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翌朝、彼の唯一の上司が起き出す前に、テルミンは支度を済ませなくてはならないので、まだ外が明るくなる前に、男の部屋を抜け出す。彼らの部屋は、裏の通路でつながっている。
テルミンもスノウも、その職務上の必要から、この総統官邸…代々の首相官邸に自室を持っていた。そしてその部屋は、その昔赴任していた何十代目かの首相が作らせた裏の通路でつながっていた。
現在ではその存在が知られていないこの通路は、テルミンにとって、一人になることのできる唯一の空間でもあった。
陽の差し込む高い窓のついた螺旋階段に座って、僅かな時間を過ごす時、彼は自分がひどく疲れていることに気付く。
だが気付いても、止まる訳にはいかないのだ。
そしていつもの様にベッドを抜け出そうとすると、着込んだシャツを後ろから掴まれる感触があった。彼は驚いて、振り向く。何、と彼は問いかけた。
「たまにはゆっくりして行けばいいのに」
「そういう訳にはいかないんだ」
ふうん、とスノウの声が背後に聞こえたので、彼は立ち上がろうとした。しかしそれはできなかった。
「何? 離して欲しいんだけど」
そう言って、テルミンが振り向いた時だった。彼は不意にその手を掴まれて、ベッドの上に押し付けられた。
「どうしたの」
だがその答えはなかった。そして彼も、それ以上の言葉をつむぐことができなかった。強い力で、背を持ち上げられ、ひどく長い時間、彼は言葉を塞がれていた。
何度も繰り返されるその合間に、呼吸をするためだけにある様なその合間に、相手の声が耳に飛び込んでくる。
「時々、私は自分の選択を間違えたんじゃないか、と思う」
それはどういう意味だ、と彼は思った。だがテルミンはそれを口にすることはできなかった。
その代わりに、彼は相手の胸を強く押し戻していた。合わせた相手の視線が、自分の中までえぐりとろうとするかの様に深い。首から背筋に、ぞくぞくとした感触が、起きては引いていく。
「……もう、行くから」
ようやくの思いで、彼は相手の手から逃れ、それだけの言葉を唇に乗せる。
「ああ。今日も、気を付けて」
それを聞いて、テルミンは苦笑する。一体自分が、この目の前の相手以外の何に対して気を付けろ、というのだろう?
裏の通路を、手にした小さな灯りだけを頼りに、自室へと戻る。相手が自分の所へやってくることは無い。あくまで自分が向かうのだ。
それが自分にとって、必要だった、ということもある。いや、それしかないのかもしれない。ないのだろう、と彼は思う。
ただ、それが時々ひどく、苦しくなるのだ。朝の前の、この時間、何一つ音のしないこの道を歩いていると。
音のしない―――?
ふと、彼は足を止めた。ほんのわずかだが、耳に、何かがかすれたような音が飛び込んできたのだ。
あの男が、何か用事があって動いたのだろうか。
いや、それしか思い付かない。彼は手にした灯りのスイッチを切った。遠くに窓はあるのだが、朝前のこの時間には、そこから光りが入ることはない。テルミンは息を殺して、耳を澄ませた。
―――確かに、何か、居る!
さぁっと、背に冷水をかけられた様な感覚が彼の上に起こる。
だが正体をすぐに確かめよう、とするような愚は彼は起こさなかった。代わりに彼がしたのは、いつも以上に足音をひそめながら自室へと戻ることである。
作りつけのクローゼットが、彼の私室の出入り口となっていた。そっとその扉を開け、何ごとも起こっていないことを確かめ、彼はほっとする。
しかし。彼は改めて考える。何者かが、この官邸の裏通路を知っているということ。その可能性は確かにあったのだ。スノウがそれを知っていたように、この官邸に長く居る者だったら、何かしらこの存在を知っている可能性はある。彼はそれに気付き、思わず自分の肩を両手で抱いた。
その日の公務の合間に、テルミンは、新しく建設される数々の建築物の視察に出向いた。
官邸の増築。首府郊外に作られる巨大なスタジアム。美術館に公会堂。そしてステーション。
これらの建設に関しては、前首相の時代から予定はあった。元々この首府の建築物は、首相官邸が象徴するように、代が替わるごとに、何かの機能を付け加えられたり減らされりしてきた。それに伴い、その作風もその時代時代のものがとりとめもなく付け加えられることとなり、都市全体として非常に散漫な印象となっていた。
前首相ゲオルギイは自分の任期の間に、それを何とかしようと考えてはいたらしい。だが彼はそれを果たすことはできなかった。テルミンはそれを利用した。
実際、政治を動かす段取りに関しては、テルミンはヘラに前首相の方法を踏襲することを勧めている。そこから変化させるにせよ、させないにせよ、最初はその方法が有効だった。
だがその踏襲したはずの方法は、ヘラが「首相代理」からいつの間にか「総統」に変わった様に、いつの間にか、その内容を変えているのだ。
ゲオルギイ首相は、全体的に穏やかな印象を持つ建築を好んだ。求めていた「安定」にふさわしい、穏やかで、長く続く何かを象徴するような。伝統的な色をそこにはほんの少し絡める。そうすることによって、その建築物自体に重みも加わるのだ。そして、その建物は、決して大きいものではなかったのだ。
しかし、現在テルミンの目の前に広がる建物は、そうではなかった。
「スペールン!」
テルミンはスーツ姿にヘルメットをかぶり、テントの下で図面とスタッフの顔を交互に見ながら、真剣に話をしている男の元へと近づく。それは彼同様、この役割のために新しい役割を与えられた男だった。
「やあ、テルミンじゃないか」
まだ三十を少し過ぎたくらいのスペールン建設相は、顔を上げ、眼鏡を直しながら声を上げた。
「それでは引き続き頼む」
は、とスペールンの周囲のスタッフは短く答えると、軽く頭を下げて、現場へと引き返して行った。
「来るなら来ると言ってくれれば良かったのに」
「ちょっと時間が空いたんだよ。どう?」
「いい調子だ。何せ、スタッフがいいからね」
「確かに」
テルミンは建設中のスタジアムを見上げながら、大きくうなづく。白い、巨大なその建物は、この一人の奇才建築家の手により、着々とその姿を現しつつあった。
「うんやっぱり凄いよ。何か、見ているだけでぞくぞくする」
「天下の宣伝相さまにそう言ってもらえると嬉しいね。俺はまじで嬉しいよ。だいたい俺の様なタイプにちゃんと仕事をくれるだけでも滅多になかったというのに」
「いや、それは君の持っているものが、理解されにくいものだったからだよ」
「ふうん?」
「偉大な芸術というのは、いつも大衆には判りにくいものさ」
「大衆ねえ。俺は俺のこいつらは、実に判りやすいものだと思うけどなあ?」
ナハト・スペールン建設相はそう言うと、腕組をし、ふう、と息をついた。その腕は、スーツを着ているというのに、しっかりと二の腕まで剥き出しになっていた。
いかにも現場を結構な年数渡ってきました、と語っているようなそのがっしりとした体つきは、どうにもスーツには治まりきらないらしい。
この人物を起用するようにヘラに進言したのは、無論テルミンだった。新たに作られるそれらの象徴的な建築物群の建設に際して、様々な建築家が候補に上がったのだが、このスペールンほど、インパクトの強いものを作る者はいなかったのだ。
そして何より、このテルミンと歳も近いスペールンは、首府全体の改造、という点において、テルミンと非常に話が合ったのだ。ケンネルとは違う意味で、このスペールンは、彼の友人にも近い存在となっていた。
「工期は、予定通りに済みそうかい?」
「何ごとも無ければね。そのあたり、君の出番じゃあないのかい? テロ対策には、気を付けてほしいな」
普通なら言いにくいことも、この男はテルミンに向かって臆せずに言う。これもまた、ありがたいことだった。スペールンは、この都市計画に全力を注いでいて、他の政治的な部分には興味は無い。それだけに、テルミンもその進言は取り入れやすいのである。
権力は手に入ったとは言え、未だに彼とその唯一の上司の座を狙う者はあちこちに存在した。気を付けるに越したことはない。
そして、テロ対策。
辺境に以前から存在した反政府勢力が、ここしばらくのうちに、ひどく組織的になり、あちこちの辺境武装地帯で、政府軍が敗走する、という事態すら起きていた。
その勢いが、各地の都市や、首府で地下活動を行う反政府組織の構成員に火をつける可能性はあった。
気を付けるよ、とテルミンは大きくうなづいた。