一人の女性がJR新潟駅の女子トイレで遺体となって発見された。
彼女は複数カ所刺され、便器の蓋の上でぐったりと座った状態で見つかった。
ぎらつく陽光がアスファルトを温め足元に蜃気楼を浮かべる。
白木啓介はポケットからハンカチを出すと汗を拭い、流石に暑いな、と思った。先日の会社員刺殺事件の時に相棒として紹介された桂翔太と共に今度は東京へと来ていたのである。
東京は量販店の建物も高層で、しかもさらに高いマンションやホテルが車の渋滞している道路の両側に立ち並び、新潟生まれの上に新潟育ち新潟暮らしの白木啓介からすれば新潟駅前のビル群が延々と視界の先まで続いているように思えた。
所謂、都会しかない世界に見えたのである。
「それで住所は何処ですか?」
お上りさん宜しく「ここが東京かぁ」と見ていた白木啓介に東京出身の桂翔太が苦笑しつつ告げた。どうやら彼の目には正にまごうことなく白木啓介がお上りさんとして映っていたようでそれとなく案内役を買って出てくれたのだと白木啓介は理解すると己のちょっとした失態に頭を掻きながら
「いや、申し訳ない。東京は初めてでね」
と告げて、赤坂のマンションの住所と名前を書いたメモを見せた。
「東京と言う街が……こう、異世界のように見えるね。君も違う人のように感じるよ」
町の在り方が違うだけでそこに住む人間すら『東京人』と言うように違う人種のように感じてしまい、白木啓介は52歳のいい年をした自分がいま意味もなく動揺していて少し恥ずかしい気分になった。
そもそも、今回の東京への出張は定番の聞き込みで、新潟で起きた事件に何故東京へ来る必要があったのか? と思わなければならないのだが、そう、上司の友浦修吾に指示を受けたので数週間前に相方として紹介された30歳も年下のキャリア組の桂翔太と訪れていたのである。
事件はJR新潟駅の女子トイレの個室で道倉渚という29歳の女性が数カ所刺されて死んでいるのがトイレ待ちをしていた女性が閉まりっぱなしのトイレを気にして駅員を呼んだことで発覚したところから始まった。
道倉渚と言う女性は新潟で生まれて大学卒業までを新潟で過ごし、暫く事務員として新潟の工場で働いていたが3年前に東京へ出て1年後に戻り、その後、東新潟駅から10分ほど歩いた先にあるフードセンターで働いていた。
つまり、彼女の3年前からの1年間の周辺を洗うということらしい。
白木啓介は赤坂の駅を降りて赤坂サカスやBizタワーなど新潟では見ることのできない立派な建物の前を歩きながらサクサクと案内をする桂翔太にふぅと心の中で息を吐きだした。迷いもしない。行き交う人々に溶け込むように進んでいく年若い彼の背中を見ながら「本当に新潟で聞き込みしている時とは別人だ」と白木啓介は思った。
人と言うのは不思議なもので周囲が変われば本人が変わっていなくても変わって見えるようである。いや、本当に本人も変わってしまっているのかもしれないが『違う』という意識が生まれるのである。白木啓介はそんなことをフッと考えて手帳を内ポケットから出すと聞き込み用の道倉渚の写真を見た。
道倉渚が東新潟駅のフードセンターに勤めて少しした時に催された歓迎会の写真である。会社の同僚の女性が警察へ提出したものである。そこに映る彼女は眼鏡をして白いブラウスに薄茶色のダボッとしたガウンを羽織った真面目そうな影の薄い女性であった。それこそ新潟駅の女子トイレで複数カ所刺されて遺体となって発見されるようなショッキングな事件とは無縁そうに見える。
「行きずりの犯行ではないらしいからな」
白木啓介は友浦修吾に言われた言葉をぽつりと呟き、立ち止まった桂翔太の視線を受けて「ん?」と首を傾げた。彼は先の事件で裏取りを共にしてから白木啓介の行動をよく見るようになっていた。特段、変な行動をとった記憶もないし、注目されるほど『特別な何かが』ある訳でもないのだが、恐らくは生きた歳月の分だけ先輩と言うことで先輩刑事が指示を何時出すのかとアンテナを張っているのだろう、と白木啓介は考え軽く手を振ると
「ああ、独り言だ。気にしないでくれ」
と告げた。
「それで彼女の1年間暮らしていたマンションは?」
白木啓介の問いかけに桂翔太は立ち並ぶマンションの中で3つ先の茶色のレンガの外装をした建物を指さした。
「あれです」
4階建ての四角いこじんまりとしたマンションで今も年若いショートヘアーの女性が入っていくのが目に入った。服はパンツスーツで高いヒールを履いてカッカッカッと階段を3段上がってマンションの扉を手で押し開けて入っていく。凡そ写真の道倉渚とは別人種のような感じの女性であった。白木啓介は眼鏡をしてダボッとした薄茶色のカーディガンを着た彼女の姿を思い浮かべながら、東京での一年、彼女がどんな姿で過ごしていたのか気になった。
もしかしたら。
もしかしたら。
先の女性の姿が彼女の姿に重なるように見えて「それなら何処かしっくりくるものがあるかもしれない」と考えた。白木啓介は桂翔太と共にマンションの中に入ると左手すぐにある管理人室の男性に警察手帳と道倉渚の写真を見せた。2年前までいた彼女がどういう生活をしていたのかを聞いたのである。
もちろん、2年も前の彼女のここでの生活が今回の殺人事件に関係するかどうかはわからない。新潟での関係者の方が余程多いし、生活時間も長い、これまでの経験上から言えば事件の発生は近時の出来事や近時の人間関係が起因することが約八割を占めている。なので、彼女が今勤めているフードセンターや彼女が今暮らしている新潟の実家や周辺は中央に近い刑事が調べているのである。
しかし、2年前もまだ調べるに必要だということで今回指示を受けて白木啓介は桂翔太と共に訪れたのである。
「道倉渚と言う女性なんですけどね、覚えておられますかね?」
白木啓介の質問に受付に座っていた50代くらいの壮年男性が目を細めて見ながら「道倉渚……ね」と呟いた。ピンっとこないようである。
桂翔太は黙って白木啓介の背後に立ち二人のやり取りを聞いている。最初のスナック佐渡の時はやる気満々と言う具合にリリコままに質問をしたが、その後は急に沈黙を守って必要な時だけ言葉を添えるようになった。まあ、豹変と言えば豹変である。
しかし、白木啓介はそんな彼を『流石キャリア組』と感じていたのである。手柄を上げるのに勇んで前に出るのではなく、勉強のために今は吸収しようと切り替えたのだろうと理解したのである。だから、『こんなうだつの上がらない自分に吸収するところがあるかどうかわからないが』と友浦修吾に命じられた通りにいつも通りするようにすることにしたのである。
「3年前から2年前くらいの1年間だけ住んでいたんですけどね」
それに管理人の男性は立ち上がると後ろを向いて机からノートを出してう~んう~んと唸りながら「彼女かなぁ」とぼやきながら振り返った。住人台帳なのだろう。それを指でさしながら男性は写真を見て顔を顰め、やがて唇を開いた。
「確かに203号室に道倉渚と言う女性が住んでいましたけどね、いや、写真とあまりに違い過ぎて、ちょっとわからなかったですよ」
そう苦く笑って言い、彼女が引越ししてきて暫くしてから夜の仕事に就きだして、そこで男性とトラブルになって引越ししていったということを話した。
白木啓介はフムフムと聞きながら、当時彼女と懇意にしていた人物や勤めていた店のことを聞いた。管理人は彼女が住んでいた203号室の隣の202号室の女性なら詳しいだろうと告げた。
白木啓介は桂翔太と共にエレベータに乗って2階に行くと202号室を訪ねた。沢村あかねと言う女性で先ほど二人がマンションを見た時に中へ入っていったショートヘアーの女性であった。
彼女はラメの入ったピンクの口紅をして黒いアイラインを入れた化粧をバッチリと決めた様子で姿を見せると「どちら様?」と聞いた。
「2年前に1年だけ暮らしていた、この写真の道倉渚と言う女性のことで」
彼女は目を見開くと驚いた表情を浮かべて写真を指さした。余程の衝撃だったのだろう「あー! えー!!」と言う大きな声が白木啓介と桂翔太の耳を打ちつけた。
「まるで別人! あー、渚でしょ? あれだけのトラブル起こして逃げちゃって……覚えているわよ。もう、すっごく迷惑したんだからぁ」
開けっぴろげなのだろう。警察手帳を見せても態度を変えることもせずにマシンガントークで話し出した。彼女の話によると道倉渚は引越しして3か月ほどは彼女と接点がなかったらしいが4カ月ほどした時に彼女が勤めるスナックバーの前に立っていて、彼女が口沿いをして働きだしたということであった。しかし、突然引っ越す1か月前くらいに店の常連だった男性と金銭で拗れて逃げ出したという話であった。
「その男性の写真を見せてもらっても?」
彼女は笑いながら「良いわよ、良いわよ」と言うとそのトラブルを起こした男性と道倉渚が一緒に映っている写真を持ってきた。白木啓介は写真を受け取り店の名前と住所を聞いてマンションを後にした。貰った写真の彼女は派手なパンツスーツにピンクの口紅、チークの色も濃く、アイラインは濃いブルーであった。
そして、その男性と肩を並べて笑っている様子はダボッとした薄茶色のカーディガンを羽織って口元だけにそっと笑みを浮かべて、視線を下に向けて映っている彼女とは別人であった。
ただ。
「東京には溶け込んで見えるなぁ」
白木啓介はぽつりと零すように告げた。桂翔太はそれに二枚の写真を白木啓介から受け取り暫く見つめた。太陽は既に西に傾き時計の針は午後4時半を知らせている。先まで足元を揺らしていた蜃気楼は姿を消して何処か朱を含んだような少し気温の落ちた風が夕刻を五感に知らせていた。
「東京だからとか、新潟だからとか、そうではないと思うんですが」
不意に桂翔太は呟き目を細めて何処か哀を含んだ表情で「そう感じる白木警部補と彼女は同じ感覚を持っていたのかもしれませんね。たった1年ですが彼女がここで何を心に織り込んだのか気になりますね」と呟いた。
白木啓介は彼の言葉に目を見開くとこの30近くも年下の若いキャリア組の警部補に笑みを浮かべた。
当初は事象だけを聞き込み確認しようとしていたが彼は『心』を見ようとしているのだと白木啓介は感じたのである。事件が事象の積み重ねの上にあるのではなく。被害者や加害者の心と周囲の心や状態が織り込み交わり合った末に起きるのだと感じているのかもしれないのである。
もちろん、ここでの1年が今回の彼女が殺されるという事件に関わる交わりだったのか。それとも全く関係のない織り込みだったのかは分からないが、白木啓介は新潟のフードセンターで写された写真の彼女よりここで渡された写真の彼女の方が事件のショッキングさに絡みあう何かを感じずにはいられなかった。白木啓介は友浦修吾の慧眼に苦く笑みを浮かべると桂翔太を見て『初めて』指示というものを出した。
「これから彼女が勤めていたスナックバーに行くが、先にその写真と男のことを報告してくれ」
彼はキャリア組で地方で手柄を立てて中央へ戻って出世していくのだ。しがない定年前の、いや、希望退職を募られる前のノンキャリアの警部補の自分が出来ることは彼の手柄を立てることの手助けくらいだろう。桂翔太は静かに笑みを浮かべると「ありがとうございます」と告げた。
事件はその数時間後に二人がスナックバーで飲みながら聞き込みをしている最中に決着がついたのである。送った写真の男が新潟駅で彼女と落ち合っているのが防犯カメラに映っており、新潟市内のホテルで自殺を図ったところを発見されたのである。ただ、傷は浅く命に別状はなかったということであった。
原因は金銭トラブルであった。
彼女と結婚するつもりで金を渡していたが逃げてしまったので追いかけて口論の末の犯行だということであった。
翌日、白木啓介は桂翔太と共に道倉渚の実家に訪れていた。母親と対面し彼女が東京へ行った経緯を聞くことになったのである。道倉渚は両親に東京へ行って暮らしたいと何度か頼んでいたようである。理由はなかったようである。
だからこそ、両親は首を縦に振ることはなく、彼女は3年前の暑い夏の日に自身が溜めた貯金を全て持って忽然と姿を消して東京へと出て行ったのである。母親は泣きながら「だから、だから、東京は怖いからと言っていたのに」と呟いていた。
白木啓介と桂翔太は彼女の実家を後にすると畑の上を走っていく宵闇の風を受けながら暮れていく夕日を見つめていた。白木啓介はぼんやりと会ったこともない写真だけのガイシャのことを考えながらアスファルトの農道を歩いていた。
彼女が東京へ行った理由は何だったのか。別人のように派手な化粧をして服を着て別人のように笑っている彼女が何を考えていたのか。憧れがそこにあったのかもしれない。新潟での自分に不満があって違う自分になれるかもしれないと思ったのかもしれない。
「彼女は本当に東京人になりたかったのかもしれないですね」
ぽつりと呟いた桂翔太に白木啓介は顔を向けた。桂翔太は苦く笑ってそれが良いかどうかはわからないと言いつつ、でも、自分が住んでいる場所を、これまでの自分を、全部切り捨てて変わりたかったのかもしれないと付け加えた。ただ人の歴史は過去を全て切り捨てることも、塗り替えることも、出来ないのだと白木啓介は心で呟いた。
結局。
「彼女は一度は望んで東京人になって、でも、上手くいかなくて今度はその一年を切り捨てて新潟に戻って……でも過去もその1年も彼女の歴史から消えることはなかったということだな」
と白木啓介は告げた。
都合が悪くなって逃げても過去は追いかけてきて彼女の手を掴んで死の鎌を振るったということなのだろう。それでも彼女の気持ちが分からないわけではない。一方的に良くないということも出来ない。白木啓介自身ももし過去を全てなかったものにしてもう一度違う人生が歩めたらと思うことがある。誰もがときおり持つ願望なのだ。
……ただ『それは決してできないこと』それだけなのだ……
桂翔太もそれを考えたのか
「切り捨てるのではなく……乗り越えて次の場所へ進むしかないんでしょうね。きっと」
と呟き、ふっと笑むと
「事件は単なる事象の重なりではない。人の心の糸が織りなす布の解れた部分なのかもしれない」
と言い、飛んでいくトンボに目を向けた。
……事件を紐解くには事象だけ追うのではなく被害者と周辺の心の織りなす布の網目を見ろ……
「勉強になりました」
そう桂翔太は微笑んで告げた。
翌週、彼は警視庁へと戻ったのである。
季節は秋を迎えようとしていた。