歩きながら――― 歩かされながら、彼は未だぼんやりとしている頭の中から、ゆっくりと糸をたどり始める。
ゆっくりだが、言葉が、映像が頭の中を漂い始める。自分に関する「記憶」は引っぱり出せないが、そうでない「知識」は残っているように彼には感じられた。
現在、人類とその進化種多々が居住する全星域を統一し統治する銀河帝国の、帝都本星からは遠く離れ、文化の進度にもずれがある場所は「辺境」と呼ばれる。
彼の「知識」の中で、自分がおそらく現在居るだろうこのレーゲンボーゲン星域は、その意味において、正しく「辺境」に当たる。
そしてこの正しく「辺境」である星域に、居住可能な惑星は二つあった。
一つは、温暖で、陸地と海地が、人間の住むのに良いバランスで存在しているアルク。
そして、もう一つは。
彼は前方に目をこらす。門の中に入っても、雪の量にさして変わりはない。一足歩くごとに靴の底にべったりと雪はへばりつき、どんどん足どりを重くしている。頬をかすめる大気は、寒いを通り越して痛い。
それでもここは、まだましな方なのだ、と彼は思う。
流刑惑星ライは、アルクよりやや外側の軌道を回る惑星だった。主恒星からの距離は、大気も水もかろうじて在るその惑星をひどく寒冷にした。万年雪と弱々しい太陽の光。
彼の「知識」は彼にそれでもまだマシなんだ、オマエ、と訴える。
灰色の、四角い建物の中に入った途端、彼はその温度差に一瞬眩暈と、呼吸困難を起こしそうになった。
*
大した説明もされないままに、手の拘束を解かれ、彼は衣類とタオルだけを両手いっぱいに渡された。そして今度は別の制服を着た別の男の背を見て歩き出した。
軍服だろうな、と彼は思う。濃青の、深い襟を持ち、斜めにベルトを掛ける衣服など、彼はそれ以外に知らない。だが大した階級の者はいない様な気がした。自分を連れてきたのは、明らかに一般兵士だったし、現在自分の前を歩くのは下士官だ。肩の星と線の色と数がそれを証明している。
廊下の途中にある扉を開いた瞬間、彼は再び寒さが全身を襲うのを感じた。確かに外よりはましな気温ではある。しかし一度通された、看守の棟であろう場所とは、20℃ほどの差がある様に彼には思われた。
廊下の途中にある手洗い場では、隅の方でうっすらと氷が張り掛かっている。
手の上にある衣類は山になっている。だがそれで「一揃い」であることは、その一つあたりの厚みから見てとれた。
そしてそれは決して新しいものではない。タオルにしても同様だった。幾らかの染みがそこには見られる。洗われた形跡はあるが、幾つもの薄茶色の染みが飛び散った様ににじんでいる。血の染みだな、と彼は思う。おそらくは、この持ち主はごく最近死んだのだ。
ここは、死ぬまで出られない惑星だということを、その血の染みが呼び起こした「知識」は告げる。
前方の下士官は一つの扉の前で立ち止まり、こう言った。
「自分で扉を開けて入れ。S12391号」
味も素っ気も無い呼ばれ方だ、と彼はぼんやりと思う。そして下士官はこう付け加えた。
「せいぜい可愛がってもらうがいいさ」
重い扉は、開ける時に低い音が響いた。
*
閉じた扉の内側で、空気が動くのを彼は感じた。
決して広くはない部屋の中に、ざっと見たところ、15、6人は居るのだろうか。入って来た自分に視線を向けたのか、向けないのか、いまいちこの窓が一つしかない、そして明るくもない電球が一つだけの部屋ではよく判らない。
だが、その窓よりの空間で、皆が皆、思い思いの姿勢を取っていることくらいは判る。
壁よりには、三段になったベッドがその中に六列置かれている。彼はその中で空いていそうな一つに衣類を置こうとした。
すると。
「ちょっと待てよ」
彼は不意に肩を掴まれる感触に、振り向いた。
「挨拶も無しに、寝床を決めるなんて、いい根性してるじゃないか」
「……空いてるじゃないか」
彼は思ったことを口にした。そこには、他のベッドと違い、きちんと畳まれたままになっている場所があったのだ。
だがそれを認識しながら、自分がこんな声をしていたのか、と彼は改めて驚いた。思った以上に、自分の声は低いのだ。
「おーい皆、新入りは、口が達者なようだ」
筋肉質の太い指が、肩にめり込むのを彼は感じた。自分の身体を無理矢理振り向かせようとしている。
とっさに彼はその手を掴んでいた。
「何を」
思うより先に、身体が動いていた。
ざわ、と周囲の空気の密度がずれる。
足元に、振動が響いた。
「や――― りやがったな!?」
彼は思わず目を見開く。自分の腕の行き場所を見る。
驚いているのは、彼の方だった。勢い良く相手が襲いかかって来ようとするから、彼は避けようとしたのだ。無意識に。
ただ、その「避け方」が、彼自身の「知識」にあったものとは異なっていただけなのだ。
掴んだ腕はそのまま、重力に逆らわずに、相手の力を向こう側に動かしていた。すると相手は、そのまま宙に浮かんだ。そして次の瞬間、床に身体を叩きつけていたのだ。
「アイキドーという奴か」
何処からかつぶやく声が聞こえる。小さいのに、ひどくそれはくっきりと輪郭を持って、彼の耳に飛び込んだ。
突発的なことに、彼は自分の呼吸が乱れているのを感じた。倒れた相手は、背中を強く打ったらしく、せき込みながら、それでも再び起きあがった。
「やってくれるじゃないか」
そんなこと言われても。彼は当惑する。自分の身体が勝手に動いてしまったのだ。どうしたらいいというのだろう。ちら、と周囲を見る。面白がっているな、と彼は即座にその空気感を識別する。
彼の「知識」は、これが一つの通過儀礼の様なものだ、と告げていた。嫌になるほど頭の一部分が冷静だった。いや、怒る理由が今の自分には見当たらないのだ。
おそらく自分がどんな人間であったのか、を相手は身体で確かめようとしている。それはある意味こういう場においては当然だろう、と「知識」が判断する。
自分自身が、自分のことがさっぱり判らない以上、これは仕方のないことだ、と「知識」は説明を繰り返す。
だがそれはそれとして、彼の無意識と身体は、次々に繰り出される攻撃をかわし続けていた。
ひゅう、と口笛がまた何処からか聞こえた。だが今度はそれに気を取られている余裕はなかった。自分より頭一つ大きい相手の、強い拳の突きを一呼吸前に察知して、素早く彼は切り抜けていた。
「へえ」
また何処からか、感心と馬鹿にするのと半々であるかの様な声が飛ぶ。何って響くんだろう。
避けるべきところは避け、相手の力の入り具合を見計らっていた――― 筈だった。
すっ、と足元が抜ける感覚が彼を襲った。
ち、と彼は舌打ちをする。誰かが、彼の足をすくったのだ。バランスを崩して、床に手をつく。ほこりや砂の混ざった床の表面はざらりと、ひきずる彼の手のひらを強く擦り、皮膚を引っ掻いた。
その途端、相手は彼の襟首を掴み上げた。何てえ力だ、と彼は足先が浮くのを感じる。そしてそのまま床に叩きつけられた。
とっさに体勢を変えようと思ったが、間に合わず、左の二の腕を下にしてしまったことに気付く。
やばい、と彼は思った。肩が抜けたのだ。ぶらん、と自分の腕が、きりきり走る神経的な痛みとともに動かなくなっているのに気付く。お、という声が周囲の中で一つ耳に飛び込む。だがその声の主は、誰かに制止された。彼はそう感じた。
こうなっては長くはこんなことしていられない。彼はぶらん、と左だけでなく、両方の腕をぶらさげ、相手をにらみ返した。
相手は逆上した。それは彼がにらみつけたからではない。
彼が、笑いかけたからだった。
この野郎、と相手はまるで戦意喪失したような彼の方へと殴りかかってきた。
来た。
彼はぶらりとさせた右の腕をすかさず伸ばした。
その腕をすかさず引き寄せ、そのまま彼は身体をひねった。周囲はあ、と息を呑んだ。
一瞬だった。
彼はそのまま、相手の身体を、床に強く押し付けていた。