がちゃがちゃ、と何かが落ちる音がした。彼女は眉をひそめた。続いてどーん、と何かが倒れる音。彼女は手にしていたリモコンを床に置いた。
「どうしたの!」
廊下で機材のチェックをしていたゾフィーは、音のしたビデオルームの中へと飛び込んだ。入ってみて彼女は呆れた。スタッフの青年が、どうやら棚を倒してしまったらしい。
「あ、す、すいません……」
「すいませんじゃなくて、あなた、ケガしなかった?」
「や、ケガは…… あ、そー言えば、あらら」
持ち上げた左の腕の裏側がひどく擦れていた。
「そう言えば、痛いです……」
「そう言えばじゃないわよ! こっちいらっしゃいこっち」
「だけどビデオが……」
「あなたのケガ手当している間に壊れる様なものだったら、とっくの昔に壊れているわよ! ほら!」
そう言ってゾフィーは、ぐずぐずしている青年の手を引っ張って、そのまま最寄りの事務所へと入って行った。
格別医務室などある訳ではないこの放送局では、事務所ごとに救急箱が備え付けてある。スダジオによっては、突然昏倒する俳優や素人のために、担架が置いてある場合もある。もっとも、この中央放送局の隣は病院なのだから、いちいちそんなものを作らないともいい、とも言えた。
しかし擦り傷切り傷くらいは自分で手当したほうが早い。
「はい腕を出して」
「大丈夫ですってば……」
「あなたは良くても、見てるほうが痛いのよ! それに、あちこちに血がつくってのも見られたもんじゃないでしょ!」
「は、はあ……」
素直にその青年はうなづく。ゾフィーはその様子を見ながらふう、とため息をつく。
「……別に取って食おうっていう訳じゃないから、そんな顔しないでよ」
「あ、すいません……でも、ほら、レベカさんはやっぱり、何か……」
「何かって何よ」
「だから、あの…… 才能あるひとだから……」
彼女は消毒薬をガーゼに取ると、傷の上を撫でる。青年の顔が大きく歪み、ひ、と声が上がった。
「才能じゃないわよ」
「でも」
「才能だけで人間やっていけたら苦労は無いわよ」
彼女はそう言って言葉を止めた。政府対応の役についてから三年。その間、決して平坦な道を歩んできた訳ではない。その役についてからも、常にそこを追われる危険はあったのだ。
ただ、追う側が疲れた、ということはあっただろう。そのくらい、この三年間に政府関係で起きた物事は多かった。何度か起きたテロの時には、彼女自身、軽いカメラをかついで奥の奥まで出かけたものだった。放送用端末では大した映像にはならない。
結果、彼女の印象は、最近この放送局に入ってきた者にとっては、「怖い」ものになる。女だてらに、成り上がってきた、と。
「……でも、俺、レベカさんの特番『砂のゆくえ』見ました」
「え?」
それは、二年前に彼女が政府絡みではなく製作を指揮した数少ない作品の一つだった。現在の西の辺境に住む独特の文化を持った種族をテーマに作られたそれは、彼女の作品の中では、決して目立つものではない。
忙しい政府関係の仕事の合間を縫って製作されたその作品は、決して評判が高いものではなかった。
「あと『残光』と」
「……マニアックねえ」
「でも、俺、あの作品が凄く好きだったんです」
彼女は手と、言葉を止めた。そして目を丸くして目の前の青年の顔を見る。何やら赤くなっている様にも見える。
「ああいうのは、もう作らないんすか? 俺、あれ見てこの放送局に入ろうって思ったんすけど」
「口が上手いね、青年」
「青年じゃないですよ、レベカさん。俺、ちゃんと、名前あるんすから」
「ふうん? 何って?」
彼女はやや上目づかいに訊ねた。
「ヘルシュル・リルです」
ふうん、とゾフィーは言いながら、リルの腕に包帯を巻いた。
*
「あの、レベカさん、忙しいんではないんすか?」
「忙しいわよ」
そう言いながらゾフィーは手を動かしていた。このリル青年の落として散らしてしまったビデオ・ブロックの山を、その背に書かれている日付ごとに分類するのである。
「だけどこういうものが、いきなり必要になる場合だってあるのよ。今は時間あるから、無駄口叩く前にさっさとやった方が早いわ」
「はあ……」
うなづくと、リルも黙って手を動かし始めた。だがさすがにお互いに黙って作業をするというのは、どちらの性にも合わなかったらしい。耐えきれなくなったのは、ゾフィーが先だった。
「ねえ、あなた一体何でこんなに落としてしまったのよ」
「捜し物、してたんす」
「捜し物?」
「トッパーさんから、今度の特番用の『材料』探してこいって言われてるんすよ」
「トッパーが? ああ……じゃ、あれね。『前首相の功績』みたいの。何って言ったかしら? タイトルは」
「さあ、俺はそこまでは」
「何、マニアックじゃあなかったの?」
「別に、キョーミあるものならともかく」
そう言いながら、リルは見つけた年代ごとにブロックを積み上げていく。ビデオ・ブロックは3センチ立方の黒いプラスチックでできている。ゾフィーはリルに背を向ける形で、同じ年代のブロックを手に盛り上げて、元あった棚の、その年代の書かれている場所に積んでいった。
「この管理の方法にも問題があるわ。せめて色違いを買えって言うのよ!」
「御言葉ですが、レベカさん、このブロックは、黒しかないんです」
「じゃメーカーが悪いわ」
彼女はきっぱりと言う。
「で、見つかったの? その過去の映像」
「それ自体は、見つけるのは簡単すよ? 特に、現在の総統閣下が側近としてつかれるようになってからのはすごく多いし。だけど、昔の映像ってのが少なくて」
「昔の。首相になってから、じゃなくて?」
「や、首相になってからでも、なんすが、ある時期のがすっぽり抜けてるんすよね」
「抜けて?」
「だから、その部分をちゃんと調べようってこと言われたんすが……」
それはゾフィーにとっても初耳だった。
「いつ? 具体的に言うと」
「えーと。前の首相が亡くなったのが、今から三年前すよね。その五年前ってとこっすか。その一年間くらいの映像が極端に少ないんすよ。まあその時期、政府も落ち着いていた、ってこともあるわけっしょーが」
「……すると今から、八年前ってとこ?」
「ひいふう…… そうすね、八年前」
「その出なくなる前と、後で何か違いがある?」
「違い?」
リルはふい、とゾフィーの方を向いた。そしてああ、と大きく首を前に振る。
「……あることはあるんすが…… 何っぇばいいんでしょ?」
「そんな、微妙?」
「微妙…… じゃないんすが、何っか俺にはイマイチ言葉には」
そしてんー、と腕を組む。
「ボキャブラリイの貧困! 頭使わないと馬鹿になるわよ!」
「あ、もう俺とっくにそーっすから」
は、とゾフィーは肩をすくめた。するとリルはざっくりと切っただけの様な耳よりやや下の髪を揺らせて笑った。
「……じゃあもっとスピードアップして。あたしも見たいわ。それ」
「レベカさんが?」
「これはただの興味よ」
あ、と小さく声を立てて、リルは笑った。
だがそれから、整頓が一段落つくまで、約一時間半を要した。ゾフィーは時計を見ると、いけない、とつぶやいた。
「あたしちょっと打ち合わせがあるから、あなたここで待ってなさい、いいわね?」
「ちょ、あの、レベカさん」
「いいわね!」
はあ、と残されたリルはうなづくしかなかった。そしてふう、と息をつくと、ピックアップしておいたブロックを更に年代別に積み上げた。
積み上げられたブロックは、露骨に年代によって高さが違う。前首相がその地位に居た18年間。じゅうはちねんか、とリルはそのブロックを眺めながらつぶやく。そして暗殺されてから三年。合わせて21年。それはちょうどこの青年の生きてきた年数と同じだった。