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夕方の光が、図書館の書庫の「休憩所」に差し込んでいた。テルミンは久しぶりに来るそこで、辺りをきょろきょろと見渡した。彼はやや苛立っていた。今日はさほど時間が無いのだ。
この後、ヘラの元に、スペールンが都市改造の現在の段階ほ報告しにやってくる。それまでには、確実に戻っていなくてはならない。彼にとって、この「総統閣下」も「都市改造」も大切なことだった。
だが彼を呼び出した人物も、また彼にとって大切な一人だった。
「……ここに居たの」
すぐに判る場所に居ればいいのに、という気持ちが混じって、彼の声音はややささくれだったものになっている。無論相手が相手であったせいもあるだろう。この「宣伝相」たる彼は、表で不機嫌を顔に出すことはまずない。
「どうしたの、ここへ呼びだすなんて、珍しい」
「ちょっと前まで、資料を調べていたのよ」
ゾフィーは額に落ちる乱れた髪をかき上げる。その様子を見てテルミンも少しばかり苛立ちが薄れた。彼女は政府担当になったおかげで、この書庫に入り込むことも容易になった。黙認でフリーパスという訳にはいかないが、それでもパスを提示すれば入って資料を自由に閲覧することができる。
「それにしても、君、何か顔色良くないよ? 座ったほうが」
「そうよね。そうなのよ」
何かおかしい、とテルミンは思った。いつもの彼女らしくない。時間は無い。だが放ってもおけない。だったら話はちゃんと、そして早く済ませよう、と彼は考え、彼女をうながし、休憩所の椅子に座らせた。手には何やら「資料」を掴んだままである。
「何か、いい資料があったの?」
「いい資料? ええ、いい資料だったわ。全くもって。あたしは一体何処を探していたっていうの?」
「落ち着いて、ゾフィー」
さすがにこれは何か違う、とテルミンは感じた。そして座る彼女の前に回ると、ひざまづき、ひざの上の彼女の手に手を乗せた。
「君が探していた、あの、バーミリオンのことが判ったっていうの?」
彼女は黙ったまま、自分の上に置かれた手を強く握った。
「……判ったのよ。判ってしまったのよ。けどそれって」
「それは……」
「聞いてよテルミン!」
彼女はテルミンの手をぐっと掴んで、まっすぐ彼と視線を合わせた。彼は思わず息を呑む。
「聞くよ? 聞くから……」
「信じられないのよ? 今の今でも、あたし、これだけ資料見て、これしか無い、って思った今でも…… 冗談じゃないって思ってるのよ? こんなの、嘘だって……」
「そんなに…… 信じられない人、だったの?」
テルミンはちら、と彼女を立ち上がらせた床の上を眺める。資料があちこちに積まれている。こんなにたくさんの、「ここで見られる資料」の中に、その人物は居た、ということなんだろうか。
「言って。ゾフィー? その人は、君の、バーミリオンは、そんなにとんでもない人物だったの?」
「あたしのじゃ、ないわ!」
またそこに行く、と彼は興味とじれったさが半々な気持ちになる。しかしそこで下手につついてはいけないのだ。
「……こないだ、局で、古い映像を調べていたのよ。ゲオルギイ首相の……」
「ああ、何か特別番組を作るから、って映像の許可を求めてきたね」
「そんなことが、あった? そう、あったのよ。だから、あたし、たまたま、見てたのよ? そこに居た子が面白かったから……そしたら、何よ」
「何だったの?」
「居たのよ、彼が」
「彼……って」
テルミンは、眉をひそめた。
「君の、バーミリオンがか?」
「あたしのじゃないってば! 彼は、兄貴のだったのよ! そんなことどうでもいいわ」
どうでもいいことにしてないのは君だと思うが、と彼は思ったが、それは口には出さない。とにかく興奮している彼女を静めなくてはならないのだ。言うべきことは、言わせてしまわないと。
「……首相の映像の中で、……街に居たの?」
「違うわ。首相の邸宅よ。居たのよ。あたしの記憶よりは、もっと若い、彼が……信じられる? 首相の、息子、なのよ!?」
え、とさすがにテルミンもその時には言葉を無くした。
「ゲオルギイ首相の…… 息子?」
「あたしが、あの顔を間違えるものですか。あの薄い金色の髪、通ってるけど決して大きくない鼻、ちょっと厚めの唇、それにあの人をどっか見下したような視線!」
そういう奴だったのか、と改めてテルミンはそれを想像する。ゾフィーの「バーミリオン」に関する描写はいつも何処か曖昧だった。ここまで明確に表現したのは初めてだった。
いや違う、と彼は思い返す。おそらく、彼女は自分の中でも曖昧だったその顔が、映像を見たことによって鮮明にさせられたのだろう。
「……つじつまが、合うのよ。年格好も、ちょうど首府に…… 兄貴が居た中央大学に居た年代、とか、そういうのも。だけどこのひとは、首相の息子のハイランド・ゲオルギイは、中等学校を出て、大学に合格した時点で、消息を断ってるの。ねえこれって、何だと思う?」
「何って……」
「大学で、地下活動に入ってしまったから、そこでハイランドとしての足取りを消してしまったって、ことなのよね?」
そう同意を求められたところで。テルミンは困ってしまっている自分に気付く。
そう自分は困っているのだ。この友人の、大切な事実が判明したというのに。ただ自分は困っているだけなのだ。
「落ち着いて、ゾフィー」
そう言って、彼はゾフィーの手首を握り返す。
「それでも君は、まだ知りたいことの、半分しか知ってないんだよ?」
テルミンは思わず口に出してしまったこの言葉にうなづく。
「君は確かに、バーミリオンが、ハイランド・ゲオルギイってことは知ったかもしれないけど、今その彼が、何処に居るのか、ってことはまだ知ってないじゃないか」
彼女はすっと息を吸い込む。
「終わった訳じゃない。まだ君には調べることがあるんだよ?」
彼女のパニックは、事実が衝撃的だったから、というだけではない。自分の知りたかったことが、「判ってしまった」からなのだ、とテルミンは気付いた。
それが彼女のテンションを上げていたのだ。無論映像の仕事に関しても彼女は夢もあるだろうし目標もあるだろう。だがそうでない部分において、この兄の恋人…… だったらしい「誰か」を突き止めること、そのこと自体が、彼女の生きていくための原動力になっていたことをテルミンは知っていた。
「……そう…… よね。まだあたしは、彼が今どこに居るのかまでは、知ってないのよね」
「そうだよ。君は、彼に対して、言ってやりたいことが、あるんだろう?」
「……そうよ……」
ゾフィーはうなづく。
「そうよ、言ってやらなくちゃならないことがあるのよ。そうなのよ……」
そして自分に言い聞かせるかの様に、同じことを何度か繰り返した。テルミンはそんな彼女を見ながら、内心時間を気にしている自分に気付いていた。だがそれは気付かれない様に、彼は笑顔を取り繕う。
「ほら、そうそう、まだ調べることはたくさんあるんだって」
テルミンはそう言いながら彼女を立たせた。そして肩を抱くと階上まで連れて行く。その間に彼女が置いた資料の位置を確認しながら。彼は、また彼女とは別の視点で、その事実に衝撃を受けていたのだ。
またね、と手を振ると、彼は一度書庫へと戻り、彼女が持ち出した資料を手にした。そしてそれを上まで持ち出すと、借りるから、と司書にそれを見せた。司書は黙ってその量の多い資料を入れるための手提げ袋を出してきた。