第4話

 今年52歳を迎えた白木啓介はうだつの上がらないノンキャリアの警察官であった。


 1年前に漸く警部補になったばかりで勤続年数だけはやたらと長い特段何かあるというわけではない新潟県警配下の警察署の刑事課捜査一係の刑事である。相棒は現在居らず一人で上司である友浦修吾警部から指示があると裏取りに動きその報告をするだけの『裏取り屋』と揶揄される定年まで昇級機会はないだろうという希望退職を募られる立場にあった。

 事件が起きた時に指示を出したり、推理をして犯人を突き止めるということはしない。『ここへ聞き込みに行くように』と指示を受けてそこへ向かい聞き込みや調べたりする唯それだけの捜査員である。


 そうやって後8年近くを生活していくのだろうと、白木啓介は考えている。


 秋本番を迎えた10月の初め。吹く風は涼やかで長い残暑も終わりを告げて県警本部に出社するにも、聞き込みに向かうにも空に浮かぶイワシ雲を見ながら涼しい風に身を浸せる良い季節となっていた。そして、今日も捜査一係長の友浦修吾警部から聞き込み先の指示を……と思っていたら、白木啓介は一人の青年を紹介され、同時に聞き込みの指示ももらった。


「彼は隼峰統警部補だ。彼と共にこの調書の裏取りをしてくれ。関係者がいるかどうかだ」


 渡された調書は15年前に自殺をした花祭沙代里という女性の自殺調書であった。自殺か他殺かと疑われたモノでもなく。コールドケースとして取り扱われていたものでもない。ただ、今回の事件のガイシャの過去にこの自殺が関わっていたので『一応』再調査しておこうという話になったそうである。


 ガイシャは花祭和也という男性で現在はJR新潟駅から徒歩20分ほどの場所にあるマンション街の一角の独身高級マンションで生活する商社マンであった。花祭沙代里は彼の妻で15年前に自宅のリビングで首を吊って自殺しているのを彼自身が見つけたということである。死亡推定時刻は午後4時で彼の帰宅は仕事が終わってからの午後8時で即救急車と警察へ連絡を入れており彼自身が彼女を殺したという考えには結びつかなかった。

 いや、彼自身は『妻は自殺じゃない! 誰かに殺されたんだ!』と当初は何度も警察に足を向けて再捜査を依頼していたが彼が帰宅した時に家の鍵を彼自身が開けて、連絡後に鑑識や警察が調べても荒らされた形跡もなく結局のところ再捜査は行われなかった。


 花祭和也の言い分としては『妻の沙代里に自殺理由がなく一週間後の結婚記念日にはレストランで豪華な食事をする予約まで入れていたのに、自殺するわけがない。まして、その日の朝に送り出すとき素敵なプレゼントがあるとまで言っていた』ということであった。しかし、数カ月後にぴたりと来なくなった。諦めたようである。それを再調査というよりはそこに今回の事件の糸があったらと言う一応の確認であった。


「さて、先ずは下調べだな」


 その言葉に今回相棒として指名された隼峰統という22歳の所謂キャリア組の青年が所轄の刑事課捜査一係のフロアの席に座った白木啓介に「調書ですね」と調書に目を向けた。白木啓介は笑むと「そうそう。まず何をするにも背景を知らないことにはね」と答え、隣に座った隼峰統と共に調書を読み込むことにした。

 15年も前の彼女の自殺が今回ガイシャが殺されたことに関係あるのか、ないのかは分からない。ただ、通常の人生では起きない特異点であるということで『一応』ということなのだ。本当の理由となるだろう現在の職場や人間関係、その他彼の背景の捜査はもっと中央に近い人間が現在走り回って調べている。うだつの上がらないノンキャリアに回ってくる裏取りは事件からは程遠いが調べておいた方が良いという捜査しか回ってこないものである。


 自殺の調書に書かれていた内容に特別な記載はない。15年前の3月15日に自宅のリビングで首を吊っているのを夫の花祭和也が発見したという記述から当初の状況の写真も調書の中にあった。彫りのされた豪華な食器棚に恐らく食器などにも凝っていたのだろうマイセンのカップセットなどが3種類の柄のモノが2脚ずつ綺麗に置かれているのが写真の中で映っていた。また、パーティー用のカップセットもあり3脚、6脚、8脚の来客用セットもあった。その上、全てが同じ方向に整理されて置かれていた。それも乱れた様子もなかった。


 そんな一見すると裕福で豪勢なリビングで彼女は首を括って亡くなっていたのだ。


 隼峰統はそれ全て見終えると「当時の周辺から聞き込みですね」と告げた。白木啓介はハッとして頷くと「そうだね」と答え「その前にこの調書を作った羽村金一さんからも話を聞こう」と告げた。隼峰統は頷いて「わかりました」と頷いた。白木啓介はカバンに調書を入れて立ち上がり「羽村金一さんは1年前に退職してね。新潟市江東区曾野木の方で暮らしているんだ。捜査の時に気付いたことが無いかを聞いておこうと思ってね」と告げた。


 当時のことは当時の当事者に聞くのが調書だけでは見えなかったものが見えるかもしれない。写真では捉えきれない人の心の琴線に触れる何かがあると白木啓介は考えていたのである。隼峰統は黙って白木啓介に従い車で江東区曽野木にある羽村金一の自宅へと向かった。


 黙って運転する隼峰統の隣の助手席に座り白木啓介は彼を横目で見て「これはまた桂翔太警部補とは大きく違ったタイプのキャリア組が来たものだなぁ」と心で呟いていた。そう、数か月前に新潟県警へ数カ月だけ配属され中央に戻った桂翔太はどちらかというと前面に出て指揮を執る強い覇気を感じさせる人物であった。ただ勇み足になりそうな危うさもあったが中央に戻る頃には幾分か落ち着きも出ており白木啓介は彼は良い上層部の人間になるだろうと思っていた。

 反対に隣で運転している隼峰統は強い覇気は感じさせないが冷静沈着で物事をじっくり見て解析する強さがあるような気がしたのである。会って数時間だが言葉のやり取りや様子を見れば何となくわかるモノなのである。


 白木啓介は隼峰統と共に車を羽村金一の自宅近くにある駐車場に停めて家を訪ねたが羽村金一は不在であった。


 隼峰統は車に戻ると「では当時の花祭家のあったところへ行きますね」と告げた。白木啓介は頷いて「宜しくお願いするよ」と答えた。

 白木啓介は当時の二人が生活していた家があった場所へと隼峰統と共に向かった。花祭沙代里が亡くなって花祭和也は一人暮らし用のマンションへと引越し、家は売却されたが、二人が生活をしていた家は新潟でも高級住宅街と言われる区域でそのまま暮らしている人が多くいた。白木啓介は走る車の中で調書を見ながら唇を開いた。


「しかし、関屋の近くに元々住んでいたなんて運がいいみたいだね」


 場所は新潟中央区の関屋昭和町でJR関屋駅と日本海に面した西浦海岸公園との間にあった。関根駅からそれほど距離がある訳ではなかったので住宅街に駐車場がないこともあって、二人は駅の駐車場に車を止めるとそこから徒歩で向かうことにした。密集する住宅街で聞き込みをするのに車はある意味邪魔であった。駅を超えてしばらく歩くと住宅街が広がり大きな一戸建てが多く建っていた。白木啓介は住所を見て最初は元々の家の両隣から当たることにした。


 一軒目は春日という表札がある三階建ての洒落た出窓のある家で玄関口にはオリーブの木が植えられていた。風が流れるとサヤサヤと緑の葉が揺れそれに合わせて門前に立った二人の上に木漏れ日もキラキラと煌めいた。

 白木啓介がインターフォンを押すと声が返った。


「どちら様?」


 女性の声であった。白木啓介はカメラが付いているのでその前に警察手帳を翳して「警察のモノです」と告げた。するとすぐに扉が開き、怪訝そうに二人を見て女性が4段ほどの階段を下りて低い門越しに二人に「あの何か?」と聞いた。不安と。疑惑と。恐らく一番は何故警察が来たのかわからないと言ったところだろう。確かに二人がやってきたのは15年も前の自殺の話である。わからない、と言うよりは思い当たらないのは当然である。


「実は15年前に隣に住んでいた花祭沙代里さんのことでお聞きしたいことがありまして」


 白木啓介はそう告げて小さく頭を下げた。女性は目を見開いて首を傾げた。本当に意味が分からないと言う感じである。白木啓介の隣に立っていた隼峰統が「15年前に自殺した花祭沙代里さんです。花祭和也さんの奥さんのです」と具体的に女性のインスピレーションが働くように告げた。女性はそれに「ああ」と言うと苦く笑んだ。


「あの……奥さんね」


 その様子に白木啓介と隼峰統は同時に視線を交わした。自殺で亡くなった隣の奥さんの話を聞いた際の極々普通の反応のどれにも当てはまらない表情と口調だったからである。『どうして亡くなったのかしら? 気の毒な話だった』と言う雰囲気でも『そう言えばそういうことがあった』という過去の事象をただ思い出したという雰囲気でもない。有り体に言えば口に言えない事情の人ね、と言う印象である。白木啓介は息を吐き出して唇を開いた。


「15年前の自殺に疑惑があり調べなおしているのですが、情報では沙代里さんは自殺理由がなく一週間後の結婚記念日の外食の予約を入れてるくらい上機嫌だったと言うモノなのですが、その辺りで何かご存じのことはありませんか? ご近所で彼女とトラブっていた方とか、妬んでいたおられた方がいなかったか? とか」


 女性は顔を顰めて困ったように息を吐き出した。「もう15年も経っているし」と言うと彼女はぽつりぽつりと話を始めた。花祭沙代里だけでなく近隣の幾人かの女性が所謂『奥さまグループ』の中で一人の女性が紹介した女性が投資詐欺を働いてそれで損害を被ったという話であった。話している彼女もその詐欺に引っ掛かった一人であったが、夫は所謂銀行の重役でそんな話が表沙汰になると夫の仕事に差し障るということで当時のこの近隣の女性たちは口を噤むことにしたのだ。


「花祭さんだけは大切なお金だから訴えると言っていたんですけど、そんなことをされたら私たちの名前も出てしまうし警察にも呼び出されてしまうので……まあ、説得をさせていただいたんです。特に詐欺のつもりはないと言っていた安藤光江って女性と紹介した光本さんと喧嘩にならないように仲間内でいつも仲介してくれている高田さんと4人でお話したんだと思います。そのすぐ後で花祭さんは自殺するし、結局、安藤光江って女性は引越しして音信不通になるしで……誰もこの話題に触れなくなったんです」


 白木啓介は彼女を見つめ「なるほど」と言い、更に詐欺にかかった女性たちの名前と家と詐欺を働いた女性の住んでいた場所など詳細を聞いた。被害にあった女性達は最初こそ「それは」といやいやと言ったようだが「15年も過ぎてますから話を聞くだけです」と言うと話してくれたのである。

 高級住宅街の奥さまグループの中でのこういう話は全くないわけではなかった。お小遣い稼ぎのような一種のゲームのような感覚で投資話にお金をつぎ込み、その補填のつもりで更に投資して取り返しのつかないことになってしまい悲劇に繋がってしまうのは新潟だけではなく全国でもあった。

 白木啓介は彼女たちに礼を言って次々とその詐欺に引っ掛かった女性たちを訪ねた。悔しがる人やもう思い出したくもないと顔を顰める人や当然だが全員が良い思い出ではなかったようである。特に光本香苗という女性と高田松子という女性はかなり口が重かった。特に光本香苗は本人にそのつもりはなかったとしても詐欺の片棒を担がされ、その後、暫く被害にあった女性たちに謝罪に歩き回っていたようである。


「しかもあの後に自殺するなんて私のせいだと思うと」と二人とも俯いて確かに無理やり安藤光江を呼んで謝罪させて返金させるので内密にするように訴えたことを告げたのである。

 一通り聞き終えて白木啓介は時計を見ると「近かった分だけ早く聞き込みが出来て良かったですね」と呟いた。


 時刻は漸く正午を超えた辺りであった。


 白木啓介は足を踏み出すと

「奥さま方が言っていた詐欺を働いていたという安藤光江という女性を調べましょうか」

 と告げた。


 隼峰統はそれに頷いて「そうですね、それに話を聞いて疑惑を覚えていましたが確信を持ちました」と告げた。白木啓介は目を瞬かせて隼峰統を見た。彼が何時何に疑惑を覚えて、且つ、この聞き込みで彼が何に確信を持ったのか正直分からなかったからである。いや、彼はそれを感じさせるところがなかったからである。恐らく先の桂翔太であったならば、きっとその場で口に出して直ぐに分かっていただろう。隼峰統は白木啓介が思っていた通り冷静に全てを解析してから口を開くタイプのようであった。その分だけ先走りなどはない事件の確信にズバッと切り込む鋭い人間なのだろうと感じたのである。


 だが、と考えた。

「何か思い当たったことがあったなら話してもらえると助かるけどね。人はテレパシーで会話はできないからね。お互いに言葉のキャッチボールをして信頼という糸を絡ませながら関係を築いて行かないと……まあ、俺も人のことは言えないけど人に上に立つのならそれは大切だと思うよ」

 そう、彼が上層部に言った時にも必要になるだろうと白木啓介は考えたのである。


 隼峰統はきっぱり告げる白木啓介に目を見開いたものの頭を下げると「確かにその通りです。申し訳ありません」と答え、彼の考えを告げた。『調書の写真を見た時から覚えていた違和感です』そう切り出して彼は端的に同時に分かりやすく白木啓介に抱いていた疑惑と聞き込みの中でそれの答えを得た理由を話した。

 白木啓介はその話を聞くと静かに笑みを浮かべて「そこに目をつけるとは彼は人を見るということも知っているようだ」と感じて「さすがキャリアだな」と感心した。自身も同じ感覚を持っていたと告げると「確かにそうだね。その方向性も考えて安藤光江について調べよう」と答えると「先ずは市役所で彼女の情報と彼女の現在の住所を調べよう」と足を踏み出した。


 二人は市役所へ行くと安藤光江の戸籍謄本と住民票を取得した。応接室でそれを見ながら、驚きに目を見開いていたのである。そう、そこに書かれていた内容は十二分に二人を驚かせるもので暫くの間は流石の白木啓介も人と人の繋がりの裏の奥深さに言葉を失うしかなかった。


 安藤光江は三日前に死亡していた。


 15年前に引越しをしてその後は羽村金一と同じ地区にある江東区曽野木の集合住宅に住んでいたのである。しかしそれも『偶然』と片付けられることではあるが、戸籍謄本を見れば『偶然』ではないことが理解できた。


 隼峰統は大きく息を吐き出し

「まさか、安藤光江と15年前の調書を作成した羽村金一元警部が20歳の時に結婚していたとは」

 と呟いた。


 白木啓介は彼の言葉に頷き「3年で離婚して彼女が旧姓に戻っていたから気付かなかったんだろうね。本当に人の繋がりと言うのは深くて恐ろしいものだね」と言い、暫く沈黙を守った後で「安藤光江が亡くなったという病院へいこうか」と告げた。そして、前に座ったままチラリと白木啓介を見た隼峰統に彼は笑みを浮かべると「安藤光江と羽村金一元警部の関係が離婚後も例えば最近まで続いていたのかを知りたくなってね」と話した。隼峰統は冷静にそして戸惑いつつも「羽村金一元警部に隠ぺいの疑惑を?」と聞いた。白木啓介は頷いた。


「ああ、そうだよ」


 あっさりとした言葉に隼峰統はヒタリと汗を浮かべた。通常の警察の人間にとってこういうことはある意味禁忌である。同僚を疑うというのは後ろめたさがある。だがそれをさっぱりと言い切ったのだ。白木啓介は彼の表情に苦く笑みを浮かべると「我々は警察官だがその前に人間であることを忘れてはならないと思っている。本来ならば正義を貫かなければならない立場でも人と人が絡み作る心の織りの中で翻弄されてしまうことが皆無ではない。だから、その可能性が見えた時は忖度なく考える必要はある」と告げた。「人である以上は心を持っている」と付け加えた。


「そして我々は警察官である以上は同業者でも相手が何者であっても逮捕する覚悟を持たなければね」


 隼峰統はその言葉に息を飲み込んで静かに笑みを浮かべた。白木啓介の言葉のとおりである。白木啓介と隼峰統は市役所を後にすると彼女が亡くなった曽野木病院へと向かった。二人がある意味においてはそうでなければ良かったのにと思っていたことが事実としてあり、安藤光江の癌が見つかり1年半前に入院してから羽村金一はずっと彼女の元に見舞いに訪れていた。安藤光江の癌の発見は早かったのだが彼女はずっと金がないということで病院には来ておらず働いていたスーパーの作業中に倒れて運ばれて即入院となったのである。ただその時にはステージは進んでおり手の施しようがなかったということである。


「そうねぇ、元の旦那さんが凄く良く面倒を見ていたんだけど……一度だけ違う男性がやってきて……彼女からお金をせびっていたわ」


 白木啓介は一枚の写真をポケットから出した。花祭和也の写真である。もっとも彼かどうかはわからないが可能性として見せたのである。それに看護婦は指をさしながら肯定したのである。白木啓介はチラリと隼峰統を見た。隼峰統も白木啓介を見て小さく頷いた。二人が抱いていた疑念が確信に変わったのである。


「花祭和也の自宅や周辺は他の刑事が調べているだろうからね、何れ分かるだろうね」


 隼峰統は冷静に「そうですね、でも」と言いかけた。それに白木啓介は笑みを浮かべて「もちろん、この安藤光江と花祭和也とそれぞれの夫婦の糸がどんな風に編み込まれているかが事件を解く鍵だと思うからね。最後まで追いかけようと思っているよ」と告げた。

 白木啓介は肩を動かして「花祭和也の前に安藤光江の方へ行ってから彼のところへ行こうか」と言い、二人は安藤光江が住んでいたという集合住宅へと向かった。

 曽野木集合住宅しらかばという建物の4階に彼女が住んでいた部屋がある。もちろん、入院前までであったが、幸いにも部屋はまだ残っており管理人に聞くと彼女の元夫が整理するまで待って欲しいという話だったということであった。白木啓介は手帳を見せると中に入り部屋を調べた。

 6畳と狭い台所と水屋が一つに本棚が一つで低い机がポツンとあるだけの質素な家であった。関屋昭和町の奥様達から詐欺を働いて多額の金を手に入れた女性の住むような場所には見えなかった。しかし、その理由は直ぐに分かった。隼峰統が棚の引き出しから通帳を見つけて白木啓介に渡した。15年前には数千万あった金がどんどん引き出され、数年前からは月十数万の振り込みがあっても生活費以外の数万が引き出されて消えていく状態であった。二人はその通帳を手に新潟銀行へ行くと最近の記帳分まで記帳させて目を細めた。


 最後は数円しか残っていなかったのである。

 15年である。


 その長い時間を花祭和也と安藤光江はずっと糸を織り合ってきたのである。詐欺を働いた者とその詐欺によって死ぬことになった妻を持った者とが織ったその布はきっと良いモノではなかったに違いない。二人はその通帳に言葉を失いながら、花祭和也の家に行くと数名の刑事と鑑識が調べていた。その刑事の一人が通帳を見て「この多額の入金は」と呟いていた。白木啓介はぺこりと挨拶をして「それを見せてもらえますか?」と告げた。その刑事は彼を見ると「裏取り屋の白木さんか」と言い通帳を渡した。隼峰統も安藤光江の通帳を出して白木啓介が手にした通帳と見比べた。安藤光江の通帳から消えたお金がそっくり花祭和也のその通帳に入金されていたのである。通帳は数冊に渡って引き継がれていた。不定期にお金が入金されていた。全部で数千万になっていた。


 しかし、その通帳から金が引き落とされた形跡はまったくなかった。


 白木啓介は息を吐き出すと「これが花祭和也の……復讐だったんでしょう」と告げた。花祭和也もまた妻の沙代里が詐欺にあって金を奪われたことを知ったのだろう。その復讐をし続けたに違いない。もっとも白木啓介と隼峰統が行きついたもう一つの真実にまで行きついたかどうかまではわからないのだが、ただ、隼峰統は安藤光江の最後を看取り、且つ、あの部屋の整理をしようとしていた羽村金一も花祭和也が彼女を脅して金をずっと奪ってきたことを知っていたのだろうと理解はしていた。そしてそれが原因となって今回の花祭和也への殺害に行き付く可能性は無ではない。白木啓介は安藤光江の通帳を花祭和也の通帳と共に隼峰統に渡した。


「これを彼に見せてください」


 隼峰統は頷くと「わかりました」と答え、先ほど通帳を貸してくれた刑事に見せた。それを見た刑事は目を見開き「これは」と聞いた。隼峰統は冷静に「15年前に花祭和也の妻に詐欺を働き彼女を殺した可能性がある安藤光江の通帳です。可能性として羽村金一元警部の指紋も出てくる可能性があります」と告げた。


「彼女は羽村金一元警部の20歳の時に結婚し離婚した女性でもあります」

 そう言って戸籍謄本と住民票も手渡した。


 それらを受け取った刑事は目を見開き蒼褪めると汗を拭った。言った意味を理解したのである。その日のうちに安藤光江の墓の前にいた羽村金一が逮捕され、彼は15年前の花祭沙代里と数名を巻き込んだ数千万の詐欺を安藤光江が行い、それをネタに花祭和也が金を奪っていたことに腹を立てて殺したことを告げた。


 羽村金一は薄暗い取調室の机を見つめ

「15年前に光江が関屋昭和町の数名の主婦に詐欺を働いたことを花祭和也は近隣の光本という女性から懺悔と共に聞き光江から金をせびり始めました。その時に私と光江が知り合いだと知り、それを話したら警察官である私の立場が無くなるだろうと光江を脅したんです。光江は金を私のために払い続け、そのために癌になっても病院に行くことも出来ずに……三日前に……あの男はそれを知ると笑ったんです」

 それが許せずに気付いたら殺していました。と告げた。


 白木啓介は隣で同じように効いていた隼峰統に花祭和也の通帳を取りに行かせた。そして、取調室から出てきた羽村金一とすれ違いかけた時に花祭和也の通帳を見せるように隼峰統に指示した。羽村金一はそれを目に意味が分からないと首を傾げた。が、白木啓介は彼を見ると唇を開いた。


「安藤光江は詐欺を働き多くの人を不幸にした。しかも、花祭和也から愛する女性を奪った。それを貴方は警察という権力で隠蔽した。花祭沙代里は安藤光江が殺した。そしてそれを貴方が隠蔽した警察という立場を利用して自殺にした」

 その言葉に隣にいた刑事は慌てて「白木警部補!」と止めようとしたが、隼峰統がそっと手を出して刑事を制止した。白木啓介は更に

「花祭和也がやったことは立派な恐喝罪ですが、彼は警察の力も借りれず一人で妻の復讐をしたんでしょう。そう貴方たち二人は自分たちの豊かな暮らしのために人を誑かしたんです。でも彼は彼の豊かさの為ではありませんでしたよ。安藤光江から奪った金に彼は一切手を付けていないんですよ。貴方たちの罪は彼にとっては15年経っても恐らく生きている限り許されない罪だったんでしょう。貴方が愛する女性が癌になっても治療を受けれず死んだことが悔しかった以上に自身の妻が詐欺された上に殺されてどれほど悔しかったか」

 貴方は15年前からもう警察官ではなかったし、人の心も失っていた。というと立ち去った。


 羽村金一はそれに目を見開くとそのまま座り込み号泣すると、花祭沙代里が殺されたことを自殺にしたことも『本当に全て』を自供した。

 安藤光江が責められて思わず花祭沙代里を殺してしまったと連絡を受けて羽村金一が自殺に見せかける細工をし、刑事として現場に乗り込んで唯一鍵を開けていたベランダの鍵を調べる振りをして鍵を閉めて密室の細工をしたことも吐きだしたのである。それは、新潟県警を大きく揺るがした。


 白木啓介は隼峰統と県警本部の屋上に行くと空を見上げて息を吐き出した。15年前に安藤光江のことが公になっていたら、花祭沙代里の死が自殺ではなく殺人だと判明出来ていたら、花祭和也も違った人生を歩んでいたかも知れない。あの近隣の奥さまたちの裏の糸を明らかにできていたら、わかったことなのだ。


「花祭沙代里の人と成りを見抜ける目があったらですね」


 15年の安藤光江と花祭和也の間で編まれたその布はとても悲しいモノだっただろう。花村和也が15年間使いもしない数千万の金を安藤光江からどんな気持ちで取ってきたか。どんな気持ちで彼女を恐喝し続けたのか。その悲しい闇を思うと胸が痛んだ。


 見たことのない花祭和也という男の背中が切なく瞼に浮かんだ。


 そして、それをさせたのは警察なのだ。白木啓介はそう考えながら流れる雲を暫くの間見つめていた。その後、二人の報告書を見た友浦修吾は白木啓介と隼峰統に息を吐き出しながら問いかけた。


「何故、花祭沙代里の自殺を殺人だと思ったんだ?」


 白木啓介は笑むと隼峰統に「説明をお願いする。私はそういうのは苦手でね」と告げた。隼峰統はそんなことはないだろうと思ったものの手柄を譲ってくれたのだと理解すると唇を開いた。


「3脚のティーカップです。他は全て偶数でしたがそれだけが奇数だったことと自殺の当日に4人で話をしたという話を聞き確信を持ちました。写真の棚を見れば花祭沙代里と言う女性が数と置き方などにかなりのこだわりを持った女性だと思いましたので、余計に違和感がありました」


 友浦修吾は白木啓介を一瞥し「なるほど人を見ろだな」と心で呟き報告書を受け取ると「ご苦労」と答えた。


 そして、白木啓介は彼から新しい指示を受けると隼峰統を見て

「じゃあ、裏取りにいこうか」

 と足を踏み出した。


 廊下を歩いて外へ向かいながら白木啓介は前を見つめて唇を開いた。

「裏取りは事象だけを追いかけるのではなく人間関係と言う糸をきっちり追っていかなければと思っている。それこそ、その人間の人生を垣間見れるくらいにね。地道だが一番大切な仕事だと思っているんだよ」


 白木啓介は隣を歩きながら「そうですね」と応える隼峰統に笑みを見せた。

「どんな事件でもまず解き明かしていかなければならない基本は事象ではなく。事件を取り巻く人々の見えない関係の糸とそれが織りなす布の姿だと俺は思っている。糸をどれだけ多く浮かび上がらせていくかで事件の本当の解決ができると」


 ……それこそが裏取りの本当の仕事だとね……


 隼峰統は白木啓介の言葉に笑みを浮かべると

「裏取り屋の矜持ですね」

 と告げた。


 白木啓介は目をぱちくりと見開いた。そんな矜持など持ったことはない。そんなことを意識したことはないが……だが、考えればそうなのかもしれないと笑みを見せた。


 ……ああ、それが裏取り屋の矜持だ……

 そう答えた。


 白木啓介の目の前には差し込む日射しが明るく全てを浮かび上がらせていた。