどの川魚が釣れるのである。周囲を見回せば摩耶山などの緑の稜線がこの地域を取り囲むように広がっており、白木啓介は川の手前の土手の上に自転車を止めて、午前の太陽の光を受けてキラキラと輝く川面を見ながら土手下の河原で釣りをしている田口源蔵に近寄った。
「おはようございます、田口さん」
田口源蔵は釣竿を垂れながら
「おお、駐在さんか」
とにこりと笑うと
「今日はうちだったか」
と告げた。
「松村のチヨさんはどうだった?」
白木啓介は隣に座り
「松村さんは元気でしたよ。お見合い勧められました」
と応え、フゥと息を吐き出した。
田口源蔵は笑って
「松村のチヨさんは人を見る目があるから、それは光栄なことだぞ。駐在さん」
と告げた。
白木啓介はう~むと顔を顰めながら空を見上げた。
二人が言葉を無くすと途端に周囲からの僅かな川のせせらぎや木々の梢が耳に広がり、セミの鳴き声も同時にこんなに煩かったのかと思えるくらいに響いてくる。降り注ぐ陽光の音すら聞こえそうで、時間がそこだけ止まっているような錯覚すら起こしそうになるのである。
田口源蔵は黙ってぼんやりと座る白木啓介を見て
「駐在さんがやってきた日のことを覚えているぞ」
と笑った。
白木啓介は突然話を振られて驚いて彼を見た。
田口源蔵はチラリと白木啓介を見て
「目をキラキラさせてな、早く帳場の一番前に立って事件を解決する刑事になりたいって顔をしていた」
と笑って告げた。
「まあ、そういう人間はいる。もっと言えば中央なんざ権力欲と名誉欲に駆られた野郎の集まりだ」
白木啓介はハハハと力なく笑うと
「そうなんですか? 俺は刑事部に行って事件を颯爽と解決する……ほら、俳優の荒神静がやっているような刑事になりたくて警察官になったんですよ。でも……無理そうですけどね」
とぼやいた。
ポロリと出た本音だ。毎日、決まったルートの見回りをしてその後は事件が起こらなければ……というか、起こったことはないが決まった家を訪問してこうやって生存確認と交流を深めている。
毎日。毎日。決まり決まったルーチンを繰り返しているのだ。のんびりしているがやはり10代の頃に描いた夢が胸を渦巻いて時折軋むのを感じる。刑事部へ行って捜査一課で聞き込みをして犯人を逮捕する。
そんなテレビドラマのワンシーンが輝いて胸を過るのだ。恐らく、イヤきっと、叶うことのない夢だろうと30歳も目前になると分かる。ノンキャリアとキャリアの現実を見せつけられるのだ。そこには奇跡も無ければ、運もない。
……このまま55歳くらいになったら退職かなぁ……
「それなりに退職金も出るし家を買ってノンビリ生活するかなぁ」
白木啓介はそんなことを呟き立ち上がると
「じゃあ、田口さん。今日は暑くなるので熱中症に気を付けてください。また午後に見回りに来ます」
というと土手を登って自転車に乗ると手を振ってペダルに足をかけた。
その時、田口源蔵は竿を持って立ち上がると
「駐在さん」
と呼びかけると
「覚悟を持つんだ。ノンキャリアがなぁ刑事で一生やっていこうと思ったら覚悟を持つんだよ」
と告げた。
「あんたは真面目だ。それに人の心にスルっと入る良いモノを持ってる。だが、大切なものを持っていない。それを手に入れるんだ」
白木啓介は首を傾げたものの
「あの」
と言いかけると、田口源蔵は笑って
「さあ、俺も戻るから、じゃあ、午後にな」
と手を振った。
白木啓介はそれに戸惑いながら手を振り、ペダルを踏み込むと自転車を走らせて土手の道を南へ降りて暫く川沿いの涼やかな木々が緑の屋根を作る道を走った。駐在所に戻ると昼食をとって午後から再び決まったルートを自転車で回ることになるのだ。
「午後は半田さんのところだな」
白木啓介はそう呟いて駐在所の前に自転車を止めて降りると目を見開いた。車が止まっていたのだ。通常こんなことはない。何か事件があったのだろうか? 白木啓介はそう考えて慌てて中へと入って立っている2人の警察の制服を纏った男性に目を瞬かせた。
ちょうど入口を向いていた男性が敬礼をすると
「白木巡査、ご苦労」
と告げた。
白木啓介は慌てて
「は!」
と応え
「……堤署長」
と敬礼した。
村上署署長の堤東二は笑って
「雷駐在所に就任して7年。俺のことが分かるとは思っていなかったが」
と告げた。
白木啓介は心で
「一か八かで言ってよかった」
と安堵の息を吐き出していた。
直接言葉を交わしたことはないが雷駐在所の管轄は村上署なのでこんな形でやってくる人間は署長だけだと思ったのである。違っていたら良い笑いものである。
堤東二は前に立っていた人物に
「大村警部」
と呼びかけた。
大村優一は振り向き敬礼をすると
「本日より雷駐在所勤務となります。大村優一であります。新潟署刑事課から転勤となりました」
と答えた。
白木啓介は目を見開くと
「え!?」
と声を零して息を飲み込んだ。
こんな鄙びた田舎町の駐在所に警部クラスのましてあんな都会から駐在員として勤務するなんてびっくりである。白木啓介は大村優一を見開いた眼のまま見つめた。
堤東二は敬礼をすると
「では、後のことは頼む」
というとそのまま立ち去った。
雷駐在所は二階建てで一階は交番だが、奥には6畳一間の部屋と炊事が出来るキッチンと風呂がある。そして、二階にも部屋がある。が、白木啓介は便宜上一階だけを利用してそこで生活をしている。つまり住居兼交番なのだ。宿屋もマンションなんて洒落た建物もないのでそういうことになっているのだ。
白木啓介は大村優一のボストンバッグを見て
「あの、俺は何時も一階を使っているので二階をご利用ください。食事は共同になりますが大丈夫でありますでしょうか?」
と告げた。
大村優一は笑むと
「問題ない。こちらこそ迷惑をかけるがこれから宜しくお願いする」
と告げた。
新潟署と言えば新潟県でも新潟島と呼ばれるJR新潟駅などを中心とした繁華街などを担当する言わば中央である。そこの刑事課からの配属替えなど理由は一つしかない。何かヘマをやって降格人事ということである。
白木啓介は二階に大村優一を案内して一階に降りると慌てて二人分の昼食を作った。村人から貰った葉っぱ握りと昨夜の残りの味噌汁を温めて用意した。降格人事の内容など聞くわけにはいかず。
白木啓介は出来るだけ違和感がないように
「大村警部、昼食を用意しました。良ければ」
と二階へと続く階段口から声を掛けた。
聞かない方が良いだろう。と、白木啓介は考えたが大村優一が何をしたのかはいとも簡単にわかった。本人が話したのだ。
「……不倫だ」
白木啓介は思わず箸を落として
「結婚しているん……でありますか」
と呟いた。
考えれば自分も三カ月後には30歳だ。結婚していてもおかしくはないのだ。彼はドキドキしながら
「あの、大村警部は……おいくつになりますでしょうか?」
と聞いた。
大村優一は苦笑すると
「確か白木巡査は30歳だと聞いたが、まるで22歳の巡査のようだ」
と言い
「君と同じ30歳だ」
と答えた。
白木啓介は更に驚きながら
「ということは、キャリア……」
と呟いた。
大村優一は笑むと
「ああ、だが……それももう終わりだ」
と言い
「妻とは上司の紹介を受けて1年前に結婚したところで俺は不倫をしていないと言ったんだが、上司の奥方に話をしてそれで」
今回の降格人事になった。と言外に告げて肩を竦めた。
「花篝という居酒屋は妻が見つけて最初に教えてくれたんだが……その女将に嵌められたんだ」
強く拳を作って呟くのに白木啓介は
「そうだったんですか」
と呟き
「どうして嵌められたと?」
と聞いた。
大村優一は葉っぱ握りを食べながら
「まあ、色々煮詰まっていて居酒屋に寄って一杯だけ酒を飲んで気付いたら店の奥の部屋で彼女と寝ていた」
と言い
「全く記憶がない。酒は強い方で一杯飲んだだけじゃ酔わないんだが……あの時は」
と呟いた。
「女将は俺の妻に電話をして『慰謝料を払ってくれれば黙っておく』そう言って妻はあっさり上司の奥方に相談して離婚だ」
……警察官が不倫なんて窓際へ直ぐにやられる……
「それで俺は降格処分でここに来た」
白木啓介は困ったように笑い
「俺は7年間ここだったので……その……中央から来た方には物足りないかもしれませんが……いや、ですよね」
と言い沈黙を広げた。
大村優一はふっと笑って
「申し訳ない」
と言い
「誰も信じてはくれなくてな……溜まっていたんだ。決してここの勤務を馬鹿にしているわけではない」
と窓の外を見た。
白木啓介はその横顔に視線を伏せると言葉なく味噌汁を口へと運んだ。新潟県でも新潟島の所轄の刑事なんて白木啓介からすれば華である。きっと事件の毎日で聞き込みをして犯人と格闘して逮捕したりしていたのだろう。そして、ゆくゆくは署長、県警本部へと出世してキャリア組ならもっと上の警察庁なんてこともあるのかもしれない。
いやそういう夢が現実的に手に届くところにいたのだろう。だが、それが断たれたということなのだ。しかも、してないのにしたという汚名をつけてだ。
白木啓介はそれ以上かける言葉が見つからず食事を終えると大村優一が進んで食器を洗うと言ったので任せて、雷駐在所の仕事を説明した。
「それで今から午後の見回りを」
自転車は一台だったので歩いて回ることにしたのである。太陽は南天を渡ったところで日差しは強い。だが、家々の間はともかくとしても山道は緑の枝葉で陽光は遮られる。流れる風も心地よく感じられる。白木啓介は大村優一と共に村を一周し、最後に半田幸三のところへ寄って他愛無い話をすると駐在所へと戻った。
その頃には陽は山間に落ちて空は茜色に染まっていた。いつも通りに事件の『じ』の字も起きず夕食を終えると一階と二階に分かれて眠りについた。もちろん、呼び出しがあれば昼も夜も夜中もない。住み込みの駐在員はそういうモノである。
だが、白木啓介が雷駐在所に来て事件などこの7年間起きたことが無い。そんな長閑で穏やかな駐在所の初めての事件は駐在所内で起きることになったのである。明け方の空が白み始めた時に乾いた何かがはじける音が響いた。
白木啓介はハッと目を覚ますと周囲を見回して薄暗い部屋の中で身体を起こして駐在所の外へ出て異変がないのに顔を顰め中へ戻ると階段を上がり
「大村警部」
と二階の部屋を見てトンっと壁に背中をつけて階段を落ちかけた。
血が布団や畳に広がりその真ん中で大村優一が倒れていたのである。手には拳銃が握られており、白木啓介は直ぐに駆け寄り
「警部! 警部!!」
と呼びかけ、僅かに睫毛が動くのにすぐに救急に連絡を入れた。
救急車が到着し白木啓介は直ぐに村上署へ連絡を入れて救急車を見送った。手書きの手紙が残されており覚悟の自殺であった。が、銃弾は急所をズレて死にきれずに僅かに反応があったのだ。
白木啓介は規制線が張られ慌ただしく村上署の刑事が出入りするのを交番の前で立って見つめ自身の足がフワフワしているのに現実感が湧かないまま呆然とするしかなかった。7年間。いや、これまでこんな事件現場に立ったことが一度もなかったのだ。蒼褪めて立っている白木啓介の前に田口源蔵が慌てて飛んできたのだろう姿を見せた。
「駐在さん」
名前を呼ばれて白木啓介はハッと顔を上げて
「田口さん」
と震えながら敬礼をした。
「一階にいたのに……事情も大村警部から聞いていたのに……」
田口源蔵は息を吐き出して白木啓介の肩を掴むと
「だがな、自殺ってのは本人が自分を殺したんだ。そこをはき違えるな。100%誰かのせいじゃない。本人の責任が80%以上ある」
と告げた。
「ガイシャが本人で殺人犯も本人と言う殺人事件と一緒だ」
白木啓介は唇を噛み締めた。
「それでも……大村警部は……」
……嵌められた……
そう言っていたのだ。もしもそれが本当ならその相手は大村警部が自殺して喜ぶだけではないか。嵌めた人間が喜ぶだけの結末なんて
「俺は許せない」
と呟いた。
「それが真実なら俺は許せない」
田口源蔵はジッと白木啓介を見詰めた。その時、新潟県警本部の刑事部捜査一課の北倉和樹課長が姿を見せた。駐在所での自殺である。いわば内部事件と同じであった。飛んできたのである。そして、白木啓介に近付きかけて田口源蔵を見ると目を見開き敬礼をしかけた。が、田口源蔵は首を振りさっさと現場調査をしろと手を振った。
そして、田口源蔵は涙を滲ませる白木啓介の腹にゴンッと拳を押し当てると
「それで終わりか、駐在」
と強い口調で告げた。
「お前は警察官だ。ならどうするんだ! 可哀想って感傷だけで終わるのか!」
白木啓介は驚いて目を見開いて田口源蔵を見つめた。もし、本当に嵌められたとしたら……犯罪である。詐欺罪、侮辱罪などが該当する。
白木啓介は涙を滲ませながらも強い意志を秘めた目で
「調べます! もし真実なら……逮捕します」
と告げた。
「詐欺罪と侮辱罪に該当します」
それに側で行き交っていた刑事の一人・新潟県警刑事部捜査一課第一係の鈴野京太郎が驚いて
「駐在員が何を言っている」
と慌てて叫び
「大村は不倫して降格人事で自殺したんだ。嵌められたという話は聞いたが、そういうことをいう奴は多くいる。それを真に受けて調べる? ふざけるな」
と告げた。
白木啓介は彼を見て
「調べていないんですよね? でも調べていないんですよね?」
と言い
「もし嘘なら嘘だというだけだ。だが本当なら犯罪を見過ごすことになる」
と告げた。
鈴野京太郎は息を吐き出すと
「だったら、覚悟を決めろ。嘘だったらお前は越権行為で降格人事と言ってもこれ以上下は無いから一生駐在所勤務で警察生活は終わりだな」
と告げた。
「止めとけ」
……そんなことをしても降格人事をした県警本部に盾突くだけになる……
「一生巡査だぞ」
白木啓介は息を飲み込んだ。夢が、ある。中央に出て事件を颯爽と解決してテレビドラマの主役みたいに輝くことを夢見ていた。だが現実は7年間駐在生活だった。だが、夢ってなんだ? 警察官ってなんだ? 白木啓介の中で大村優一の誰にも信じてもらえず絶望した横顔がよぎった。
……もし真実、彼が嵌められて降格人事にあって自殺したのにそれを見過ごしたのならば……
白木啓介は笑むと敬礼をして
「構いません」
と答えた。
「けれど、最後に大村警部の自殺の原因の不倫に事件性があったかなかったかを調べます。もし本当に嵌められたのだとすればその裏を調べなければ犯人は同じことを他でする。それにそれを逃げ得にはさせない。俺は罪だけじゃなく犯罪“人”も許さない」
……俺は警察官です。それだけは捨てるわけにはいかない……
田口源蔵は笑みを浮かべると白木啓介の鳩尾に手を当てて
「警察官らしい良い顔になった。そうだ。警察官は推理ゲームをするだけの探偵とは違う」
と言い
「罪を憎み犯人を憎み法の裁きを受けさせる。それが警察官だ」
と告げた。
それに鈴野京太郎は息を吐き出して
「お前は組織が分かっているのか!?」
と襟首をつかんだ。
その手を二階から降りてきた北倉和樹が掴むと
「良いだろ、一生駐在で生きると言っている。いや」
というと
「一週間だけ時間をやろう。その代わり、辞表を俺に預けていけ……上の人事に対抗するならそれくらいの覚悟を持て、それが組織だ」
と告げた。
白木啓介は「わかりました」と応え、中に入ると机の引き出しから紙とペンを出して辞表を書くとそれを渡して敬礼すると
「では一週間自由にします」
と自転車に乗りかけた。
が、それに北倉和樹は呆れた顔をして立っている鈴野京太郎を見ると
「鈴野警部、白木巡査を新潟県警本部へ連れて行け。大村警部を調べるなら本部に彼が関わった資料があるし彼の身上書もある」
と告げた。
そして、田口源蔵を見ると
「これでよろしいんですね? 田口元県警本部長」
と告げた。
鈴野京太郎も白木啓介も驚いて見た。田口源蔵は笑むと
「俺はお前のそういうところを買って課長にした。お前はやっぱりできるな」
と返した。
鈴野京太郎は慌てて敬礼して白木啓介を連れて新潟県警本部へと連れて行った。田口源蔵は北倉和樹を見ると
「アレは不思議な男でな。きっと良い裏取り屋になる」
と告げた。
「犯人当てなんてお前のようにそこそこ頭のいい野郎が揃ったモノを見ればできる。だがな、本当の裏取り屋になるには人の心の隙間に入り込み解きほぐし見抜き崩す力がねぇとダメだ。あいつにはそれがあると俺は見ている」
……ただ、奴の中に正義がなかった。警察の神髄である正義がな……
「明け透けのドラマに憧れているだけのガキだった」
北倉和樹は空を見上げ
「それで今回その正義を身に着けさせようということですか」
と言い
「羨ましいですね、貴方にそんな訓練を受けられるなんて」
とパトカーに乗り込んで
「大村警部のことは私にも責任の一端があります。病院へ行ってきます」
と立ち去った。
白木啓介は新潟県警本部の前に降り立つと息を吸い込み、パトカーから降りたった鈴野京太郎に
「あの、花篝と言う居酒屋をご存じですか?」
と聞いた。
鈴野京太郎は「ああ」というと
「大村警部の不倫相手の店か」
と告げた。
白木啓介は頷くと
「はい」
と答えた。
鈴野京太郎は息を吐き出して
「確か、妻に教えてもらったと言っていたな」
と足を踏み出した。
「ちょうど昼だ。昼食ついでに行くか」
白木啓介は敬礼すると
「ありがとうございます!」
と答えた。
花篝と言う居酒屋は量販店が入ったデパートや大きな建物が立ち並ぶ新潟駅前から少し離れた個人店が立ち並ぶ商店街の一角にあるカウンター席が4席でテーブルが二つの小さな店であった。カウンターのテーブルには女将手作りの大皿に総菜が盛られており食欲をそそる香りが広がっていた。白木啓介と鈴野京太郎が中に入ると女将の上野硯の声が響いた。
「あのまだ……」
開店まえ、までは続かずに止まった。
白木啓介は白い肌をした綺麗な上野硯を見て一礼し
「初めまして」
と笑みを浮かべた。
「大村優一さんと不倫をなさっていたとか、お聞きしたので」
そう言って店内を見回した。
居酒屋と言っても盗難対策用にセキュリティ会社のシールとその会社の防犯カメラも設置されていた。また、カウンターの奥の棚には綺麗に生産地別更に綺麗に左手から高く右に低くなるように酒が並び彼女がかなりきっちりとした性格であることが分かった。駐在所で多くの家を回って色々な人と話をしてきたので家の中の様子でそこに住む人間の性格が伺えた。
白木啓介は感嘆の息を吐き出し
「綺麗ですね。お酒も色々ある」
と告げた。
彼女は軽く指先で髪をかき上げて耳にかけると
「あのもうすぐ店を開けるので……何かお聞きになりたいのなら早くなさっていただけませんか?」
と告げた。
白木啓介は彼女を見ると
「ああ、すみません。貴方が大村部長と不倫をしていたと聞いて……よく来られていたんですか?」
と聞いた。
上野硯は目を細めて
「ええ、よく来ていただいておりましたわ」
と答えた。
白木啓介はじっと彼女を見て
「奥さんもですよね? 奥さんは常連さんだったとか……結婚して大村部長に紹介するくらいお気に入りの店だったようで……でも分かりますよ、清潔感あるし酒の種類は多いし、それに総菜の匂いが良い」
と鼻を鳴らしながら告げた。
彼女は視線を動かして
「え、ええ……まあその……個人の店はそういうのが大切なので」
と答えた。
白木啓介は表情を和らげて
「ですよね、奥さんもきっと清潔感とおいしそうな料理で気に入っていたんですよね」
と笑った。
彼女はフフッと笑むと
「そうね、何時もそこの玉こんにゃくを食べてくれていたわ。彼女のお気に入りなの」
と告げた。
白木啓介はコクコク頷いて
「玉こんにゃく……俺も好きですよ」
と言い
「奥さんと仲がよかったんだ」
と笑い
「色々お話とかもされていたんですよね? こういう居酒屋ってテレビでもお客と会話を良くしているシーンが映ってるので……そんな感じで」
と告げた。
テレビって。と、彼女は思わず苦笑して
「そりゃあ、客商売ですから、りつ……大村警部さんの奥さんとも世間話程度は」
と返した。
白木啓介は頷きながら
「ですよね、こういうキッチリした雰囲気で女将さんのようにしっかりした人だと色々と話をしますよね」
と言い
「そう言えば……奥さんは大村さんと結婚する前から来ていたんですよね? 大村さんは奥さんに教えてもらったって言っていたし何時頃から?」
と告げた。
彼女はハッとして
「え、そうねぇ、何時頃からだったかしら……ごめんなさい。覚えていないわ」
と答えた。
鈴野京太郎は白木啓介と彼女を交互に見て
「こいつ、脱線が多い」
と心でやきもきしていた。
白木啓介はニコニコとして
「そうなんですか」
と応え一旦視線を下げて
「それで貴方は大村さんと不倫して」
と告げた。
彼女は肩を竦めて
「ええ、大村警部が……」
と答えた。
白木啓介は笑みを深め
「それで奥さんには?」
と聞いた。
……。
……。
それで奥さんには? と彼女も鈴野京太郎も白木啓介を見た。そもそも上野硯は白木啓介が不倫は本当なのか? どうしてどうしてそんなことをしたんだ? などなど言ってくると思っていたのだ。しかし、身構えていた方向とは違う言葉に白木啓介の意図が見えずに首を傾げたのだ。
白木啓介は彼女を見つめ
「いえ、貴方の後ろの棚を見て几帳面な性格じゃないのかな? と感じたのですが良くそう言われませんか?」
と聞いた。
鈴野京太郎は白木啓介に
「おいおい」
と声を掛けた。
鈴野京太郎自身も白木啓介の質問の意図が分からなかったのだ。上野硯は息を吐き出すと
「よく言われますけど」
と言い
「あの、大村さんと不倫をしたことをお聞きに来られたんじゃないんですか? 同じ警察の方でしょ? 本当か? なんて思われているんじゃないんですか? ……本当ですわ。お酒を飲まれてかなり酔っておられて……抱き着いてこられたんです。大村警部の奥さんには不倫したことを言いましたよ」
と告げた。
白木啓介は彼女を見て
「その一回だけですか?」
と聞いた。
彼女は目を見開き
「え、ええ……そうね……一回でも立派な不倫でしょ? 不純異性交遊……いえ、強姦かしら」
と業と笑みを浮かべて告げた。
白木啓介はふっと笑うと
「わかりました」
と踵を返し
「また聞きに来ますけど、今はもういいですよ」
と告げて、驚く鈴野京太郎に
「この人がおかしいことだけは分かりました」
と戸を開けた。
彼女は驚いて
「私が嘘を言っていると!? 疑っているの!? 本当よ?」
と告げた。
白木啓介は肩越しに見て
「普通、そういうの隠しません? 相手に惚れているのなら」
と言い
「まして、貴方……奥さんに好感を持っている。普通、奥さんの幸せを考えるなら隠しますよね? なのに堂々と不倫不倫って触れ回って、奥さんにも悪気なく報告しましたって言っている。まるで不倫していることを公にも奥さんにも知られたいって感じなので……チグハグだなぁと……それに会話も成り立たないし。俺がそれで奥さんには? と聞いたのは貴方は奥さんは常連さんで凄く好感を持っている雰囲気なのに『夫を不倫で離婚させたことについて言い訳も何もしなかったんですか? 申し訳ないって思わなかったんですか? 謝罪はしなかったんですか?』って意味だったんですよ。奥さんのことを何とも思っていなかったり奥さんを嫌ったりしていたのなら俺は聞きませんでしたよ」
と告げた。
彼女はぐっっと言葉に詰まると視線を伏せた。鈴野京太郎もハッとして目を細めると「いや、そう言われると確かに」と呟いた。白木啓介は腕を組んで
「奥さんに対抗していたり、大村優一さんを手放したくないほど好きだったり……一応、不倫を遊びだったとしても……貴方の言動はおかしい」
と言い
「貴方の心の中にそういう痴情の縺れ以外の何かが編み込まれている気がしたんです。ここで貴方と話して確信は深まりました」
と告げて戸を開けると立ち去った。
白木啓介の中で上野硯の違和感ある言動に大村優一の『騙された』という言葉が真実ではないのかと思い始めたのである。だが、まだ分からない。白木啓介はそう思い込みそうになりながら『慎重に慎重を重ねて真実を見極める』と自身を自戒し鈴野京太郎に
「あの大村優一さんの別れた奥さんに会えますか?」
と聞いた。
鈴野京太郎は息を吐き出して
「どうしてか聞いて良いか?」
というと車のエンジンを入れた。
白木啓介は彼を見ると
「あの女将さんと奥さんが凄く仲が良いことが分かったので」
と告げた。
鈴野京太郎は目を瞬かせて
「それは常連さんと女将だからだろう」
と告げた。
白木啓介は考えながら
「いや、それだけじゃない気がするんですよ」
と言い
「彼女、大村警部の奥さんのこと……りつ……って言いかけて大村警部の奥さんって言いなおしてたのが気になったんです。それに奥さんと仲がよさそうなのに奥さんに夫と不倫したことをちっとも悪びれていない。それはおかしいです」
と告げた。
「その、大村警部の奥さんってりつさんですか?」
鈴野京太郎は驚きながら
「いや、りつではないが律子だったな」
と答えた。
白木啓介は頷いて
「警部と奥さんはどこで出会ったんだろう」
と呟いた。
鈴野京太郎は「なんか田舎の親戚のおばさんを思い出す」と心で呟き
「確か、大村警部の上司で第三係長の近藤警部の紹介だったな」
と答えた。
白木啓介は笑顔で
「なるほど、俺も村のおばさんたちと仲良くなったら良く見合いを勧められて」
と答えた。
鈴野京太郎は思わず笑って
「いや、白木巡査も30歳なら結婚してもおかしくないと思うけど」
と告げた。
白木啓介は彼を見つめ
「鈴野警部は……おいくつですか?」
と聞いた。
鈴野京太郎は「27歳」と答えた。
白木啓介はそれに
「キャリア」
と呟いた。
が、彼は冷静に
「俺は準キャリだ」
と言い
「あー、大村警部の元奥さんの家だな」
とアクセルを踏んだ。
大村優一の妻は離婚後に直ぐ旧姓に戻してマンションを移って一人暮らしを始めていたのである。白木啓介は彼女の暮らすマンションを訪れインターフォンを押した。表札は金川律子となっていた。
彼女は扉を開くと
「あの、もう大村とは関係ありませんので」
と告げた。
白木啓介は笑むと
「そうですね、すみません。でも少しだけお話聞いても良いですか? お願いします」
と頭を下げた。
彼女は息を吐き出すと二人を玄関口まで入れて戸を閉め
「あの人は不倫して私を裏切ったんです。あの人が警察の中でそんなことをしていないって言ったかもしれませんけど、不倫していたんです。女将さんも言ってましたし……呼び出されて現場を見たんです」
と告げた。
「それ以外にお話しする気にはなれません」
白木啓介は玄関をスーと見まわして
「それは女将さんにもお聞きしました」
と言い
「そう言えば、金川さんは花篝の常連さんで女将さんと仲が良いと女将さんが言ってましたよ。本当に仲がいいんですね。奥さんの事を名前で呼ぶくらいなので」
と笑って告げた。
彼女は目を瞬かせて
「え! ええ……まあ……け、結婚前から行ってましたから」
と応えた。
白木啓介は笑って
「結婚前はお一人で? 色々愚痴とか話されていたとか? テレビで良く居酒屋の女将さん相手に色々愚痴を言うシーンがあったりするので現実もそんなものかなぁと」
と告げた。
彼女は戸惑いながら
「え、ええまあ」
と言いつつ
「あの……何を聞きに来られたんです? 大村が不倫をしていたことが本当かどうかですよね? あの人は私を裏切って不倫をしていたんです。許せない男です。それ以上お話することはありません」
と告げた。
白木啓介は不思議そうに
「それだけですか?」
と告げた。
……。
……。
鈴野京太郎は顔を顰め
「またか!」
と心で叫んだ。
金川律子も意味が分からないという具合に
「ええ、そうですけど……不倫した夫を許せないは当たり前ではないんですか?」
と指先で髪をかき上げると耳にかけた。
白木啓介は目を見開くと
「なるほど」
というと
「最後に、奥さんはどうしてあの店をお知りに?」
と笑みを浮かべて聞いた。
金川律子は少し焦りながらも
「偶々ですわ。偶々入ると雰囲気は良いし、料理はおいしいし……女将さんは良い人だし」
と応えた。
白木啓介は笑みを消すと
「わかりました。また来ると思います」
と踵を返した。
鈴野京太郎は驚いて
「へ?」
と呟いた。
金川律子は驚いて
「え? あの……大村が浮気をしていたのは本当ですわ。私は被害者なんです」
と告げた。
白木啓介は息を吐き出すと
「貴方と上野硯さん……不倫した相手とされた相手という関係だけじゃない気がするんですよ」
と告げた。
「普通、不倫されたら悔しくてしかたないでしょ。それに一言も雰囲気にすら女将さんを憎む気配がない。普通は出ますよ。口で『私の方が上なのにあんな女に騙された夫が悪い』なんて言いつつ、相手の女を下げる言葉。まして、貴方は上司の奥さんに相談した時に『女将さんは金を払えば黙ってる』っていったんですよね? なのに貴方も上野硯さんにしても何か大村さんは嫌いだけど相手は好きッて雰囲気がある」
金川律子はぐっと言葉に詰まった。鈴野京太郎は固唾を飲み込んだ。
白木啓介は冷静に
「では」
と戸を開けると閉じた。
鈴野京太郎は白木啓介を見ると
「いや、確かにあの二人の反応はおかしいですね」
と呟いた。
白木啓介は冷静に
「大村警部が関わった事件とか他に学生時代とか過去に何か二人に関係があったのかもしれない……ただ」
少し稚拙過ぎるのが気になりますけど。と言い、本部に戻ると最初に大村警部の関わった事件の調書を調べ始めた。
二人の反応はどちらも一緒で『大村警部が不倫をしていたことだけのアピール』であった。それに白木啓介はふっと
「あの二人の焦った時の手癖が一緒なんだよなぁ」
と呟いた。
資料室に籠って調書を捲り鈴野京太郎が弁当を買って戻ってくると礼を言って食べた。更に作業を続けて一冊の調書に目が留まった。それは2年前に新潟駅前の銀行強盗の調書で警備員が一人殺され、銀行強盗の犯人の一人がビビッて座り込んでその場で捕まった事件であった。
その時に逮捕された座り込んだ犯人は上野炭一で自分はやってないと言っていたが防犯カメラに映っていると言われ拘置所内で自殺をしていたのである。その姉が上野硯であった。
鈴野京太郎はそれを見て
「まさか、このことで復讐を?」
と呟いた。
資料のカメラを見ると確かに彼の姿が映っており犯人の一人であるというのは間違いなかった。ただ殺人に関しては仲間の一人がしたことであるが、共犯となることは火を見るより明らかであった。犯人は3人だったが一人は今刑務所で服役しているが、もう一人、上野炭一の知り合いだという男は上野炭一の自殺で捕まっていなかったのである。
白木啓介は調書でわかった二人の住んでいた場所の住所を書くと
「二人の過去を調べようと思います」
と告げた。
「これで上野硯さんが嵌める理由は分かりましたが、金川律子さんの態度もおかしいので彼女と上野硯さんは元々他で関係があった気がするんですよ」
鈴野京太郎はもうあれこれ言うことはなく「了解です」というと住所を白木啓介から受け取り、共に上野硯と炭一が暮らしていた新潟県の白根温泉へと向かった。彼らの両親はそこで小さな温泉宿を営んでいたというのである。ただ、経営不振となり倒産し相次いで亡くなり、上野硯は大学を辞めて夜の店で働くようになり金をためて花篝を始めたのである。炭一が強盗をしたのはその姉のために少しでも金が欲しかったというのがあったようである。
白木啓介はその宿屋で働いていた女性を尋ねると夫の暴力で逃げてきた母娘を雇って助けていたことがあるという話でその母娘が金川琴絵と金川律子だったのである。
そして少し遠くを見るように
「店があったころはあの子たちも本当の姉弟のようでね。近所の駐在の息子も炭一くんを弟のように可愛がって、あの二人と本当に仲が良かったんですよ。駐在さんは病気で亡くなったけど、息子さんは立派に跡を継いで係長になったって墓参りの時に言ってましたよ」
と告げた。
鈴野京太郎も白木啓介の隣で話を聞き、全ての絡繰りを理解すると
「大村警部は本当に嵌められていたのか」
と呟いた。
白木啓介は更に
「それにもう一本の糸も視えましたね」
と呟いた。
鈴野京太郎は首を傾げながら
「それは?」
と聞いた。
白木啓介は自分が考えていることを告げ驚愕する鈴野京太郎に
「そうでなければ……今回のことは成立しないとは思う部分があって考えてはいたんです。それに二人の受け答えがあまりに稚拙で……絶対に調べられない安心感があったんじゃないかと」
と告げた。
そう、それは最大の問題である大村警部の結婚の話にも繋がっていたのである。
その突拍子もない話を聞き鈴野京太郎は唸りながらも
「確かにそうは考えられる。しかし、そうなると俺だけの力では」
と呟いた。
白木啓介は笑みを浮かべると
「あの北倉課長なら聞く耳を持っている気がします」
と告げた。
「後は鈴野警部にお任せします」
鈴野京太郎は驚いて
「え?」
と声を零した。
白木啓介は車の窓から外を見て
「二人の関係が分かっただけでも大村警部が嵌められたことは証明できますし、あの居酒屋の防犯カメラはセキュリティ会社のモノなのでセキュリティ会社に連絡を入れれば画像が入手できます。まだ間に合いますよ。大抵一か月くらいは保管しています。鈴野警部と北倉課長なら答え出せると思います」
と笑った。
「俺はまた自転車漕ぎながら頑張ります」
そう言って敬礼した。鈴野京太郎は呆れたように息を吐き出した。そう、このまま二人の共犯と彼が言ったことを証明すればそれは大手柄になるのだ。恐らく所轄、もしくは県警の刑事課への希望も通るだろう。それをみすみす他に回すということだ。
だが、白木啓介は県警本部の駐車場に戻ると笑みを浮かべて頭を深く下げ、鈴野京太郎に後を頼み、新潟駅の近くのホテルで一泊すると翌日、花篝へと姿を見せた。
本当の仕事があるのだ。
彼女は白木啓介が訪れると警戒心を露わにして
「まだ何か?」
と聞いた。
白木啓介も先日のような笑みを見せず
「貴方と金川律子が貴方の弟の上野炭一の自殺が原因で組んで大村警部を嵌めたことが分かりました。貴方のご両親が営んでいた旅館で金川律子親子を助けたんですね」
と告げた。
彼女は苦く笑むと
「ええ、そうよ。でもあの男を嵌めたという証拠は?」
と聞いた。
白木啓介は冷静に
「必ず見つかります」
と言い
「上野炭一は強盗犯で逮捕は正しかった。貴方がたが大村警部を嵌めたのは唯の逆恨みでしかない。俺は貴方がたを許さないし、もし、今回、証拠が万が一見つからなかったとしても俺が見つかるまで追い続ける」
と告げた。
……貴方がたがこの世を去った後でも俺は諦めない……
「罪を憎んで人を憎まずというけれど、それは違う。罪は“人”が犯すものだ。だから俺は貴方がたを憎む。そして、その罪を明らかにするまで絶対に許さないし追い続ける」
……覚悟しておいてください……
「俺は永遠に諦めませんから」
彼女は足元を僅かに震わせ
「弟が死んだのは、あの男が弟を捕まえたからよ……無実だって訴えて弟は死んだのよ」
と告げた。
白木啓介は携帯を彼女の前に奥と銀行の防犯カメラの映像を見せた。
「多くの犯人はそういう。だが、この映像が貴方の弟が犯人であることを証明している。確かに警備員を殺したのは貴方の弟じゃなかった。だが、共犯であることは間違いない」
……貴方は殺された警備員の家族に今の言葉言えますか? そして、弟は悪くないと言って相手が受け入れてくれると思いますか? 貴方は自身の弟が犯した罪に向き合うこともせずに逆恨みでこんなことしでかした。そんな貴方に何かを言う権利はない……
「だから、俺が貴方を追い続けることも仕方がないことなんです。貴方たちの罪を明らかにする。俺は警察官ですから」
上野硯は白木啓介の強い意志を秘めた瞳によろけると棚に背中をぶつけて座り込んだ。
白木啓介は踵を返して
「それから貴方たちが味方だと思っているあの男が貴方の弟を犯罪へと導いたと思います。貴方がたは自分たちを不幸にした人間を見誤っている……金川律子にもその男にも覚悟しろとお伝えください」
貴方がたの稚拙な答えはこの男がいるという安心感があったからなんですね。と戸口へ行き押し開けると立ち去った。
上野硯は大きく目を見開くと震えながら
「うそ……ま、さか……でも……確かに炭一は昔から彼に……それにあの日も……私たち……彼に騙されていたの?……」
と呟いた。
その日のうちに、二人は警察署に姿を見せて防犯カメラの映像と共に全てを自白した。その時には二人とも後悔の念を滲ませていたのである。あの日、酒に睡眠薬を入れて飲ませ、ただ布団に寝かせただけだということであった。
同時に上野硯の弟の炭一の拘置所での自殺をもう一度調べなおして欲しいと嘆願したのである。
数日後、大村優一の上司であった第三係長の近藤警部はそれから少し遅れて強盗と拘置所内で上野炭一を殺した殺人、更に彼女たちを唆し大村優一を嵌めた詐欺と恐喝などの罪で逮捕された。それは警察官の不祥事ということで新潟県警は大きく揺れたのである。
白木啓介は雷駐在所に戻る途中で大村優一が緊急手術を受けた病院により意識不明のままICUで治療を受けていた彼に
「貴方が不倫をしていなかったことと上野硯と金川律子が貴方を嵌めたことは証明されます。あの三人の全てが明らかにされるのも時間の問題です。ただ、貴方が貴方を撃って欲しくなかった。自殺は何処まで行ってもどんな事情があっても、本人以外に罪を問うことが出来ない。自分が被害者で自分が加害者……それが自殺なのだから」
生きて抗っていただきたい、と告げた。
しかし、大村優一はまるで白木啓介を待っていたかのようにその日の夜中に息を引き取った。
その時、大村の階級は警部ではなく警視正となった。
白木啓介は反対に新潟県警本部から警戒をされ雷駐在所のままで8年目を過ごすことになったのである。ただ、北倉和樹から時折連絡が入り帳場の末端で裏取りの手伝いが入るようになった。
白木啓介はその後も刑事課希望を出したが、新潟県警のタブーとなっていて通ることはなかった。
晴れ渡った空の下でいつものように川で釣りをする田口源蔵の横に座り白木啓介はピクンピクンと沈むウキを見ながら
「人間の心はまるで複雑な編み込みがされた布のようですね」
と呟いた。
田口源蔵は笑むと
「その縫い目が狂った時に、縫い込んではいけない糸が紛れた時に、事件は起きる。それの糸って言うのは多くは欲だな欲って糸が紛れ込むと大抵は良くない……ただ人間は欲に弱いもんだからな」
と言い
「色々な人を巻き込んで編まれた布の糸を一本一本解きほぐして犯罪の糸を見つけるのが本来の警察の在り方だ」
と告げた。
……その目は出世欲に駆られてちゃぁ見つけられない……
「罪を憎む目で、犯罪者を憎む目で見つけるんだ」
白木啓介は静かに笑むと
「俺はそういう意味では欲塗れだったんですね」
と呟き
「罪を憎む目、犯罪者を憎む目……そして、人を見る目」
と立ち上がって深く大きく頭を下げた。
「ありがとうございます」
田口源蔵は笑みを深めると
「良い面構えになった。あんたは人を何処か油断させる近所のおばちゃんのような雰囲気を誰に対しても持たせるものがある。それはあんたの良いところだ。頼むぞ、白木巡査」
と告げた。
5年後に新潟県警で大規模な人事異動があると、白木啓介は漸く新潟県警の管轄内の所轄の刑事課に配属となった。その時、白木啓介は35歳になっていた。駐在所勤務を13年。長いと言えば長すぎる勤務であった。
この人事には田口源蔵の秘蔵っ子であった北倉和樹が関わり、彼が新潟県警本部長に就任し管轄の刑事部、刑事課を刷新したことで可能になったのである。