不意に、彼は壁に目を止めた。
それは偶然だったかもしれない。だが、起こりうる偶然は、偶然とは言い難い。
じりじりと、焼け付く様な日射しが降り注ぐ午後。石畳が綺麗に並ぶ白茶けた歩道は、激しく降り注ぐ光をそのまま反射して、目に痛い程まぶしい。
目を細めながら、そんな光に満ちた中、彼の姿は浮き立って見える。淡い灰青色のビルの壁にもたれながら、煙草をくわえる彼の姿は、ひたすら黒かった。
首にかかる程度の髪も、ひどく底の厚く硬そうな靴も、腕をむきだしにした上着も、長いズボンに至るまで、全てが黒かった。
そして対面の壁を、じっとにらむ。
壁には、ポスターが貼られているところだった。何人もが手分けして、大きな壁の一面に。
同じデザインで、同じ文句が、そこには書かれている。
Everybody wants his words.
何枚も、何枚も、その同じ文句だけが通りのその壁の一面に続いていた。遠目で見ると、白い太い線の中に、黒い線が一本引かれたかの様だった。
だがその線が不意に途切れる。彼は目を凝らす。誰かの横顔が、そこにはある。彼はそれを確認するとまた目を細めた。
ふう、と息を吐くと、灰を落とす。どのくらいぼんやりしていたのだろう。半分ほどが、一気に足元に散らばった。
と。
「おーいBP」
聞き覚えのある声に、彼は壁から目を逸らした。まぶしい光に、淡い金色が、きらきらと光る。
「お待たせえ」
両手を頭の上でひらひらとさせながら、相棒は一区画向こうの店から出てきた。そこはまだ新しい宝飾屋だった。オレンジの屋根に白い壁、明るい雰囲気が、新しいながらもこの都市の市民に最近人気があるという。
「待ったあ?」
へらへら、と笑いを顔いっぱいに浮かべながら、相棒は彼の斜め前に立った。その肩から斜めに下げた布の袋が、ぺしゃんこになっている。どうやら首尾は上々らしい。
それでも一応、彼は聞いてみる。
「どうだった? リタ」
「いい感じってトコ。エンジニーヤも機械相手よっか、そっちの方が天職なんじゃねえ? あ、オレにもちょーだい」
相手は彼の吸っていた煙草を見て言う。
彼はポケットから箱を取り出す。ほれ、と渡すとリタリットは中から一本取り、へへ、と笑いながら口にくわえた。
リタリットはん、と口を突き出す。しょーもねえな、と彼は自分の火を相手のものにうつしてやる。ふふん、と相手は笑うと、気持ち良さそうにふう、と煙を吐き出した。
「そーいや、何かオマエ、ずいぶん熱心に前、見てたじゃん。どしたの?」
「ああ…… あれ」
彼はあごで前方の壁を示す。あああれね、とリタリットは納得した様にうなづいた。
「相変わらずビンカンなんだあ」
ふっ、とリタリットはそのまま煙を彼に向かって吐き出した。止せよ、と言いながら彼はぱたぱたとそれを払う。
「すぐ、わかっちゃうんだよな、オマエ」
「しょうもないだろ。判ってしまうんだから」
「ふうん」
何とも言い難い口調で、リタリットはそうあいづちを打った。こういう時には、相棒は不機嫌なのだ。不機嫌だ、ということを自分に対して示している。
「それにしても、実に大変な作業だねえ。こうゆうのも、我らが血税の結果になっちゃうんだ」
税金なんか払っていたかな、とBPは内心突っ込みを入れる。何せ戸籍が無いのだ。法によって守られない存在なのだ。税金を払う義務は何処にあるのだろう。いやそれ以前に、彼らは未だ、逃亡者なのだ。
「あ、作業終わったらしいねー」
くくく、とリタリットは言いながら、煙草を足元に落とし、サンダルの底でぎ、とつぶす。そしてSTOPとシグナルが出ている道のほうへと向かうと、ゼブラゾーンすれすれに立った。BPはその背を慌てて追う。GOのシグナルが出ると同時に、リタリットは早足で車道を渡った。
間近に見ると、白の太線と黒の細線は急に意味を持つ。一つ一つの「Everybody wants his words.」はその流れる様な字体にも関わらず、一つ一つがびしびしと目に突き刺さってくるかの様だった。それがゼブラゾーンの正面から、右から左へと、ずらりと続いていく。
実際近づくとその紙も文字も、ひどく大きかった。一枚二枚さんまい……
彼は思わず数えていた。いち「Everybody」に「Everybody」……
じゅうに「Everybody」まで来た時に、その文句がいきなり途切れた。そして、そこには、ひどく最近見慣れた顔が、横を向いていた。
左向きの横顔は、ひどく端正なものだった。その端正な顔の真ん中より少し上にある目は、そのまままっすぐ向こう側を見つめている様に見えた。耳のあたりで切られた焦げ茶色の髪は、すっきりとして、その人物の潔さを語っているかの様だった。13枚目。その一枚だけが。
ちゃり、と不意に音がしたので、BPはその音のする方を向く。相棒は手をポケットに突っ込んでいた。そしてやや上目づかいで、その13枚目のポスターを見る。笑っていない、その目。
すっ、とそのポケットから手が出された。そして、次の瞬間、しゃっ、と耳障りな音が長く伸ばされた。
指の合間が、きらりと光った。
「いこーぜ」
そう言って、リタリットはBPの手を掴んで走り出した。彼は突然の行動に戸惑いながら、ふと後ろを振り返る。びらり、と壁からそのポスターの1枚が斜めに垂れ下がっていた。ちょうど、それは写っていた人物の顔を、斜めに引き裂いているはずだった。
現在のこのレーゲンボーゲン星系を手にしている、「総統」ヘラ・ヒドゥンの顔を。