9.-④

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「と言う訳で、俺はもう冷や冷やしたよ」

「あら、それが天下の宣伝相さまの言うことかしら?」


 くくく、とくすんだ色の作業着を上下に身に付け、長い栗色の髪を編んだ女性は楽しそうに笑った。しかし二人のその声は、決して大きくは無い。ケーブルや脚立と言った道具があちこちに置かれたスタジオの片隅、彼らは仕事中だったのだ。


「言うね君も」

「だって今、あなたにそう言えるのは他に誰が居るって言うの?」


 彼女は腰に手を当てて、軽く胸を張る。


「はいはい、君くらいなものです。レベカ監督」

「嫌なひとだわ。でもあなた、そういうひとだものね」


 ゾフィーは肩をすくめ、丸めた台本でぽん、と相手の腕を叩いた。


「仕事の話を、しましょ」


 OK、とテルミンは公務の顔になる。彼女もまた、テルミンの女友達、という役割から、政府直属の広報番組のディレクターとしての顔に変わった。

 ゾフィー・レベカはあの前首相暗殺の場面を撮り、報道させた功績から、一躍中央放送局内で飛び抜けた昇進を果たした。それだけではない。その時に首相と一緒に居て、暗殺者と銃撃戦を演じたのが、この宣伝相テルミンと、現在の総統ヘラだったことから、彼女は政府関係の報道を一手に取り仕切る様になってしまった。

 現在では、そんな彼女そのものに対し、ゴシップ記者が何かと無作法なカメラを向けてくることがある。すなわち、テルミン宣伝相と、特別な関係があるのではないか、という…

 ばっかじゃない、と彼女はそんな輩を一言で言い表し、笑い飛ばす。

 正直、別に独身のテルミンと独身のゾフィーがそんな特別な関係にあったとしても、別段騒ぐ程のことではないのだ。いっそ結婚したところで、おめでとうと言われ、一時期カメラに追い回され、飽きられれば静まる。その程度のことである。

 ただ、テルミン宣伝相という人物が、あまりにもそのゴシップ記者のカメラに捕まらないこと、そしてゾフィーのあまりにも急な出世、その二つが、周囲の目を引いてしまったのだ。

 そしてその実態は、と言えば。

 彼らは事実、ただの友人だったのだ。頬やおでこへの友人のキス以上の姿を見た者は、一人としていない。当然だ。本当にしたことが無いのだから。

 では他に恋人があるのか、と問えば。

 その件については当のテルミンが夕食を一緒にした時に聞いたことがあった。しかし夕食と言っても、仕事をしながらで、手にしていたのは、仕出しの黒パンのサンドだった。噛みごたえのあるその薄い、密度の高いやや酸味のあるパンを、ミルクと一緒に激しく噛みしめながら、最近恋人は居るの? というテルミンの問いに、居る訳ないでしょう、と彼女はあっさりと答えた。


「何で?」


とテルミンもまた実にあっさりと聞いた。


「だって面倒じゃないの」

「面倒?」

「こんなに仕事が面白いのに、いちいち相手の気持ち色々考えたりしなくちゃいけない関係作るなんて厄介で厄介で」

「気持ち考えない関係だっていいじゃないの」

「あなたは男だからそういうこと言えるのよ」


 彼女は元首相の暗殺事件以来、テルミンのことを階級や職名で呼んだことは無い。この先どんどん階級が上がってくのに、そのいちいちに呼び方を変えるのは面倒だ、というのが彼女の答えだった。


「女はね、関係すればその都度、いちいち子供ができるのできないのって考えなくちゃならないのよ。そりゃいちいち考えないひとだってもちろん居るけれど、少なくともあたしはそうなのよ」

「それは男だって同じじゃない」

「違うわよ。男は相手にどうすればいいか考えるだけだけど、女は自分の身体をどうすればいいのか、考えなくちゃならないのよ? そんなことに頭使うのは、面倒じゃない」

「そういうものかな」

「そういうものよ」


 そう言われてしまうと、テルミンは自分の日常を考えて、苦笑せざるを得ない。彼女にしてみれば、ひどくおおごとであるその行為が、自分にとっては、半ば眠りを手に入れるためのものになっているのだ。


「あなたはどうなの? テルミン」

「俺? 俺もいないよ」

「嘘ばかり」

「嘘じゃあないさ。恋人は、いないって」


 居るのはそういう相手じゃあない。

 それを考えるたびに、彼の胸の中は、やや締め付けられる様な気分になる。それは余りにも毎日毎日感じすぎて、もう彼の中では当然になっていた。

 ふうん、とゾフィーはうなづいた。自分の答えに彼女が納得したのかどうかは彼にも判らない。だが、自分の中の、言えない何かを彼女が気付いているだろうことは、テルミンも知っていた。


「別にいいけど。でも身体は大事にしてよね」

「それはお互い様さ」


 そしてこの日も、次の公開政見放送の予定について、彼女と話し合っていた。宣伝相の意向が大幅に左右するこの番組において、スタッフはあくまでゾフィーの手足に過ぎない。


「了解。ではその線でいきましょ」

「スタジアムの建設も着々と進んでいるし。その時の事も、段々に考えて行きたい」

「スタジアム、ね」


 くす、と彼女は笑う。


「何がおかしいの?」

「ううん、最近作られる建物、うちのスタッフ達が、皆うらやましがってたわ」

「羨ましい?」

「あれだけのセットを本気で作ることができたら、俺達は凄い画像が撮れるだろうなって」

「ふうん」


 テルミンは唇をきゅ、と上げた。


「だったら、いい映像を撮って欲しいな。その時には、必ず」


 もちろん、と彼女は笑った。


   *


「どうした?」


 ふと思いだし笑いをする彼に、相手は、不思議そうに問いかけた。


「何でもないよ」

「何でもないという割には意味深な笑いだな」


 テルミンは相手の顔の、鋭角的なラインを指でたどる。相手はその指を取ると、軽くその先を噛んだ。


「今日さ、言った奴が居たんだよ。今建ててる色んな建築物が映画のセットの様だって」


 ほう、と相手は感心したような声を立てた。


「それはそれは。ずいぶんといい目をしている友達だね。それは君の言っていた、今度ライから帰ってきたって言う科学技術庁の?」

「違うよ。ゾフィーさ。レベカ監督」

「ふうん。確かに彼女は直感が優れているね」


 確かに、とテルミンはぼんやりとした頭の中で思う。


「あれがセットだって、気付くということは」

「そりゃ、俺の友達だからね」


 話をするのが億劫な程、テルミンは毎晩毎晩疲れていた。しかしそれでも、彼はその相手の所を訪れるのは忘れなかった。それは殆ど日課と言ってもよかった。

 しかしそれでも彼も時々思う。こんな疲れ切って人形の様になっているだけの自分など抱いて、何が楽しいのだろう? と。

 そもそも何故自分だったのか、がテルミンには今でも判らないのだ。この相手…帝都政府からの派遣員である、スノウという名の男が。

 この男が現れなかったら、と時々彼は思う。現れなかったら…… 今頃はまだ、自分はただの佐官としてこの場所を首相官邸として、警備しているだろう。首相の愛人だったヘラはおそらく愛人のまま、憂鬱で退屈な日々を過ごしていただろうし、そもそも、ゲオルギイ首相があんな風に暗殺されることはなかったはずだった。

 彼はあの事件の後、訊ねた。


「どうやって、あんな奴を動かした?」

「別に。ただある種の人間が集まる場所に、現金輸送車が*日*時頃にあの道を行く、という情報を流しただけだよ」


 それだけの訳はない、と彼は思っていた。だがテルミンはそれ以上聞くのはやめた。この帝都政府から派遣された男は、自分には計り知れない、大きな裏のつながりを知っているのだろう。

 おそらく、自分が動かなくても、ゲオルギイ首相はいつかこの男の差し金によって消されていただろう、と彼は思う。おそらく間違ってはいないだろう。ただ自分が居たことで、それが早まったことは事実だが…


「眠ったのかい?」


 相手は彼の耳に、低い声を囁き入れる。眠ってない、と彼は半ば溶けかけた意識の中で、それでも答える。相手のくすくす、と含み笑いする声が聞こえる。それはそれで、悪くはない。悪くはないのだ。

 彼がヘラの元に警護の士官としてついた時からのつき合いだから、もうこの男との関係は、五年近く続いていた。

 ひどく不思議だ、とテルミンは思う。

 今では、この男が、自分を一つの駒として、何か別の大きな目的を達成するために動かしていることは判っている。判らない訳がない。何せ自分は、確かに見込みはあつたのかもしれないが、この男に会った時点では、ただの一介の士官に過ぎなかった。まだその時には少佐だったのだ。

 だが今では、その地位は、当時の上官よりも上位にあると言ってもいい。当時の上官、アンハルト大佐は、現在少将の地位にあるが、その赴任地は、この首府から遠く離れた南のフラーベンという地であった。もっともその人事について、テルミンが手を下したという訳ではないのだが。

 ぐっ、と持ち上げられる感覚で彼は眠りに入りかけていた頭を現実に引き戻される。


「まだ、駄目だよ」


 目の前の男は、優しげな声で、それでも容赦なく告げる。それを彼が望んでいるのを知っているのだ。彼は頭の芯がくらくらとするのを感じながら、スノウの手慣れた指の動きを感じ取っていた。