魔物はクロードの挑発を笑いながら受ける。丸太よりも太い右腕をぶんぶんと振り回しながらクロードへとゆっくり近づいていく。
(そうだ1歩1歩、ゆっくりこっちに近寄ってこい)
クロードは未だに身体を満足に動かせない状態であった。見え見えの挑発であったが、奴の方から近づいてきてくれるこの状況はクロードにはありがたい。右腕につけた籠手のおかげか、右腕だけはなんとか動いてくれる。それを再度、確かめるためにもクロードは右の
魔物はクロードとの距離を縮める。その場で左腕を大きく振りかぶる。渾身の力を込めて、クロードの顔面目掛けて左のストレートをぶっ放す。この左ストレートで倒せなった場合には右手のハエ叩きで眼の前の男を完全にぺしゃんこにしてしまう算段であった。
クロードは奴の放つ威圧感だけで失神してしまいそうになる。それでも目を閉じずに自分の顔面に奴の左ストレートが刺さるその直前まで相手を凝視した。
「ヌグゥ……。受け止めたダト? 死に体のくせにいったいどこにそんな力があったのだ?」
魔物は自分の左手に言いようのない不思議な感触を味わった。獅子のマスクを被るその顔のど真ん中をぶち抜く予定であった。だが、まるで筋肉の塊である鯨の腹を叩いたかのような感触に戸惑いを見せる他なかった。そのため、次の右手でのハエ叩きへ移行するのをためらってしまった。
クロードは自分の額の前で自分の右手を持ってきていた。額の骨と右手を覆う
だが、クロードの右手はそれを拒む。クロードは脳震盪を起こしていたため、意識が混濁となっていた。そんなクロードであったが、彼の意思を受け取ったとばかりに彼の右手だけは魔物に対して、反抗を
魔物は痛みを感じて、思わず左手を引っ込める動作を取る。それでもクロードの右手の指は奴の左の
そのヘッドバッドは強力であり、魔物の口から生えていた牙を一本、へし折ってしまった。魔物は痛みのあまりに醜い顔をもっと醜いものへと変えてしまう。痛みに歪む醜い顔のまま、クロードを今度こそ葬らんとばかりに空いた右手で喉輪をしかける。魔物のごつい右手がぐいぐいとクロードの首を締める。クロードの首は鍛え上げられた戦士のごつい首であったが、この魔物にとっては赤子の首よりも細く見えてしまう。
魔物の右手によってクロードは首吊り状態にされる。無意識にバタバタと両足を前後左右へと宙を泳がせる。勝負はもう決まったも同然であった。だがあのマスク・ド・タイラーならこの状態でも何かしらやってくるはずだという直感めいたものが魔物にはあった。それゆえに右手だけでは足らぬとばかりに左手も用いて、クロードの首を締めあげる。
「死ネッ! 死ネッ! 死ネェェェッ!」
ついに魔物の力に屈したのか、クロードは足をばたつかせることはなくなった。かろうじて抵抗を続けていたクロードの右手も今やだらりと床の方を向いている。魔物の顔に喜色が走っていく。過去に災厄王サマの身体に傷をつけた男を自分のこの手で屠ることが出来たとそう考えた。だが、そう考えた次の瞬間、魔物の顔から血の気が引いていく。
枯れ木のように細いと感じていた眼の前の男の首の太さが増していくのである。自分が両手で掴んでいるそれはドックンドックンと盛大に脈打っていた。気味が悪いとはまさにこのことだ。得体の知れぬ力を抑え込もうとばかりに魔物の両手には自然とこれまで以上の力が注ぎ込まれていく。
「まだ死なぬカッ! この死にぞこないガァ!」
だが眼の前の男の変化はそれだけではなかった。魔物がその膂力をもってして、男の服をこの屋敷ごとズタボロにしたというのに、この男の身体を覆う筋肉はそのボロ服が邪魔だとばかりに弾き飛ばしたのである。
(熱い。身体の奥底から力、いや筋肉があふれだしてくる。この筋肉はなん……だ?)
魔物の目から見て、この男があらわにした筋肉はまるで大理石で象られた美しい彫刻のような筋肉であった。並大抵のものではその筋肉に傷ひとつつけられない。神が現世に現れた時にその霊が身にまとう身体。そんなイメージがありありと魔物の脳内を駆け巡る。しかしそれでも魔物はこの男を始末しなくてはいけない。
枯れ木のように細くて弱々しく感じていた男の首は今や若木のようなみずみずしさを持っていた。いくら両手に力を込めようが、その弾力さを強引に潰すことなど出来るはずがなかった。
さらに男は動く。あらん限りの力を込めている魔物の左手の手首にそっと自分の右手を添える。魔物はギョッとした顔つきで男の右手を見ることになる。男はただ単純に魔物の左手首を掴み、さらにはスッと軽く下方向へとスライドさせた。その瞬間、魔物は自分の左手の感覚を完全に失ってしまうことになる。
「うグァ!?」
それもそうだろう。魔物は男のシンプルすぎる動きひとつで手首から先を失ってしまったのだから。魔物は左の手首から紫色の血をまき散らす。そうでありながらこの男はあろうことか、不思議そうに自分の右手を見ているのだ。この仕草を見せつけられた魔物は心がねじ曲がりそうになってしまう。この男をこの場で絶対に始末しなければならないという使命感すら覚えてしまう。男の首から右手を離すと、男は糸が切れた人形のように床へと倒れ込む。先ほどの異様な力を示したものの実は最後のあがきだったとでも言いたげである。
それでも魔物には油断はもう無かった。次の1撃で確実にあの世へと送ろうと決心する。魔物は男から4ミャートルほど距離を離し、それを助走距離とする。そして自分の全体重を右肩に預けながらショルダータックルを男めがけて繰り出す。男は床から伏せた状態から立ち上がろうとしている真っ最中であった。このままいけば魔物が放つショルダータックルを真正面から喰らうことになる。
(俺の中に俺の知らない誰かがいる。マリー、教えてくれ。今の俺はいつもの俺なのか?)
またしても男は単純に右手を魔物の方へと向ける。魔物の右肩は男の右の手のひらに正面からぶち当たる。しかしながら驚くことに男のたったそれだけの所作で魔物の勢いは完全に止められてしまったのだ。先ほど繰り出した渾身の左ストレートの時は衝撃波が男の後ろへと貫通していった。だが、今回のショルダータックルによって起きるはずであった衝撃波は生まれることすらなかったのである。
「ア、アヅイ!」
ショルダータックルを止められた魔物は男の右手のひと撫でによって、その右肩を骨ごとそぎ落とされてしまう。魔物はこれで左手だけでなく右腕すらも失ってしまう。男をかみ砕こうにも口から生えた牙も片方失っている。魔物はもうどうすることも出来なかった。そんな哀れな魔物に慈悲を与えるとばかりに男は魔物の額に右手を添える。魔物は泣けるものなら泣きたい気分でった。
災厄王の使者として選ばれた自分は誉れ高い気分であった。しかし、いざ、災厄王サマの嫁となる娘の前に行ってみれば、そこには災厄王サマの仇敵であったマスク・ド・タイラーがいた。こいつをこの場で仕留めれば、自分は災厄王サマにもっと褒められるはずだと思っていた。
だが現実は残酷だ。さすがは災厄王サマの身体に傷をつけた男であるマスク・ド・タイラーだ。とんでもない相手だということをいやでも自分の身体で実証させられることになる。そして、誰に向かってかはわからないが魔物は確かに許しを乞う表情となっていた。男は獅子のマスクの双眸から
その
獅子のマスクを被った男は立ち上がり、その物言わぬ
(俺がやったのか? それとも俺の中にいるもうひとりがやったのか?)
男はぼそりと一言二言呟き、その場からゆっくりと去っていく。彼が向かう先には自分が守ると誓った女性がいた。その者の名はローズマリー・オベール。彼女へ勝利の報告を告げんと向かう。だが、獅子のマスクを被った男は数歩前進した後、前のめりに床へと倒れ込んでいく……。