9.-③


 ああ、それでもちゃんと知ってはいるのだな、とテルミンは思った。


「ライにずっと居たなら、俺のことなんて知らないと思っていた。俺がすぐにヘラ・ヒドゥンだとよく判ったね?」


 くす、とそう言いながらヘラはケンネルの手をぐっと掴む。


「ライでも、多少のタイムラグはありますが、一応首府の電波は受け取ることはできますから。それにこいつの上司、と言えばあなたしかいないでしょう、総統」

「そして先輩にとっても、これからは唯一の、だよ」


 テルミンは付け加える。そうだね、とその言葉にケンネルはうなづいた。


「せっかく頂いた役目ですから、精一杯勤めさせていただきます。けど」

「けど?」


 ヘラは片方の肘をテーブルにつき、その上にあごを置くと、実に面白そうだ、と言うように、この初めて会う科学技術庁長官を眺めた。

 実際、このケンネルを見て、その役目がすぐに出てくる者はいないだろう。

 ぼさぼさの焦げ茶色の頭、のびかけのヒゲ、デニムのバッグというだけではない。その格好にしても、まだライから戻ってきた、ということをそのまま表している。春先にはかなり奇妙な格好だ。下に着ていたシャツにしても、アイロンかけとは無縁な、ひどくよれが生じ、所々に洗濯しても取れなかったのだろう染みがこびりついている。

 そして所々すり切れ、色あせたやはり厚手のデニムのズボンに、履いているのは、ブーツ。いやブーツというよりは、「長靴」と称した方がいいかもしれない。実用一点張りの真っ黒なそれは、どんな雪道でも平気で歩き回れそうな代物だった。

 しかしその場にそぐわないと言えば、この場所――― 旧首相官邸における、この「総統」の姿もそうだった。

 「総統」などといういかめしい称号からは想像のできない程、この「総統」はだらだらとした格好で、そばのオレンジをつまむ。

 アイロンを掛けていないという点ではケンネルといい勝負だろう、そのままベッドに入ってしまったのが丸判りな程なシャツは袖のボタンが止められることは無い。そして、やはり無造作に履いたズボンは、前のボタンが外れていることもある。―――テルミンには覚えのある格好だった。

 日課自体はずいぶんと朝型に切り替わったとは言え、ヘラの朝の時間をひどくゆったりした格好で過ごすくせは、テルミンが最初に会った時と、まるで変わらない。

 無論警備の兵士達も、最初はそれにずいぶんと面食らった。そして目のやり場に困った。何せこの「総統」の美貌ときたら、その気の無い純情な若い兵士を面食らわせるには充分過ぎる程だったのである。

 おそらく彼ら兵士は、繰り返される政府のプロパガンダ放送の中で言葉を投げかける彼らの総統の姿を知ってはいただろう。時にはアップになる、その映像から、その人物が、飛び抜けた美貌だということは知っていただろう。

 正直、このレーゲンボーゲン中の役者と歌い手が、最初にヘラが正式に「代理」として政府公報に出演し、声を高め、カメラのズームアップを受けた時、自分達の将来に恐怖したという。平気だったのは、「実力派」と称されている、美貌とは無縁の役者達だけだったらしい。

 そんな人物が、朝、ひどく気怠げな表情で、まだ乱れた髪で、シャツのボタンを二つ三つと外し、白い肌もあらわな姿でふらふらと食堂に出てくるとなれば、訓練を受けて配属されたエリートの兵士達も、どうしていいのか判らなくもなるだろう。―――かつてのテルミンがそうであった様に。


「けど?」


 ヘラは面白そうだ、という笑みを浮かべてケンネルをじっと見据える。だがこの男はそれには動じる様子は無い。それがまた面白いとでも言うのか、どうやらヘラの機嫌が極上のものになっていることにテルミンは気付いた。


「できるだけ、間違った方向には、協力しなくてもいい様になることを、祈りますね」

「先輩!」

「いい、テルミン。それは、どういう意味だ?」


 ヘラはさらに機嫌を良くして訊ねる。ケンネルは残ったコーヒーを飲み干し、続けた。


「科学には出来ることはたくさんあるけれど、万能じゃあないです。知れば知る程、知らなくては良かった、と思うことも多々あります。『長官』などという役目をいただいた以上、できるだけの協力はしたいと思いますが」


 ふうん、とヘラはうなづいた。


「面白い男だな、ケンネル長官は」

「それは、どうも」


 ケンネルはそう言われても、平然と軽く頭を下げるばかりだった。どうしたのだろう、とテルミンは思う。

 再会した瞬間には、さして考えなかった疑問が、テルミンの中には湧きかけていた。変わったんじゃないか? 

 何処がどう、という訳ではない。相手を見る自分の視線が変わったのかもしれない、とは彼も思う。この三年のうちに、自分と、周囲を読む目はひどく敏感になってしまった。


「ま、そう物騒なことは起こらない様に、俺もできるだけのことはするさ」


 物騒な方法で現在の地位を手に入れたこの美貌の総統はつぶやいた。


「俺もコーヒーが欲しい。テルミン、外で暇を持てあましてる奴らを呼んでやってくれ」


 はい、とテルミンは立ち上がった。