白木啓介は今年52歳を迎える中年だ。
新潟のノンビリとした町にある警察署で漸く1年前に警部補になった所謂ノンキャリアのお決まりコースをいく底辺警察官と言うことである。多くのノンキャリアはこの辺りで退職と言う終わり方をするのが通例だが白木啓介は周囲から『裏取り屋』……裏取りの報告だけが仕事……と揶揄されながらも定年まで勤めて行こうと決めていた。
所轄の刑事課捜査一係だが、事件が起きてもテレビドラマの主役のような事件を解決するために中心的となって動く人間ではない。警察手帳を手に指示された人物や会社、そのほかを回って聞き込みなどを行い、ただ報告をするのが役割で最終的な『答え』に辿り着く立場ではないのだ。
所謂、帳場の末席で事件の解説や推理をして指示を出す人間を眩しく見るその他大勢の刑事の一人と言うことだ。現代風に言えばモブと言うことになる。この先、定年まで勤めてもその立場が変わることはないということも白木啓介は良く分かっていた。
「それで、白木警部補。今日から桂警部補と一緒に聞き込みをお願いする」
会議が終わってバラバラと裏取りに向かう刑事たちの雑踏の音が響く中で白木啓介は上司の友浦修吾警部に一人の若い青年を紹介された。身長は170くらいだろう。覇気に満ちた表情は正に白木啓介とは正反対の『これからの未来』を感じさせる。
引き締まった表情で「桂翔太です」と挨拶をした青年は年齢を22歳と告げた。今年55歳を迎える自分よりも30歳も下だ。それで同じ階級ということは、つまりキャリアと言うことだ。
時折、中央から地方へキャリア組の人間がやってくる。そして、彼らは手柄を立てて中央へ戻り出世の階段を上がっていくのだ。そのお手伝いということになる。しかし、白木啓介は友浦修吾をチラリと見た。
彼は白木啓介の中では切れる男の部類に入るのだが
「こんなうだつの上がらない俺にいつもキャリアを任せようって言うのがなぁ」
と、そこだけが白木啓介の分からないところであった。
勿論、白木啓介は警察機構の一職員で上司の言うことに逆らうことは出来ない。まあ、会社員とそういうところは変わらない。白木啓介は前に立つ年若い桂翔太にへらっと少々捻くれた笑みを浮かべて足を踏み出した。
「じゃあ、行こうか」
事件は新潟の神尾商社の営業マンである的場康太という36歳の男が彼の実家のある曽川の田園地帯の農道で刺殺体となって発見されたことから始まった。的場康太という男の実家と会社へは帳場でも前の方に座っている中央に近い人間が聞き込みに行き、彼の背景を明らかにすることになる。所謂、被害者のすぐ側で犯人がいる可能性が高いと思われる場所へだ。所謂、そういう手柄に繋がる場所への裏取りは中央の人間がするものなのだ。
白木啓介はフロアを出て薄暗い廊下を歩きながら1歩後ろを行く桂翔太に
「俺たちが行くのはスナック佐渡だ。ガイシャが時々通っていた飲み屋だ」
と告げた。
それは言外に直接的な原因究明ではなく外堀の更に外堀を調べるということだと告げた。白木啓介は心の中で「これなんだよなぁ」とぼやいた。普通なら中央に近い人間につけて早く手柄を立てさせて中央へ戻す。それが普通なのだ。なのに、こんな底辺の自分につけさせているのだ。
もしかしたら、どのみち数カ月在籍したら中央へ戻っていくのだから、その程度の裏取りで良いと思っているのだろうか? 白木啓介は友浦修吾の考えを思わずそんな風に勘繰っていた。
指示されたスナック佐渡はガイシャの的場康太が時折通っていた飲み屋でJR新潟駅から徒歩10分ほどのホテルやビルが立ち並ぶ一角にある雑居ビルの2階で細々と経営する店であった。
働いているのも若い女性ではなく40代くらいのリリコままと呼ばれる女性だけで手伝いのアルバイトの女性が日替わりでやってくるだけのカウンターが4席、テーブルが2つ程度の小さな店である。
カランと音を立てて白木啓介は扉を開け、中でグラスなどを吹き上げながら後ろの棚に並べている女性を見た。背中の中央ぐらいまで伸ばした黒い髪が真っ赤なタイトのワンピースに映えて背中がしゃんと伸びているのが彼女を綺麗だと感じさせた。
白木啓介は腕時計を見て正午前に店へ出社して準備しているこの女性が『リリコまま』だと理解し足を踏み入れた。
「邪魔するよ」
彼女は呼びかけにすっとグラスを置くと口元を軽く上げて三日月のような笑みを浮かべて振り返った。ただ、それだけの動作であった。「いらっしゃい」とも「何か御用?」とも言わないのは彼女が頭の良い女性だからだろうと白木啓介はすぐに判断した。
頭の良いというのは状況判断が鋭く自らがどう行動すれば良いかを一瞬で決断しそれをやってのけるということだ。
さて、どうしようか。
白木啓介がそう考えた瞬間に桂翔太が警察手帳を見せて「的場康太さんのことで」と切り出した。白木啓介はこういう場面に何度か出くわしたことがあるので「まあそうすることはあるだろう」と心で呟いた。こういう場合は成り行きに任せるしかないのだ。仕方なしに警察手帳を白木啓介も見せて静かに笑みを向けてさり気なく店内をスーと見まわした。
リリコままは白木啓介がほぼ想定していた通りの言葉を返した。
「的場康太さん? そう言えばニュースで流れていたわね」
そこで会話は終わった。頭の良い人間は余計なことは自ら喋らないものだ。白木啓介はカウンターから少し離れた入口に桂翔太と共に立って『この場は彼に任せよう』と考えた。若者は最初はやりたいようにやればいいのだ。そして、人間と言うモノを相手にした時に何が必要かを学べば良いのだ。と白木啓介は思ったのだ。
桂翔太は彼女の言葉が終わってフと流れた沈黙に足を踏み出して
「彼がここの常連だと聞きましたが店でトラブルなどはありませんでしたか? 何か気付かれたことなどはありませんでしたでしょうか?」
と聞いた。
リリコままはフフッと笑うとにっこりして
「確かに的場さんは偶に来られていましたけど、一人で飲んで帰っていかれるだけで、あまり」
と小さく首を振った。
それ以上はわからないというボディーランゲージである。言い換えればそれ以上話すことはないということだ。白木啓介は店内を見回しながら『リリコまま』という女性を見た。店構えやちょっとした棚の置物、並べられた飲み物やグラスに『リリコまま』という女性が点在しているのだと白木啓介は思っている。
人に歴史あり。とはよく言われる言葉だが、人は情報開示ロボットではない。昨今流行りのAIのように問いかけられたら答えを返すという単純なものではないのである。様々な思考があり、その中には警戒や疑心、更には思惑があって『話すことを自身の心で選別』するのである。本当に欲しい情報があるのならば『リリコまま』を知らなければならないということである。
「お子さんは何時も預けていらっしゃるんですかね?」
白木啓介は広がった静寂の中でぽつりと告げた。店の棚の上に子供の成長祈願の札があったからである。子供がいなければ置いたりはしないだろうと思ったのだ。リリコままはそれに目を向けた。少し彼女の視線が下に向いたことに白木啓介は笑みを浮かべると言葉を紡いだ。
「いや、余計なことを聞いてしまったようですか」
リリコままは首を振ると先とは違った笑みを浮かべた。彼女はやはりスナックのママなのだ。警察からの情報提供を求める言葉には関係者としての言葉を返すが他愛無い会話にはそれを紡ぐ『癖』があるのだろう。スナックのママをする多くの女性は人を引き付ける会話術と言うモノを持っている。彼女もまたそれを持っているのだ。
「いいえ、子供は2年前まではいたんですよ。事故で逝ってしまって」
彼女の手持ち無沙汰だった指先が小さく震えて左手の指先を少し握るように右手が動いた。心の中に細波が立つような話題だったのだろう。考えれば当然と言えば当然で、子供を失って心を痛めない親はいないのだ。普通に愛情を持って育てていれば、である。
「申し訳ないことを聞いて、すみません」
白木啓介は頭を下げて少し目を細めると「ただね」と言葉を続けた。
「彼の親もいま貴方と同じ気持ちなのかもと、思いましてね」
そう告げてリリコままに再び視線を向けると言葉を紡いだ。
「的場康太さんもここに一人で飲みにきて色んな愚痴や独り言くらいは言ったんじゃないかと思いますけど、そんなことすらもなかったんですかね?」
リリコままは視線を下げたまま暫く沈黙を守り小さく息を吐き出すと
「確かに……会社の……上司のことを言っていたかも知れないわね……自分の契約を取り直して……手柄にしてるみたいなことを零していたかしら」
と言い
「もういいかしら? 準備があるの」
私が分かることはそれだけ、と会話の終了宣言をした。
白木啓介は言葉を紡ごうとした桂翔太を手で止めて「じゃあ、ご協力感謝します。また来ます」と言うと店から出た。彼女を厳しく問い詰めたところで彼女はノラリクラリと交わしていくだろうことは火を見るよりも明らかで、それくらいの度量や頭の回転が無いと店を存続させてはいけないのだ。
あっさり、引き下がった白木啓介に桂翔太は雑居ビルを出て正午の日射しが照り返す新潟駅前の雑踏の中で
「もう少し聞いた方が良いと思いましたけど」
と告げた。
白木啓介は肩を竦めて「じゃあ、今夜にでもここに呑みに来ようか」と笑って返した。聞き込みは一度聞いて「はい、終わり」ではないんだと彼の若々しい肩を軽く手の甲で叩いて告げた。事件と言うのは事件が起きた時点が始まりではなくもっと前の正に連綿と続く時間と人が織りなす心の布の一部に作られるシミのようなものなのだと白木啓介は思っている。その布の一部に今回は『リリコまま』が編み込まれているのだ。
その『リリコまま』がシミから遠いのか近いのかなどまだ分からない。恐らくは遠いと中央の人間は見ているのだろう。ただ、近かろうと遠かろうとガイシャが触れたその一部に彼女がいる。だからこそ、そこから広がる編み込みの糸に事件に繋がるものがないかを暴き出していかなければならない。それが今回の裏取りの仕事なのだ。
白木啓介は少し考えるように見つめる桂翔太に
「裏取りって言うのは事実の確認じゃなくてな、そこに蠢く一人一人の心の糸の交差を暴き出していくことなんだと俺は思っている。事件関係者の多くは一度や二度で全部の糸を見せてくれやしないだろ。桂警部補もそうじゃないのか? まあ、今日のところはスナック佐渡で会社の上司が契約の取り直しをして手柄の横取りをしていることを愚痴っていたということを報告すればいい」
と告げた。
……飲みに行けば『リリコまま』の違う顔と糸が見られると思うがな……
「その時にはまた話してくれるかもしれないさ」
しかし、その報告後に事件は急展開を見せた。的場康太の会社の上司が部下数人の契約を再契約して契約金を偽って中抜きをするという不正計上をしていることがバレて口封じのために彼を殺したことが判明したのである。
『リリコまま』はホシではなかった。だが彼女が見せた糸が事件解決のきっかけになったのかもしれない。彼女はちゃんと事件へ繋がる糸を見せてくれていたのである。
この夜、彼女の店に呑みに行くと白木啓介が思っていた通りに赤い唇を良く動かしてケラケラと笑って客応対をする昼とは違う彼女のもう一つの姿を見せていた。
そして。
「常連が『二人』いなくなったのは痛手だとは思ったけど、代わりに貴方が常連になってくれると嬉しいわ」
とケラっと答え
「坊やだけじゃ話さなかったわね。だって、大切な常連の情報漏洩ですもの。はい、そうですかってベラベラ喋ると口の軽いママだと思われて商売に障りがでるでしょ?」
人を勉強しなさい、とフフッと笑って付け加えた。
もしかしたら、彼女は警察よりも先に事件の全容が見えていたのかもしれないと、白木啓介は苦い笑みを浮かべた。
その事件解決へ繋がる糸をあの時にチラリと見せたのだ。
人は一面だけはない。だからこそ何度も足を運び深く人間のその心の底を見ることが必要なのだ。そこから切り崩していくしか人は糸を見せてはくれないのだ。
この時、白木啓介が呑みに付き合わせた桂翔太も同じことを感じたようで小さく苦い笑みを浮かべてブランデーを煽っていた。