求めていないのにサインまで貰ってしまった……。
「今日は来て下さりありがとうございます。また遊びに来てください」
なんて嬉しそうに眉をあげて漫画家の彼、いいや、真・怖い人は手を振って微笑んだ。
なんだか随分ご機嫌だったようで、単行本全巻とサイン色紙を現物で貰ってしまい、素直に喜べない心地の悪さと、割と欲しくない本心と、今これを受け取らなかったら何をされるか分からないという複雑な気持ちになりながら、とりあえず、家からはお暇した。
あの秀逸なる人殺しの眼光は脳にこびりつくほどの強烈なイメージだった。だから帰り道、あの真・怖い人にバイバイされながら見送られたとき、包丁など投げられないように、角を曲がるまであの真・怖い人の姿を視界に収めなければ、はっきり言うと、気が気ではなかった。
だからほぼ後ろ歩きで、その曲がり角まで歩いた。
「あ」
「よ」
元怖い人が私を待ち構えていたように、曲がり角でタバコを咥えて座り込んでいた。
「……ん」
そして、こっちに来いと言わんばかりに自身の横を人差し指でさすので、私はさっきの恐怖もあって逆らえず、そこにちょこんと、さながら小動物のように座った。
「あいつ、どうだった? 大丈夫だったか?」
忘れちゃいけないが、この人も開口一番で私をぶん殴った人だ。きっと殴ったという事は、何か私に恨みがあるんだろう。もしや、関係者だったであるのか。ならば、「ごめんなさい」を言わなければ、ならないのかもしれない。
「……なんだか気分がよさそうでした」
震えを堪えながら言いました。
「そうだろうな。あいつはあの不倫野郎にトラウマを植え付けられていた。なんか狂っちまうのも、仕方ないな。あいつはひどい男だった。後輩の俺ですら怖がるくらいに」
「……不倫野郎?」
「あ?」
「あっ、いえ、続けてください」
どうやらその不倫野郎とは、――私が殺した男のようだった。これは好都合だ。この人から、私が殺した男の事を聞き出せば、何か記憶に変化があるのかもしれない。そう思い至り、咄嗟に私は耳を傾けた。
「怖かっただろあいつ。あの野郎の事になると人が変わっちまうんだ。スイッチが入るっつうか。……それでもやられたこと考えたら、ちょっとは同情しちまうんだけどな」
「……何をされたのですか?」
「暴力、水浴び、腕と足に根性焼き。それでいて魂籠めて書いた漫画の原稿にわざとお茶を零された」
「……」
だからお家のお茶がないのでしょうか? あの怖い人ならありえそう……なんてふいに思ってしまいましたが、そうではない。どうやらあの真・怖い人はいじめられていたみたいだった。
「まあなんだ」
いきなりそういうと、元怖い人は立ち上がって、私の目の前に移動し右手を差し出してきた。その立ち姿に、にわかに恐怖が薄れていき、そうして私は彼への評価を改め、心にあったしこりがごっそりと消えた感覚が胸のあたりでした。それで、男はいう。
「いきなり殴ってすまなかった。人殺しを常識的に許容できなかった。あの不倫野郎と同じような奴だったらと考えちまったんだ。本当にすまない」」
「……」
「悪かった。お前みたいなやつが人を殺せるなんて思わなかった。何か事情でもあったのか?」
そうしっかりと謝罪をされて、腰が砕けたくらいの驚愕が確かにあったけど、でもそれと共に、彼の真摯な態度に見惚れ、全くもってどう思われたか知らないけど、どうやらそう思われたみたいです。
「ええ……まあ」
覚えていないので、ここはそう濁して返しておきました。
不倫野郎だったり、あの真・怖い人の態度から推察するに、私が殺した男と言うのはもしや、とんでもないクズ男だったのかもしれない。そう思うと、少しだけ罪悪感が薄まった気がして、そんな自分に途端に嫌気を感じて一瞬座りながら脳が停止した。しかし。
「ほら、立て」
という言葉で私ははっとし、彼の手を取って立ち上がると。
元悪い人は、何も言わずに去って行こうとした。
「あ、あの!」
だから私はそれを呼び止めて。
「ん?」
「ありがとうございました!」
なんて言って、出来る限りの笑顔と共に手を振った。
元怖い人はそう言われて、少し照れくさそうに笑って背中をむけた。
帰りのタクシーを呼んで乗り込み、今日のホテルへと向かった。幼馴染への訪問は明日に行う。アポなしなので少し心配だが、あの幼馴染なら大丈夫だろうなという勝手な信頼が、その幼馴染にはあった。
「……」
ふと、都会の景色をみていて何となく貰った単行本が入った紙袋を覗いて、漫画を触った。あの怖い人の漫画だから、読むたびに脳裏にあの人が浮かんできそうで、そう考えるとはなから嫌になってきそうだったが、それはそれとして、表紙は結構好みの絵柄をしていた。少年誌に連載している漫画だからか、しっかり出来はよさそうだ。
なんとなく私は第一巻をぺらぺらと捲って中身を流し見すると、画力が高く、驚愕した。絵の才能があるのは知っていたが、話の出来と読みやすさが、昔よりかは上手になっていて、それにまた感激した。これは家に帰ってからしっかり読んでみるか。アニメ化も実写化も決まっているとも言っていたから、それなりに有名なんだろう。そうだ。それならコンビニのバイトとも話が合うかもしれない。何だかそう思うと浮ついてきてしまった。
……その時、ふわりと一枚、何かが足元に落ちた。軌道から、単行本から滑り落ちたようだった。なんだろうと屈んで拾うと、その紙には手書きで文章が書かれていて。
『もしまだ殺したりないなら、あのタバコ臭い同居人も殺してください。待ってます!』
ぎょっとした。