13.-④


 くらくらする頭を抱えながら、テルミンは螺旋階段を降りた。

 二人が何を喋っていたかは、高い天井の上の彼には聞こえなかったが、それでも、普段自分と話す時の様子とは、明らかに違っていたことは確かだった。

 あの時とは、確実に違う。ゲオルギイにそうされている時のヘラは、そんな時間が過ぎてしまうのをただ待っているだけの様に見えた。彼は、そんなヘラの姿を見て、自分の中で何かが目覚めてしまったことを知ったのだ。

 だが今さっき見たあの姿は。

 いつの間にそうなったのか、友人と絡むヘラの姿は、ひどく楽しそうだった。息が止まりそうだった。そんな光景がある訳ない、と彼は思っていた。

 だが、何故そんなことを思っていたのだろう、と彼はだらだらと流れる脂汗を拭きながら思う。

 ヘラは、そうあるべきだ、と自分は思っていたのだろうか。

 気持ちわるい、と彼はふらつく足で通路を歩きながら、思わずみぞおちの部分に手を当てていた。


 どのくらいそうやって歩いていただろう? 気が付くと、彼の足は、通い慣れた場所へとたどり着いていた。

 スノウの部屋の隠し扉は、サイドボードの裏にあった。横滑りするそれをやっとの思いで動かすと、彼はそのまま、慣れた場所へと倒れ込んだ。

 シーツの冷たさが頬に気持ちいい。彼は靴を脱ぐことも忘れ、そのまま睡魔が襲ってくるのに身体を任せていた。


 闇の中で、目が覚める。

 窓から差し込む衛星光だけが、冷たい色で窓枠のラインをカーテン越しに床に映しだしている。

 毛布の感触で、彼はいつの間にか、靴も服も、その身体からは外されていたことに気付く。そして横には、慣れた相手が居た。

 相手もまた、眠っていたようだった。服はともかく、特に何かされた様子は無いことに気付くと、何げなくこの相手の顔に視線を移した。

 こんな顔をしていただろうか、とふと彼は思う。そう言えば、真正面から相手の顔をきっちりと見据えたことが無い様な気がする。五年も、こんなことをしているというのに。

 五年。ヘラと出会って、この男と出会って、もうかなりの時間が経っている。

 なのに、自分は一体何をしているというのだろう。

 少なくとも、あそこでヘラで出会わなかったら、自分はずっと、未だただの佐官止まりで、それでも満足して、日々を過ごしていただろう。それはそれで悪くなかったかもしれない。だがヘラと出会ってしまった。それで何かが変わってしまった。それもまた、決して自分の中で間違ってはいない、と彼は思う。


 だけど。


 二つの光景が、彼の中に鮮明に蘇る。


 俺は、何で彼を助けたいと、思ったんだろう?


 あの時。ゲオルギイ首相の下で何処ともなく、視線を飛ばすヘラを自由にしてあげたかった。それだけだった。それがヘラの望みだと思っていた。

 だが、それは本当に、そうだったのだろうか。

 今更の様な疑問だった。そしてそれは、テルミンがずっと自分の中に、蓋をしてきた疑問だったのだ。


「どうしたの」


 はっと気付くと、相手の目が開いていた。腕が掴まれる感触がある。彼はそのまま力を抜いて、相手の側に倒れ込む。


「いきなり倒れ込んできたから、何だと思ったよ」

「俺は……」


 スノウの手が、シーツについていない方の頬に触れる。何で、その指の感触が心地よいのか、彼には判らなかった。

 その指が、傷一つない乾いた感触だったせいなのかもしれない。思っていなかった程、暖かかったからかもしれない。

 彼は思わず自分の喉を押さえていた。こみ上げてくるものがある。吐き気ではない。それは当の昔におさまっていた。そうではなくて。

 う、と声を上げていた。彼は思わず自分の口を塞ぐ。だけど、止めた声は、喉に詰まって、背中を痙攣させる。止めてしまいたい。だけど止まらない。どうしようもなく、自分では止めることができないのだ。

 ふと、口を塞ぐ自分の手に、暖かい液体が落ちるのを感じる。彼は思わず手を外し、顔に両手を当てる。何だこれは。

 そして、外してしまったら、止まらなかった。今までに聞いたことの無いような、裏返った様な声が、喉からあふれて止まらない。目が熱い。次から次へとひっきり無しに涙がぼろぼろとこぼれて、止まらない。息が苦しい。胸の何処かが、痙攣してやまない。誰か。誰か止めてほしい。

 そして思わず、目の前の相手にすがりついていた。

 相手の腕が、強く自分を抱きしめるのを彼は感じていた。その他のことをする訳ではない。ただじっと、抱きしめて、いるだけだった。

 だがその感触が、ひどく心地よい、と彼は思った。不思議なくらいに、自分でも判るくらいに、ゆっくり、だけど確実に、胸の中の痙攣が、治まっていく。喉の仕えが、ゆっくりと消えていく。

 だけど、そのたびにあの光景が浮かび、そしてまた、こみ上げるものを感じる。目から涙がこぼれる。

 お願いだ、と彼は思った。

 まだ、時間がかかる。このまま、こうしていてくれ、と彼は思った。

 だが言葉にはできなかった。言葉を出そうと思うと、胸が詰まる。ひっくり返った声は、言葉にならない。

 何がショックだったのだろう、と彼はかろうじて生き残っている冷静な部分で考える。その部分を働かそう、と必死で考える。何で俺は。

 しかし答えは簡単に出る。


 結局俺は、ヘラにもケンネルにも、信用されていなかったんだ。


 ヘラからは、そんな気がしていた。望んでいた訳では無い。欲しかったものではある。信用は。信頼は。

 だが、求めることはしなかった。

 それでいいと思っていた。

 自分はただ、ヘラが、自由に振る舞える場所を作ってやることができたら、それで良かったのだ。そんなヘラを見ていることで、幸せだったのだ。

 なのに。

 あの時のヘラの表情は、そんな今までの彼が見てきた総統閣下の姿より、ずっと楽しそうだった。

 彼が見たいと、思っていたものだった。自分の手で、そんな場に置いてあげたいと思っていた、そんな表情だった。


「俺の……」


 やっとのことで開いた喉が、そんな言葉を絞り出す。


「俺のしてきたことって……」


 すると相手はその口を塞ぐ。そしていつもより深く、長く、それを続ける。

 生ぬるい感触が、頭の中のなけなしの理性を塗りつぶしていく。考えたくない。考えたくない。考えたくない。

 今日したことを考えたくない。また明日には、違う日が始まるというのに。また始まってしまうというのに。

 どれだけ今日の自分が嫌でも、明日また目覚めなくてはならないというのに。だったら考えるのを止めてしまおう。眠ってしまおう。だけど眠れない。眠れないんだ。

 陥れた者達の顔が、浮かんで離れない。ヘラにどうしても言えないことが、貼り付いて取れない。

 判っている。最後の一人が居るんだ。殺されていない、最後の一人が。何でそいつは殺されなかった? 今何処に居る? そんなこと、俺の今の力だったら探すことは簡単なのに。考えたくない。どうしても、考えたくないんだ。


 だって。


 テルミンは思う。決して言葉にしなかった、一つのこと。


 見つけたら、ヘラさんあんたは、そいつと何処かへ行ってしまうじゃないか。


 恐れていた、それはたった一つのことだった。

 ヘラと直接こんな関係を持とうと思ったことは無かった。ただ、一番そばに居るのが自分でありたかった。それだけだ。それだけだった。

 だけどそれは自分の幻想だった。

 はじめから、自分は一番などではない。

 考えると、また嗚咽が止まらなくなる。そしてそのたびに、相手はそんな自分の口を塞ぐ。考えるな。明日生きてくために。それは自分の望んだことだった。

 テルミンはふと目を大きく開けた。至近距離の相手の顔が、くっきりと視界に入る。


「……スノウ」


 どうしたの、と相手はその目で問いかける。その問いに、彼の唇は自然に、ひどく自然に動いた。


「あんたは、俺のこと、好き?」

「ああ」


 相手は、当然のことの様に答える。


「嘘」


 テルミンはそれもまた、当然のことの様に返す。


「君がそう思うなら、そう思えばいい。私には嘘を言う理由はない」


 彼は首を横に振った。


「……もう、いいよ」


 そして彼は、笑おうとした。だが、どうしても、それが上手くできない。口もとばかりが上がっても、どうしても、目が、上手く笑えない。


「もう、いいんだ……」


 寒気がする。背中から、ひどく、冷たい何かが、身体の芯に向かって広がっていく。


「……眠りたいんだ…… 眠らせて」


 彼は目を伏せる。だから相手の表情も判らない。ただ、いつもの様に、自分を疲れさせ、思い切り、何の夢も見ない程に眠らさせて欲しかった。


「頼むから……」


 相手の表情は、判らない。