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ああ遅くなった、とばたばたと音を立てながらゾフィーがその部屋に戻ってきたのは、もう深夜に掛かっていた。夜食のローストビーフのサンドイッチと、パッケージドリンクを紙袋に入れて彼女は扉を開けた。
廊下の暗さに慣れた目に、中の灯りはひどく明るかった。そしてその明るい部屋の真ん中で、青年はデスクに突っ伏して眠っていた。モニターからは波の音が延々流れていた。
彼女はその安らかな眠りを貪っている青年に近づき、夜食をデスクの上に置くと、平手で後頭部をはたいた。青年は弾かれた様に飛び起きた。
「は」
リルは何ごとが起きたか、と慌ててあちこちにと首と目を動かす。そしてようやく事態を把握すると、そおっと後ろを向いた。
「実に良く寝てたね、青年」
「俺、だから、リルって名前が」
「そういうのは、ちゃんと起きて待ってた時に言うんだよ? ま、でもお腹空いたでしょ。食べない?」
「あ、これ」
「無論あたしのも入ってるからね」
「あ、じゃ、一緒に食べようと」
彼女は首をひねる。
「そう言えばそういうことになるのかな?」
「そう言えばじゃなくても、そういうことじゃないすかあ」
「そこに意志があるのかどうかは、ずいぶんな違いなのだよ? 青年」
「リルですよお」
彼女はにやり、と笑いながら紙袋の中からパックとサンドイッチのつつみを取り出した。
「角の店のですね? 俺好き」
「全部食わないでよ。あたしもお腹空いてるんだから」
「今までずっと仕事だったんすか?」
「そーよ仕事。明日の政見放送の打ち合わせ」
「って言うと、テルミン宣伝相じきじきに」
「まあね」
凄いなあ、と彼は大きくうなづく。
「あなたね、そうは言うけど」
ゾフィーは言いかけて言葉を切った。そしてパックのコーヒーに穴を空ける。
「それより、さっきの話の続きをしましょ。とりあえずあたしも映像、見たいわ。出してくれない?」
はい、と素直にうなづくと、リルは年代ごとに積み上げたビデオ・ブロックを指して、いつからにしますか、と訊ねた。
「最近のはいいわ。古いのから適当に見せてちょうだい」
「はい」
そしてリルはブロックを再生装置に入れた。
「これが最初ですね」
「まだ若いわね」
「そりゃあ、20年も昔ですから」
実際、画面の中のゲオルギイ首相は、それまでの政治家の中でもその座についたのは若い方だった。当時まだ三十代だったと彼女は記憶している。
現在の「総統」は別だ。正当な手段でその地位を手に入れた「政治家」として、確かにゲオルギイ氏は相当優れた人物であったということらしい。
「それでも最初は、ごくごく普通の、政見演説であったり、ニュースにおける議会の様子とかそんなものばかりです」
「ふうん。それだけではなくなったっていうの?」
「氏の任期が長くなるにつれて、ゲオルギイ氏自身に関する報道も多くなりました。これなんかいい例すよね」
「あら」
ゾフィーは思わず声を立てた。
「可愛いじゃない」
そこには、ゲオルギイ氏がまだほんの少女である娘と一緒にピアノを弾いている映像があった。広い、光がいっぱいに入る様な邸宅の中で、二人は明るく笑っている。
「あら、娘さんは首相とは髪の色が違うのね」
画面の中の少女は、赤みがきついブラウンの髪をしていた。大きなウェーブがついた髪に、オリーブ色の大きなリボンをして、同じ色のワンピースを着ている。ゾフィーはそれを見ながらサンドイッチを大きく噛みしめた。みずみずしいレタスのしゃく、という音と共に、こくのあるローストビーフの味が口いっぱいに広がった。
「前首相のお嬢さんは、奥さん似なんすよ」
「へえ。……あれ、ゲオルギイ氏って、お嬢さんだけだったっけ?」
「や、そうではないんでしょうが……」
えーと、と言いながら彼は別のブロックを取り出す。
「息子も居たらしいんすが」
「らしい?」
「何っか資料調べても、そのへん曖昧で」
「曖昧? 何それ」
「いや、途中までは、確実に『居る』んす。だけど、途中から急に『居ない』ように見えるんすよ」
そう言いながら、リルは一つのブロックを入れる。やはり先程と同じ様な、邸宅が映る。
「えーと。やっぱり基本的には、お嬢さんのほうがよく映し出されてますよね」
「そうよね」
彼女はうなづきながら、パックのコーヒーをすする。
「ですがこの時は、後ろにそれ以外の家族も映っているんですよ。ほら、これっす」
そう言って、彼は画面の右の隅をクローズアップさせる。
「これは、夫人? ……と……」
やや粒子の荒くなった画像の中で、赤毛の女性と、そのそばで何やら居心地悪そうに、しょうもなく付き合わされている、という様子でふてくされて歩いている金髪の少年が、そこには居た。
「どうもこれが息子らしいんすよね。ただし、こっちのほうが、お嬢さんよりは上っす」
「あら、なのに息子はこうなの?」
「そうなんすよね……」
リルは画像を元に戻す。そしてフェイドアウト。
「どうも首相は、この息子をあまり我々のよーなマスコミ屋の前には出したくなかった様なんす。……ってまあ、俺もこれ見たり、資料見て思ったんすが…… どーもこの息子、素行があまり良くなかったようす」
「あらら」
ゾフィーは思わず声を立てる。
「ぜーたくなガキね! 食うに困らない生活なのにグレてたった訳?」
「や、それはちょっと…… 結構食うに困るガキのほうがグレなかったりしませんか? ……って言うとまたこれもか。つーか、何か性に合わないウチに生まれたら、ちょっとかわいそっすね」
「あら、優しいのね?」
「や、無責任なんすよ」
あっさりとリルは言う。
「ま、色々なとこがありますからねえ。頭はいいガキだったよーですが」
「そうなの?」
「ちゃあんと、中央大学にはパスしてるんすよ。それも正規の試験で」
「……そりゃすごいわ。あたしの兄貴もそこに行ってたんだけど、結構頭いい兄貴だったんだけど、それでも一回落ちてるのよ」
「あ、お兄さんがいらしたんすか?」
「もう死んだけどね」
あ、とリルは声を立てて、すぐにごめんなさい、と付け足した。
「いーのよ別に。もうずっと昔のことだから。……で、その素行が悪いけど頭はいい息子が中央大学にパスしたっていうのはニュースにはなっていないの?」
「残念ながら、その辺りはもう、出て来ないんすよ、家族は」
「そうなの?」
「ちょうど、そのちょっと前あたりすか? えーと……」
あったあった、とラベルの日付を見ながらリルはつぶやく。
「お嬢さんの中等学校入学、くらいですかね。『楽しい我が家』な図は」
「見せて」
ごくん、と彼女はサンドイッチの最後の一片を飲み込んだ。
画面には、再び邸宅が映し出される。今度は庭だった。それはあの官邸とよく似ていたが、違った。
「そう言えば、結局家族の人達は、官邸には住まなかったんだわね」
ゾフィーはつぶやく。そしてようやく手が空き、サンドイッチを口に頬張ったリルは、それに対してうなづく。
「首府の近くの市に住んでたとか。今でもそこには夫人は住んでるんではないすかねえ」
「お嬢さんは?」
「とっくの昔に結婚して出てったんじゃないすか? 今二十代半ば? くらいじゃないすかね」
「そう…… え?」
止めて、と不意にゾフィーは言った。その声があまりにも鋭かったので、リルは思わずサンドイッチを落とす所だった。
「どうしたんすか?」
「いいから、も一度、今のとこ、戻して。スローにして」
「え? ええ……」
ゾフィーは胸の前で両手を握りしめると、じっと画面を見据える。
ゆっくり、ゆっくり、その映像が、彼女の目の前で動いていく。
「止めて!」
ぴた、と画像が停止する。思わず彼女は口を押さえた。
「嘘……」