お金が溜まりましたので、またまとまった休暇を取りました。
年が明けてからまだ数日と経っていませんが、この年には大きな事件が既に起こっていました。元旦の能登半島地震です。私はちょうど勤務中で無事でしたが、愛知も割と揺れてしまい、コンビニの商品が床に落ちたり、同じバイトの女の子のスマホが五月蠅く鳴りました。私は家に帰ってもテレビがないのでラジオを聞いていますが、そのラジオでは大変な災害だったと言っていました。バイトの女の子がその件について、よく話題を振ってくるので、私はなぜか情報のみ入ってくるようになり、映像的にその現状を知らない、見た事がないというのに、よく地震の事を知っているという、よくわからない状態になりました。
まあそんなことはさておき、私はまとまった休暇を取って、次は東京へと出かけました。新幹線に乗り込み、東京へと向かいます。今回会うのは、弟の友達と幼馴染です。
弟の友達といっても弟とは違い、私とは親しくしていました。たまたま出た場所が同じ愛知で、私の家の近くに昔は住んでいました。そしてその弟の友達というのは、私が殺したとされる男の知り合いでもあったのです。
幼馴染とはよく昔に遊んでいた女の子で、記憶通りならば面白い性格をしています。彼女とは大人になってから直接的な関わりが無かったものの、家族との関わりがやたら強かったため、間違いなく私の事は伝わっている筈です。ですので、その件での『ごめんなさい』を伝えに行きます。
一人は事件の関係者で、もう一人は間接的な被害者となります。感情的な面でストレスを与えたなら、被害者と言えましょう。迷惑をかけたのは、かわりないので。
私は電車の中でぐっと覚悟を決めました。記憶がない今、私がどのようにして殺人を犯したのか分からないという現状、その二人と会うのは大いなる一歩でした。幸いなことに弟の友達については既に手紙でやり取りをしており、会う約束を取り付けているのです。最初は、彼に会います。しかし幼馴染はそうではありません。別に正義感が溢れる奴と言う訳ではないですが、それでも、私が罪を犯したと知ればそれなりに傷つく道徳の持ち主です。アポナシになってしまいましたが、それでも、会わなければなりません。
駅を降り、迷子になりながらもやっとの思いでタクシーを拾いました。そして約束の場所までタクシーで移動し、とある住宅街で私は降りました。
いわば高級住宅街と呼ばれるだけあり、立派な建物が建て並んでいて、所々から通俗でいうところの富裕層であるような趣をしている建物が、しばしば。持ち込んだ地図とタクシーの運転手の情報を元にそんな世界を、やたら右往左往して落ち着かないまま歩き、手紙に記された住所を探しました。水路の横を歩き、公園を横切って、西洋な建物を何件か見届けてから、その四階建てのシンプルかつ巨大な、モダンな家に辿り着きました。
私は息を呑みます。そして、インターホンを押します。
途端、すぐにガチャリと扉が開かれました。そこから現れたのは、肌面積が多いシャツを着崩し、タバコを咥えていて、細い腕にタトゥーを見せている、怖い人でした。私はその人に見覚えがありません。震えました。もしかしたら、家を間違えたのかもしれないと思いました。
怖い人は私の顔を見るなり近づいてきて、一発思いっきり殴ってきました。
「ちょっと!」
私が地面に大胆に転がると、家の玄関から懐かしい声がしました。二つ目の足音が近づいてきて、ヒリヒリ痛むおもてを上げると、その怖い人を静止するように、その男性は両手を広げていました。そんな彼の後ろ姿をみて、まるで迸るような感覚が身を支配し、そうして、彼が、弟の友達で、私が殺した男の知り合いであると察したのです。
まるで変わっていませんでした。
舌打ちが聞こえます。それで、怖い人が遠くへ歩いていってすぐにその人は私に振り返ってきて、にわかに笑みを浮かべます。それに応対するように私もにわかに笑みを作りました。
「お久しぶりですね」
と、私に手を差し伸ばしてくれます。その手の平にはペンだこがたくさん出来ていました。その手を見て、私は魂の震えを感じました。
何故なら。
「本当に漫画家になったんですね」
「……! ふふふ、そうなんですよ?」
私の言葉に彼は照れくさそうな微笑を添えた。その背後に立っていた怖い人はまた舌打ちをして家に戻っていく。そして、歓迎されていない空気感の中、私は彼から家に案内されました。
「ささ、どうぞお入りください。先輩!」
家の中は外の住宅街と違い、平凡でした。広い玄関も、綺麗なシャンデリアも飾られてはいなく、あるのは、小さな観葉植物と、掃除が行き届いた空間でした。
「ありがとうござます」
それでそこから少し歩きます、途端に。
「ジュースでもいいです……? お茶とかうちにないので」
「ああ、それでお願いします」
と訊かれと答えると、彼は「良かったです」と懐かしい微笑みをまた添えてくれた。温厚な性格は全く色褪せていなかったらしく、刹那に感激しかけた。
案内された部屋は狭かった。白い石膏ボードに囲まれた一室で、丸い蛍光灯の中に虫の死骸らしきものが見えたから、どこやら生活感があった。その部屋は割と片付けてあったようだけど、この部屋に通される途中、ダンボールで埋め尽くされた部屋があったから、私の訪問に合わせ、この部屋を綺麗にしたのだろうと勝手ながら感づいた。
そこに坐すと、眼前にあの怖い人が行儀悪く座っていた。その人は私をじろじろと睨んできて肝を冷やした。その横を通りながら、私の背後から現れた漫画家の彼は、またあの懐かしい笑みを浮かべて。
「今日はその、遥々とお越しして頂きありがとうございます」
漫画家の彼はブロンズに髪を染めているが、物越しはとても柔らかそうで、丸渕メガネに小顔、ファッションセンスは大人しめだが、その大人しめのファッションセンスがそれなりに様になっいた。通俗でいうなら、雰囲気イケメンという奴だ。
漫画家の彼はジュースを私に差し出しながら、怖い人の横に仰々しく座った。
「いえ、ずっと伺おうと思っていたのですが、中々忙しく」
なんて軽く言うと、いえいえと漫画家の彼は言ってくれた。
「それで先輩、ご用件というのは?」
「はい。実は、謝罪をしたくて」
「……はい?」
「ご迷惑をおかけしました。ごめんなさい」
私は謝った。
机から一歩引いて、その場で頭を地面につけた。土下座だ。
沢山迷惑をかけただろう。きっと大変だったのだろう。私の件でとことん迷惑をかけて、申し訳ない。そして、あなたの知り合いを殺してしまって申し訳ない。それを全て、籠めた。私は彼らの言葉を聞くまで、一センチも顔を上げずに待った。
知り合い。とはいえ、知り合いがこれまた知り合いに殺されたっというのは、中々にショッキングだと思う。きっと、精神的にも迷惑をかけていたんだろう。本当に申し訳ない。私が殺した男とどんな関係性だったのかは、もうまるで覚えていないが、それでも、迷惑をかけたなら、謝るべきだ。
部屋は静寂が支配して、にわかに話しにくい空気で充満した。
そんな中、口を開いたのは彼だった。
「ごめんね、一瞬、外してもらえないかな」
「え?」
漫画家の彼は、横に坐っていた怖い人にお願いした。
すると怖い人は鳩が豆鉄砲を食ったような顔を浮かべたが、すぐにトコトコと部屋から出て行ってしまう。どういう関係性なのかは知らないが、どうやら、それなりの関係、友人などに当たるのだろうと、勝手に想像する。
そして完全に部屋の中で二人っきりになった瞬間、彼は口を開いた。
「僕、あのひとのことずっと嫌いだったんです」
「……へ?」
飛び出した言葉に理解が追いつかず、途端に零れたのは驚きの音だった。
「あなたが殺してくれたあのひとのこと、僕は大っ嫌いだったんですよ」
予想外の言葉だった。私は思わず前向きになると、そこで彼は底の見えない微笑みを張り付けていた。
「あの人は僕の絵を否定したんです。それが許せなくて」
「……」
「あの人は僕の心を踏みにじったんですよ。それが今でも夢に出てくる」
「……」
「許せなかったんです。夢を馬鹿にされるのが。あなたがやらなければ、きっと僕が殺ってました。だから、ありがとうございます。――助かりました」
「……」
「謝らないでくださいよ。……あなたは」
……震撼。
戦々恐々。彼は、漫画家の彼は、笑っていた。全てを赤裸々と語り、その存在への嫌悪も憎悪も曝け出し、末に、彼は微笑んでいたのだ。
私がそう恐怖しているのは、彼が笑っていた事もあるし、同時にその笑みからは、まるで鉄仮面のような薄気味悪さが滲み出ていたからだ。まるで胃袋を掴むような悪寒が背筋を駆けあがり、その男の冷たい物言いに言い難い混沌が垣間見えた。足が浮足立つ感覚が途端目眩を作り、奥歯が勝手に浮遊し、手先が震えて。そこにいたのは、さっきの怖い人よりも更に怖い、『人を殺すことを何とも思っていない』ような笑みを浮かべる。物腰柔らかそうな聖人そうな、雰囲気イケメンの、漫画家の彼だった。
それは、サイコキラーの顔だった。
「あなたは、僕の代わりにあいつを殺してくれたんですから、僕は感謝してるいるんです! あなたがやってくれなきゃ夢も終わっていました。おかげで、夢をかなえて連載することが出来て、今やアニメ化実写化と大盛り上がりなんですよ? 子供にも人気なんですよ? 幅広い層が、僕の漫画を読んでくれている。あなたがいなきゃ、そうはならなかった……」
怖い怖い怖い怖い。怖い。怖い!
この人は何なんだ。なんでこんなに薄気味悪いんだ。どうしてこんなに人を殺していそうなんだ。漫画家ってこういうものなのか? 人の事を一人二人安々と殺してそうな人がやっているのか? 漫画家ってのは? 怖い!
「ねえ!」
一瞬、右手に蛇が舌なめずりしたかのような鋭い戦慄が走った。
「どうせなら、僕の漫画を読んでみませんか?」
彼は、私の顔に近づいて、ハイライトがないように感じ、真っ暗な瞳を覗かせて言った。そんな彼に私は、怖気づいていって。
「……う、うん」