第3話

 暑すぎた夏が少し涼やかな秋へと変わり始めた。


 白木啓介は白い半そでのワイシャツを着て汗を拭いながら

「それでもまだまだ暑いな」

 と言いつつ、小さな木々が茂る祠がある森を迂回して畑の中にある一軒家の前に進んだ。

 二階建ての周囲にはよくある一戸建てで庭には小さなプレハブの農具入れがある。これもまた良くある作りのモノであった。

 手前の祠の森以外は畑が広がり視界を遮るものはない。ただ、ポツリポツリと同じような作りの家が遠くに見えるだけで長閑な、しかし、何処か鄙びた新潟の農地の光景である。


 表札には『田端』とあり、白木啓介がここへ訪れたのは前日の夕方に東都電鉄文京駅にある東都銀行文京支店で銀行強盗があり、逃亡した強盗犯の一人が田端洋平と判明したからである。

 彼の実家に彼が連絡を入れていないかを確認するために訪れたのである。本来考えるならば、そんな重要な場所にノンキャリアでうだつの上がらない去年漸く警部補になった52歳の白木啓介を一人で行かせるわけがない。

 ただ、田端洋平は実行犯の一人で実行中に逮捕された一人が主犯として名指しした人物が警察で追いかけていた裏バイトで様々な指示を出して事件を起こしていた裏組織の重要人だとわかったのでその足取りを中央の人間が追いかけていたからである。


 こう言っては何だが、田端洋平は確かに実行犯だが『下っ端』と言うか『捨て駒』と言う見方があり、警察の中では今はそれほど重要な位置にはない。だから白木啓介にお鉢が回ってきたのである。

 白木啓介は息を一つ吐き出して農道から田端家のさっぱりとした何もない庭の中に入り玄関口に足を進めるとインターフォンを押した。


 ピンポーン、と音が響いた。


 外に立っている白木啓介にすら聞こえるので家の中にいれば十分聞こえるくらいの大きな音である。暫く静寂が広がり、もう一度白木啓介がインターフォンを押すと同じように大きなピンポーンと音が響いて、漸く、閉まった扉の向こう側から「どちら様ですか?」との声が響いた。

 おどおどとした女性の声であった。身内の田端洋平が犯罪に関わっていると分かっていての対応だろう。

 白木啓介はそれが分かったものの、これも仕事だと戸の向こうで姿を見せない田端家の女性に少し大きめの声で呼びかけた。


「警察のモノですが」


 呼びかけにカラカラと音を立てて戸が開き、50代くらいの女性が姿を見せた。チラリと白木啓介の眼を一瞥し、彼が手帳を出すと直ぐに視線を下げて「息子のことですね」と告げた。その一言で彼女と田端洋平が連絡を取っていることがすぐにわかった。同時にそれくらい彼女と田端洋平が家族として絆が繋がっていることも理解した。

 日頃、犯罪から遠い人間は意外なほど『わかりやすい』行動をするのである。それだけで、白木啓介には彼女が懸命に日常を生きていたことが分かった。


「田端洋平さんの行方を追っています。防犯カメラに彼が映っていたので捕まることは時間の問題ですし素直に出頭をいただいた方が良いと俺は思います」


 白木啓介は遠回しではなく直球の言葉で彼女に告げた。彼女はある意味善良な人間である。だからこそ逃げて逃がして何れ捕まって罪が重くなるよりはその方が良いと判断したからである。

 彼女は深い息を一つ吐いてガラガラと戸を開けると「どうぞ」と中へと誘った。白木啓介は言われるままに中へと入った。安全だと理解したからである。こういう場面は何度か経験してきた。人と言うのは本心を隠すことがある。だが、どんなに本心を隠したつもりでも目力や声色、そして、ちょっとした指先の動きでわかるのである。もちろん、100%と言うわけではないが、わかるモノがあるのだ。


「お邪魔します」


 そう言って玄関から靴を脱いで取次から登ると短い板の廊下を進み広い大広間に入った。中央には膳が置かれていて白木啓介は静かに勧められるままにその手前に座った。女性は麦茶を彼の前に置いて正面に座り頭を下げた。


「息子がこの度はご迷惑をおかけしました」


 白木啓介は小さく首を振り「俺は出頭を勧めに来たので息子さんとご連絡が取れるのならばそのようにお伝えください」と告げた。これは本心である。もし彼がこの家にいるのならば逮捕だろうが、それは今はわからないし、無理に探る方が身も危険で、且つ、田端洋平が更に逃げ出すと判断したからである。


 それに、彼を出頭させることに彼女は前向きだと感じるからである。


 彼女は前に座り暫く俯いていたがぽつりと唇を開いた。初秋と言ってもまだ暑さの残り強い日差しが縁側の窓から大広間へと流れ込み、二人がいる膳の手前までその光の手を伸ばしていた。建物が作る影はその分だけ奥へと追いやられて、また同じだけ影の色も濃くなっている。


「息子が……銀行強盗なんて大それたことをするようになってしまったのは私のせいなんです」


 彼女は下に向けていた視線を僅かに上げて白木啓介を見て、すっと庭の縁側へと移した。彼女の話がその行動だけで息子の罪の軽減の嘆願や同情を引くという行為では全くなく彼女の中にある感傷のようなモノを吐露しているだけだと白木啓介は感じて、沈黙を守った。


「義理の母が亡くなるまでこの家のモノで私の自由になるものは何一つありませんでした。義理の母は夫を溺愛し、恐らく私と夫を取り合いしていたのだと思います。息子に対しては厳しく小学校や中学校や……友人たちが気軽に買ってもらえるモノを手に入れることが難しかった」


 友人たちは優しくゲームやそういうモノを気軽に貸してくれていたという。だが、それを感謝しつつも恐らく幼心に『枯渇』と言うモノを田端洋平は感じていたのかもしれない。幼い頃の『枯渇』と言う感情は青年になっても感覚だけが残ってしまうことがある。

 且つ、彼は高校卒業と共に実家を飛び出して働きながら一人暮らしをしていたと彼の母親は語り、労働に似合わない安い給料の中で幼い頃の『枯渇』が大きな『渇望』へと変化して甘い闇バイトの言葉に手を出したのだと彼女は告げた。


「罪は罪。けれど……私はその分だけあの子に謝らないといけないと思っています」


 この家で彼女もまた『枯渇』し『渇望』していたのだろうと白木啓介は感じた。その織りなす心の糸の行き先に闇バイトの糸へと針を動かしてしまったのかもしれない。

 彼女の独白は終わり、静寂が広がった。強い日差しは相変わらず庭から射し込み部屋の中を照らし出している。置かれた麦茶の氷も解けてカランと小さな音を立てた。白木啓介はその音に視線を向けた。


 ひんやりと汗を搔く麦茶のグラスにきっとこの光景は彼女と田端洋平との間にもあったに違いないと心の何処かで感じると静かに笑みを浮かべた。


「彼は貴方のところへきっと連絡を入れると思います。その時、出頭を勧めてください。彼はきっと貴方の言葉に耳を傾けますよ。その時はきっと今日のように暑いかもしれませんからこのように麦茶を飲ませてあげると良いと思います」


 在りし日の。『枯渇』ばかりではなかった時間がきっと二人の間に今のようにながれるのではないだろうかと白木啓介は考えて告げた。それが田端洋平の『渇望』から犯してしまった罪と向きあう時間になるだろうと思ったのである。

 彼女は静かに笑むと「ありがとうございます」と短く答え頭を下げた。


 田端家を出ると暑い風が畑の上を駆け抜け、白木啓介の身体を取り巻いて通り過ぎて行った。照り付ける太陽は西に傾き朱を感じさせる色合いだけは夕暮れの到来が近いことを教えていた。広がる畑、そしてその間を仕切って伸びていく農道と。茂った祠の木々がざわざわと音を立てて揺れた時に誰もいない農道の中に白木啓介は子供たちの幻影を見た。


 当たり前にモノを手にしてそれが『普通』だと思いただ楽しむ無邪気な子供の中にそれが『酷く特別』でみんなが笑うその同じ輪の中で口元に笑みを浮かべたものの何処か足りない気持ちを抱く田端洋平の幼い頃の姿を垣間見た気持であった。


 しかし、そんな彼でも小さな幸福はあの家の彼を今なお思い続ける母の元にあっただろうと白木啓介は思った。それを彼は少し忘れて悪い糸を編み込んでしまったのかもしれない。枯渇を拭おうとする渇望が彼を誤らせたのかもしれない。


 ……それでも罪は罪なのだ……

 彼のしたことで苦しみ悲しみ嘆く人々がいるのだ。


 白木啓介は捜査一課のフロアに戻ると上司である友浦修吾にさっぱりと告げた。

「彼はきっと出頭してきますよ」

 彼の言葉は友浦修吾に苦笑いを浮かべさせたが、翌日の昼に彼の母親と彼が警察へと出頭してきて誰をも驚かせた。彼は取り調べの時に「麦茶を飲んで……幼い頃に庭を母と見ていた頃を思い出しました」と小さく告げていた。


 ……気付かなかった、忘れてしまいがちな、彼を思う人の愛情を彼は思い出したのだ……


 白木啓介はそれを聞き彼が罪を償って彼女と再び歩いていく日々を祈らずにはいられなかった。