「ありゃまあ」
早朝、まだ湿った空気が辺りに漂う時刻。恒星が顔を見せるまで、もう少しある。そんな時間に、その男が、その場所の前に立った時、まず上げたのはそんな声だった。
ぼさぼさに乱れた髪、顔の下半分に無精ひげを生やした男は、それでも子供の様な声で、更なる感想を口にする。
「……でかいなあ……」
思わず男は感心してしまう。そして背負っていた黒い大きなデニムのバックの中から、使い込まれた小型の写真機を取り出すと、少しばかり後ろに下がってから、シャッターを何回か切った。
近くで眺めたら、首が痛くなりそうな太く高い柱。天井。感心半分、呆れ半分で男はもう一度その建物に近づいた。
そして少しばかり、細部を見ようと足を進め…
「おい、そこで何をしている?」
男は守衛に呼び止められた。守衛とは言え、身に付けているは、濃青の制服。開襟と斜めのベルトをつけたそれが、この星域の正規軍の服装だということは、誰が見ても一目瞭然である。男は果たしてそれに気付いてるのかいないのか、にこにこと笑みを浮かべ、写真機をバッグの中に入れながら、こう言った。
「あ、ちょうど良かった」
守衛をしていた軍人は、どうやら血気はやる年頃らしい。この早朝などというとんでもない時間に、わざわざ写真機を持ってやってくるのはロクでもない奴だ、という認識でもあるのだろうか。やや苛立たしげに男に近づくと、写真機を出せ、と居丈高に命じた。
「別に出してもいいけど、ちゃんと返してね」
男は素直に写真機を出す。その小型の写真機のカバーは、ひどく汚れたりすり切れたりしている。使い込まれたものであるのは一目で判る。
「それに、ちょっと取り次いで欲しいんだけど」
「何?」
「えーと」
男はバッグのポケットから、二つに折り畳んだ封筒を取り出す。
「俺の友達が、この中に居るはずなんでさ」
訝しげな顔をして、守衛の兵士は男から手紙を受け取る。切るものがなかったのか、その封は指で引きちぎったかの様にぎさぎさになっていた。
そしてそこから取り出した卵色のカードを取り出した時…その守衛の兵士は慌てて顔を上げた。
「何? 俺そんなに格好いい?」
いやそういう問題ではない。守衛の兵士は、慌てて衛所に飛び込み、その守る建物の内部への直通回線を開く。そうしながら、その一方で、そこにじっとして下さいよ、と手で合図を送る。ここでこの人物を追い返してしまったとしたら、自分の不手際になるのだから。
一方の男は、何だかなあ、という顔でその様子を眺めていた。そしてもう一度、その目的である場所…その中でも建設中の、巨大な建物を見上げた。
「これって、でかすぎるよなあ」
その声が聞こえたのかどうか、守衛はようやくつながった回線に頭を何度も何度も下げながら、またちら、と男の方を見た。
「……はい、確かに」
頬に汗が滴る。背が汗で濡れているだろう。守衛の兵士は普段まず直接口をきく機会も無い相手に緊張していた。
「判りました、お通し致します…… 宣伝相閣下」
そして、未だ暢気に口笛など吹きながら、面白そうに上を眺めている男の元に守衛は引き返す。
「知らぬこととは言え、失礼致しました。今起きられたということですが、到着までには、支度を整えるとのことで」
「うん」
男はうなづく。そして高い金属の門を、ポケットに入っていない方の手で掴むと、にっこりと笑う。
「じゃあ俺、この中に入っていいのね」
「あ、ご案内を……」
「散歩させてよ。せっかくのいいお庭なんだし」
「しかし…」
「俺はライから帰ってきたんだから、お花を見たいの。いけない?」
いけない、とこの所詮人の良い守衛には言えなかった。あの極寒の惑星から戻ってきたのなら。
さっさと門の中に入っていく男の背中を見ながら、ため息まじりで守衛の兵士は、中を担当している同僚に回線を回した。
「宣伝相閣下のご友人がお見えなんだ… 花を見ていく、ということだったから、そっちへ案内を回してくれないか?」
お友達? 誰だ?と同僚の驚く声が聞こえてくる。
「ケンネル新科学技術庁長官だ」
ひっ、と回線の向こう側の声も、息を呑んだ。
それにしても。
その「新科学技術庁長官」ケンネル氏はその庭の豊かさに、正直驚いていた。
陽の上る前なので、花の面は閉じていたが、それでもその鮮やかな色は充分判る。みっしりと立て込んで咲く、薄青の小さな花、少女のレースのリボンを思わす様な細かい白い花、首を高く上げて開こうとする、華やかな紅色の花。そして樹の枝いっぱいを飾る、山吹色の香りの高い花。
さっぱり名前など彼には判らないのだが、それでもこの花々がとても綺麗で、手入れがきちんとされていることが判る。
季節は春。
まだ明け方の空気はやや頬に冷たいが、冬の惑星から帰ったばかりの身体には、大したものではない。ポケットから煙草を取り出すと一本くわえ、ふうっと大きく煙を吐き出す。そして苦笑いすると、つけたばかりの煙草を足元に落とし、ぐい、と足でつぶした。
「吸う様に、なったんだね、先輩」
「ちょっとね」
そして一度足で踏みつぶした吸い殻を拾うと、ゴミ箱は何処? と訊ねた。こっちだよ、と後輩は答える。濃青の制服もきちんと着こなした姿は、三年前と同じだ。ただ、その上に付けられている階級章が違うだけだ。
たった三年だというのに。
「ただいま。何とか風邪もひかずに帰りましたよ、テルミン宣伝相どの」
「お帰り、先輩」
そして改めて、ケンネルは旧友に飛びついた。勢い余って、テルミンは背中から柔らかい芝生の上に転がってしまう。夜のうちにじっとりと溜まった露が、子供の様に転がり回る彼らの背中と言わず腕と言わず、びっしょりと濡らした。
そして一通り転がり終わった時、べったりと腰を下ろしたまま、二人は顔を見合わせてあはははは、と笑い合った。遠くでテルミンの部下もそれを眺め、普段絶対に見られないその姿に唖然としている。
「何っか凄い格好になってるよ、先輩」
「そぉかあ? ま、確かに宙港から始発で来たからなあ。戻っていちいち服着替えていくのも面倒だったし。それよりまず、俺、お前に会いたかったし」
「本当? 嬉しいなあ。今そんなこと言ってくれるの、先輩だけだよ?」
「嘘つけ! 天下の宣伝相さまが何言ってるよ。あ、招待状ありがと。いやあここの守衛くんってお前と同じくらい真面目と違う?」
「ああやっぱり何か言われたな」
「いや、あんまりあの門の横に作っている建物が凄いでかいもんだったから、思わず写真を撮りたくなってさ。そしたら、まあ、凄い目でにらむこと!」
「写真撮ろうとしたのかあ? そりゃ当然だよ!」
「へえ」
ケンネルは不思議そうに肩をすくめた。テルミンはその様子を見ると、付け加える様に、友人に向かって言った。
「今はね、先輩、そういう所になってしまったんだよ」
「みたいだね」
「だけどそれは必要なんだよ? それは」
すっ、と言い立てようとするテルミンの前に、ケンネルは手を上げた。
「そういう話は、後でもできるよ。それよりテルミン、先輩はお腹空いてるんだけど」
そしてにやり、と笑う。あ、とテルミンは背後の部下の存在を思い出した。
「ひゃ、びちゃびちゃ」
「着替えくらい貸すよ」
くっくっく、と笑いながらテルミンも、せっかく整えた自分の服がびしょぬれであることに思わず笑った。こんなことは、久しぶりだった。転がり回るのも、友達に飛びつくのも、そして、心から笑い合うのも。