朝日が顔面に当たって、目を擦ると、そこは色とりどりの毛布の中だった。
どうやら私は、いつの間にか眠っていたようだ。両手で起き上がり、身から毛布が雪崩れていき、私は見回すと、彼女は背後で小さな息を漏らしながら、両手を同じ場所に合わせて、無防備に眠っていた。
そんな彼女は、もう、私にくっついてはいなかった。
そんな彼女をみて、にわかに、苦しくなった。
あまりの気分の悪さに私はその部屋からベランダに出て、日光を浴びて、空気を呑み込んだ。それでも、気持ち悪さは薄まらず、私の心を苦痛が支配していく。何故と疑問符が浮かぶが、深夜の一件で、何か世界の見え方が変わったような気がして、というと、何か言葉足らずな気もするから困った。どういえば適切なのでしょう? 認識できる色彩が増えた。と言いますか。知見が増えて面白くなかったものが面白く思えた。と言いますか。ともかく、そういった気持ちの変化が確かにあって、それのせいで、私は、ことのほか何かの『確信』に、近づいた気がした。
私は自分がどういった人間なのかを改めて認識したのだ。
吐き気を催す邪悪。
私は自分をそう思った。彼女にはそういう想いがあって、私についてきてくれたのに、私は彼女を、何も理解していない。
彼女は、言い方を悪く言うと、勝手に私を理解して勝手に友達だと思ってくれていたのだろうし、性的にもみられるほど、勝手に好感度を高めていたようだったのだが。はっきりと、私の方でもそれらをしていたかというと全然していなく、かえって私が、私の短慮さに確信をもつ結果となって、はなはだ不愉快だった。彼女を傷つける意図はない。彼女には笑ってほしいとも、本気で思っている。彼女の幸せを心の奥底から願っている。……分からない。願っているのだろうか。私は彼女の想いには答えられない。それはもう決定している。私は彼女を親友としてしか好きではなかった。性的には見ていなかったのだ。もし、彼女と一緒に住んでも、きっと自堕落に終わるだろう。それに私は、幸せになっていい人間ではない。私は、罪人だからだ。
殺人を犯した。その贖罪も終わっていない。
「…………」
はは。もう後戻りできないくらいに、私は面倒臭いし、私は僻んでいるのだろう。
何かを求めていた。でも、何を求めているのか分からない。
何かを決めたかった。でも、何を決めたいのか、分からない。
何かを信頼したかった。でも、何を信頼したいのか分からない。
何かを褒められたかった。でも、何を褒められたかったのか分からない。
何も分からなくなってしまって、ついには、『何か』の奴隷となる。人の、『何か』を本気で信じられる当たり前の技能は、一体いつ、故障したのでしょうか。私はいつから虚無の奴隷だったのか。私はいつから虚無の民だったのか。
もう、真相は分からない。
あるのは忽然とした、死だけ。希死念慮の概念が、ふと芽生えた。
ああ、友人よ。喉の奥に指を突っ込んで何かを吐きたくなる。その気持ちが、大いに分かった。
最悪な気分だ。
私はたまらなくなって、タバコに火をつけた。
煙を格好つけて吹いていると、風がふわりと煙を運び、それは緩やかな曲線を綺麗に描いていて、それに見惚れていると、何だかそれはそれで気恥ずかしくなってきたのだが、それも一つの味かと謎の納得をかまし、私は浸りながらも精神を落ち着かせる。これは精神的チューニングを行っているのだ。人それぞれ何かしら落ち着く方法という物がありますけども、かくして、私はタバコを格好つけて吸う事がチューニングでありますので、周りからみて煙たがれることがしばしばとありますけども、しっかりと常識を守り、体臭さえ気を付けてしまえば、何のことのない浪費だとも思っている。けれど、金欠である今は、金欠であるという事実がある意味の禁煙に繋がっていて、数年の刑務所暮らしの成果もあるだろうけども、タバコの服用は極限まで抑えられている。
まあ、ここで少し、高説でも垂れよう。
私は信条として、どんな事情があろうとも、そいつを理解できないというだけで人格を強く否定できる人とは付き合いたくないと思っている。タバコを吸っているというだけで、自分の害悪の物差し基準で人を勝手に図り、そして煙たがってくる様子は、何かこう、理不尽な事をされていると錯覚してしまうほどの虫の悪さがあった。ルールを守らない野郎はクソだ。だが、ルールを守っている奴らまで、理解できないからという、勝手な理由で人格否定できる人間は、ろくでもない。
まずまずお前らは人の趣味や粗を馬鹿にできる人間様なのか、という話でもある。お前らは、ゴミを分別するのか? お前らは、他人が困っていたら助けるのか? お前らは、自然を大切にするか? お前らは、目の前で万引きが起こったら走り出すか?
お前らは、もしかして自分の視点だけで善悪を計っていて、それで他人を貶しているのか?
身の程を知ってほしい。自分が完璧でないと分かったうえで、第三者に害悪があるなら注意すればいいさ。でも、自分の快不快だけで他人を罰しようというのは、いささか暴論すぎる。世の中は、これが分かっていない奴が多い。自分が被害者であると思っている加害者がごまんといる。
訳も根拠もはっきりしない根性論や感情論を、さも正論の如く平気と振りかざせる謎精神と謎行動力には感服する。私がいま足りていないのは、そういう馬鹿どもが持ちうる馬鹿の才能なのだろう。ともかく、私は、大衆に流されやすい人が、嫌いだ。
注意するなら理屈をもて、理屈がないなら、お前は誹謗中傷できる土台にすら立っていない。ロジックを持たないなら、または、ロジックが間違っているなら、お前はそのロジックを振りかざした人にロジックを返されても、文句を言ってはいけない。それは被害者が持つ、反論の権利なのだ。
なんて高説を高々と申せるのは、どだい、私がそのような馬鹿どもと同じ才能をもっていて、その愚かしさも滑稽さも理解しながらも、しかし、自分がどうあがいてもクソ野郎で阿保でいるという公然たる事実が生み出す、自分に対しての恐喝だ。
私は、私がもっとも嫌いな奴らと、以前似ている。
努力に意味はある。でも、生きる事に意味はない。
生きるという事に意味があるなら、人は誰しも不幸ではない。努力には意味がある。努力には可能性がある。でも、生というしがらみは、時として努力すらも踏みにじるほどの意味を持つことがある。それが人間の持ち得る存在の危険さであり、誰しもがそれを一度は振りかざすし、それを振りかざしているという自覚は当人に無い。人間は自分勝手だ。
生きるという言葉の意味を考えたことは、誰しもあるだろう。それなりに自分の意義を見出し、そして自我を確立していくのを、私は知っている。成功できる人間もいる。でも、光と影のように、勝者の裏には敗者が存在していて、その敗者の数はかぞえきれない。よくスポーツなどで名言として扱われている、勝者は元敗者であるという言葉も別に否定はしないが、でも、だからといって敗者が後に全員勝者になれるわけが、ないのだ。
そういうのは順番だと思っている。あいや、厳密にいうなら、運だ。
世界の情勢。周りの支援。相手の妥協。埃の数。他人の評価。空調の温度。観客の騒音。隙間風の音。相手の感情。全ての状況は、全て運で決まる。これはスポーツに限らず、現実世界でも同様だ。
だから極論、全ての事象は。
そうなっただけ。
そうならなかっただけ。
これが、全てである。
努力の末に勝ち取った。努力の末に生き抜いた。それは努力ではなく、そうなっただけ、である。人っていうのは存外気持ち悪いほどポジティブに考えることで生き永らえることが出来るけど、だからといって自然の摂理を自分の技能と勘違いしてはならない。まあ、そういう馬鹿さ加減が所謂『人間性』というものなのかもしれないけど。
生は、努力を破壊できる。努力は、生に勝てない。
私は思う、人は生に勝てないと。
「なにしてるの?」
背後からそう響いたのは彼女の声だった。振り返らず、一度、煙を空に向かって吐くと、彼女は言った。
「人んちのベランダで勝手にタバコ吸ってるんだ、いいなあ」
言いながら、彼女もベランダに出てきて、あの黒い下着姿のまま朝日を細い目で眺める。そして、彼女はふと私を見て。
「久しぶりにみた。タバコ吸ってるところ」
なんて事を言って、懐かしいものを見るような目で、安心したような笑みを浮かべた。
「あとは誰に会う予定なの?」
彼女はカーディガンを下着のうえに着込み、コーヒーを持ってきて、イスをベランダに出した。私はそれに甘んじ、ありがとう、と感謝を伝えてそのコーヒーを一度飲んだ。
「もういよいよ、そんなにいないかな」
「まあ、別に友達が多い方でもなかったもんね」
「それもそう」
弟、友人、漫画家、幼馴染。大方の知り合いには会えた。だからもう、実は、「ごめんなさい」を言う旅は、終わりに近づいている。後は、『あのクソ』だ。
「あとは、親に会うよ」
「……まだ会ってなかったんだ?」
彼女はそうやって意地悪に言った。
そういえば、この話には関係ないけども、彼女のキザさが無くなっている気がする。昨日の一件で、何か彼女の中で心変わりでもあったのだろうか。でも、別に元気そうな雰囲気はないし、ただ朝に弱いってだけなのかもしれないな。コーヒーでも飲んでいたら元に戻るだろう。
「真っ先に会うには距離があったし、それに、一番最初には会えないかな」
「精神的に?」
「そう」
流石だ。私の真意を素早く見抜いてみせた。
「まああたしはそれでもいいとは思うけど、さ」
何か歯切れの悪い言葉だった。私はコーヒーを持ち上げて、また啜る。するとその最中に彼女は間を置いてから言った。
「本当に、会わなきゃいけないの?」
一口。コーヒーを呑み込んで、その風味が鼻に伝わっていく。私はゆっくりと瞼を開けて、ままならない寂寥感を隠そうとしながらも、
「会う」
そう断言した。すると彼女は、そっか、と小さく呟いた。
「もういっそ、あたしの家に住めばいいのに」
「それは出来ないね。名古屋にも家があるんだ」
「帰りを待っている人なんていないのに?」
「それはそうだが……」
「じゃあいいじゃん」
彼女は言いながら、フフンと鼻を鳴らして、両手でカップを掴んで、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
いつも遠慮がない彼女だが、今の言葉に、何故か私は、引っかかった。
確かにそうだ。私は名古屋にずっといる必要はない。待っている人もいないし、名古屋に拘りがある訳でもない。だから実の所、彼女の家で住んでもいいとも言える。……でも、何だかそれは、違う、気がした。
きっと私は凄く情けない男だ。女の誘いすら拒み、女の願いすら踏みにじり、そして女を分かってあげない。酷く情けないというか、端的に酷い男だろう。でも分かってほしいのは、私にも私なりの考えがあるということだ。別に、私が情動的で繊細なのは大いに認めるけども、それでも、私は私の世界を尊重している。自己はあるのだ。だから、気持ちが進まない事は、したくない。やっぱり私は、最低だ。
ならば、私がしなくてはならないのは、その意思の表明である。
「僕は僕が嫌いなんだ」
「知ってる」
彼女は朝日を見ながら、横目に云う。
「僕は凄くアホで」
「うん」
「僕は結構、我儘で、情動的で、そして遠慮がない」
「あたしみたい」
「自分は好きだけど、自分の事は嫌いで」
「うん」
「そんな弱くて曖昧な自分をにわかに許してしまっている」
「うん」
「そんなのダメなんだよ」
「……」
「何も考えずに生きるのは、考えている人を傷つけている。何もしないのは、何かしている人に失礼で。変化をしないのは、間違いなく傲慢だ。僕はよく驕る。僕はよく嬉しくなる。僕はよく悲しくなる。僕はよく病む。……社会不適合だから分からない。普通なんて知らない。当たり前はどこに書いてある? 常識を読み間違える。空気を変えてしまう。僕は生きていたらダメなんじゃないかって、何度も何度も」
「…………」
「ただ僕は、誰かに生きている事を、否定されたくなかっただけなんだ」
否定。否定、否定。誰かの気持ちを汲み過ぎた。他人の顔を伺いすぎた。失望が怖くて、裏切りが嫌で、否定をぐっと飲み込んだ。「全て悪いのは僕だ」そういう結論になった時、僕はもう手遅れだった。全てが否定に思えて来たからだ。
僕は生きるが嫌いだ。僕は存在していたい。
僕は他人が嫌いだ。僕は他人の顔色が気になる。
僕は騒音が好きだ。僕は誰かの声が苦手。
「……」
――きっと生まれてから、誰もいない場所に行きたかったんだと思う。
小さな時から脳死で、ズレた何かにしがみついていた。「いい人」と勘違いして、それを信じて、いつか自分に絶望したとき、僕はそう思ったんだ。誰もいない場所がいい。他人と出会わない場所がいい。そして、生きる事を、否定されないような場所がいい。
僕は世界に適さなかった。僕は社会からあぶれた。僕は人の渦から外れた。
僕は、ひとりぼっちだ。
「ごめんね」
「そっか」
彼女は朝日を眺めながら、飲み込むように呟く。
そして、彼女はイスから立ち上がって、次の瞬間。私の目の前に立って、その下着姿で朝日を遮った。彼女の目元は陰でよく見えなかったが、何か悲しいような雰囲気が漂っていて、そして彼女は、私の肩をガッと掴んだ。
「お前は世界で一番小さなヴァイオリンだよ」
気取ったように彼女は言って、私はたまらず笑うと、彼女は優しい微笑みを浮かべて私に抱き着いてきた。
「…………」
何も言わなかった。
名古屋の家に久しぶりに帰ってきて、何だか東京がとても濃厚だったから、たったの二日しかいなかったというのに、やけに疲労感があるような気がした。帰ってすぐに私はぐっすりと眠って、次の日からまる二日は貰った漫画を読んだ。それなりに面白くて、人気があるのも頷ける出来だった。全巻読み終えたときにはもう夜で、そのまま寝て次の日にはバイトへ向かいました。
「ごめんなさい」と言う旅は、そろそろ佳境を迎えていました。謝るべき人を回って来たこの旅はついに、最後のフェイズに移行するのです。「被害者家族」「弟」「友人」「漫画家」「幼馴染」そう続けてきました。「被害者家族」とは法廷で既に、済ませています。
最後は、「親」です。
私の旅はそろそろ終わります。
そこで、一つ、単語を思い出しました。
ふと脳裏に一つのワードが滲むように浮かび上がってきたのです。それに身震いして、そうして私はそのワードを気に、何かを思い出しそうになって仕方がないのです。そのワードは、『代わり』でした。
『代わり』。それは一体、何の『代わり』だったのでしょうか。まだ断片的過ぎて何も分かりませんが、少なくともあの日の記憶の一部だと思われます。
『代わり』、意味が、解りません。皆目門前払いを食らったような苛立ちが私の身体に染み渡りました。せっかく思い出したというのに、何の手掛かりにもならないワードに、私は悶々とした感情を抱いたのです。……しかし、その感情はすぐに忘れさられてしまいます。それは、唐突にやってきました。
バ先で久しぶりにあの女の子と会って、東京土産と共に、漫画全巻を適当にプレゼントしました。
家に置けるスペースがなかったので、というと、少女は嬉しそうに受け取ってくれまして、とても助かりました。その日のバイトを終え、帰って、久しぶりの日々を噛みしめながら眠りにつきました。次の日になると手紙が来ていました。幼馴染が自殺未遂をしたそうです。