拍はすぐさま霊視を再開して、閻魔庁全体を俯瞰した。メイリーの魂を追えないということは、それを隠している結界のような何かがあるはずだ。結界の存在を感じさせないとしても、どこかに違和感が生まれるだろう。拍は魂の緒と建物を照らし合わせて、その異状を見つける事が出来た。
「狛!聞こえるか!そのまま二階に上がれ!詳しい場所はこちらが案内する!」
「え!?…うん、解った!」
心を決めた狛は一気に階段を駆け上がり、拍のナビに沿って廊下を走った。この間に一際大きな揺れが襲ってきて、転びそうになってしまった。厄介なことに更に上の階では窓ガラスが割れたり、床が抜け落ちたりし始めている。これはもう、冗談抜きで倒壊まで時間がなさそうだ。
少し速度を落として慎重になりつつ、出来る限り急いで走った先の廊下で、拍のナビは目的地を示した。狛が言われた場所を見ると、確かにそれまで規則的に並んでいた廊下の壁に一箇所だけ何もない部分がある。どう見ても、もう一部屋ここにあって、そこに入る為の扉がここに無ければおかしい。そんな雰囲気だった。
「ここなの…?言われてみれば解りやすいけど…」
狛がその壁に近づいてみると、どういうわけか、それまでおかしいと思っていた箇所が解らなくなった。今の今まではっきりとおかしいと思えたはずの壁に、何の違和感も感じられない。一体何がおかしいと思ったのか、それすらも解らないのだ。
「狛…どうした?そこが恐らく結界のある部屋だぞ」
「え?あ、あれ?だって、ただの壁しか…あれ?」
拍のアシストが無ければ素通りしていただろう。認識を阻害されているような、不思議な感覚だ。
「なにこれ?どうなって…って、わわっ!」
またも大きな揺れが襲い、あちこちの壁にひびが入り始めた。廊下の窓から外を見てみると、地面にまで亀裂が生じ、あろうことか裂け目まで見えているではないか。崩壊は加速度的に早まっている、もはや猶予はほぼ無い。
狛は急いで壁を手で探ると、何かが手に当たる感触があった。恐る恐る調べてみたが、恐らくこれはドアノブだ。しかし、厄介なのは実際にそれに手を触れているのに、気を抜くと
世の中に幻覚系の術はごまんとあるが、ここまで精神と五感を騙すほど効力を持った術は初めてだ。狛は壁を見ていると意識を持っていかれてしまうので、目を瞑って、手の中のドアノブに全神経を集中させ、ドアを開けた。
建物が歪んでいるので、開くのに少し力が必要だったが、軋む音を立ててドアはゆっくりと開く。ドアを開ききり部屋の中に入って目を開けると、そこには青い肌をした男が、サッカーボールより少し小さい位の光る玉のようなものを抱えて宙に浮いていた。
「この人、最初の部屋にいた…閻魔大王、いや、ヤマ様?」
「狛、結界の影響でその部屋の中は霊視出来ないようだ。何があった?」
「えっと、部屋の中に、眠ってる男の人がいたわ。私が無間地獄に落とされた時に会った人…たぶん、この人がヤマ様なんだと思う。それと、光る玉みたいなのを抱えてる」
神楽鈴に向けて、狛が状況を説明する。すぐ傍で話しているのだが、ヤマ様と思しき人物が目を覚ます素振りは見えない。室内に入っても相変わらず揺れは続いているが、地鳴りのような音だけは遠くなったような気がした。
「眠っている?閻魔大王がか?とすると、やはり…」
拍の言葉の意味が解らず、狛は訝しむように声を上げた。
「やはりって何?どういうこと?」
「狛、よく聞け。メイリーの魂を隠したのは外柴じゃない。そこにいる閻魔大王だ。その抱いている光の玉とやらが彼女の魂だろう。おそらく、閻魔大王はメイリーの魂を悪用されないように、自分ごとその部屋に封じたのだ。お前をもう一度無限地獄へ落とすのを避けるためにもな…」
「そんな…」
狛は胸に手を当て、言葉を詰まらせた。確かにあの時、狛を見る閻魔大王の目は悲しみに溢れていたように思える。
地獄という場所は過酷な罪を償う場所だが、非常に厳格に罪と罰を重んじる場所でもある。その量刑に見合う罪を犯していない者を、地獄に落としたりはしない。それは厳しい罰を与える者が、自分の正当性を守る鎧であり、プライドでもあるのだ。それをいい加減にしてしまえば、彼らはただの加害者に落ちてしまう。それは獄卒として、何よりも堪え難い屈辱なのだろう。
閻魔大王はそれを曲げさせられたことを悔いて、自身を封じたのだ。伝え聞くヤマ様は本来、心優しい存在であるようだし、その悔しさを思うと狛も心が苦しくなるようだった。
「ヤマ様を起こせばいいんだね?やってみる」
狛は意を決して、宙に浮いて眠っている閻魔大王に近づこうとした。しかし、一歩足を踏み出そうとしても足が動かない。それどころか、身体が思うように動かなくなっている。部屋の扉を探した時のように自分の身体をどう動かせばいいのか解らなくなっているのだ。
「狛、どうした?急げ!」
「お、お兄ちゃん…?変だよ、身体がうまく動かない。ヤマ様に近づくことも出来ない、なんて…」
「な、なんだと!?」
拍は焦り、絶句した。先程の狛の様子からして、閻魔大王の張っている結界もしくは封印は、近づく者の五感に作用し、認識を阻害する効果があるようだ。外柴が鬼を操って来ても易々と突破されないようにするためだろう。
ただ、狛は生身の肉体を持っている。そのためにより強く効果が出ている可能性があった。
「マズいぞ…このままだと狛は意識まで失うかもしれん。そうなったら地獄の崩壊に巻き込まれてしまう。なんとかしなくては…」
拍のその言葉は口寄せの神楽鈴を通して、狛にも聞こえていた。拍の言う通り、狛は自分の身体をうまく動かせないだけではなく、段々と身体の感覚が消失していくのも感じ取れている。すでに右足は膝から下の感覚がない、そこに違和感すらなくなっているのだ。
(このままじゃ、お兄ちゃんの気にしてる通りになっちゃう…!でも、どうしたらいいの!?)
迷う狛の胸元で、わずかに熱を感じる物がある。それは体温よりも少しだけ温かく、その熱のおかげで胴体の感覚が消えるのを防いでくれているようだった。だが、そんな熱を発するものなど、狛には覚えがない。狛が辛うじて感覚が残った右手で触れてみると、それはあの時拾い上げた閻魔帳であった。
「これって…」
思った通り、閻魔帳から発せられる熱は、狛の身体にはっきりとした感覚を取り戻させてくれている。現に、閻魔帳に触れた右手は、失調など何もなかったかのように、指先から肩に至るまで、しっかり認識できるようになっていた。
狛は
「お願い…!」
振り絞った力が、急激に閻魔帳に吸い込まれていく。すると、閻魔帳はぼんやりと温かな光を放ち始め、光は熱を呼んで、狛に自由を取り戻してくれるかに思えた。
『止めろ!私に近づくな!』
「えっ…?!」
身体の自由が戻り始めた時、不意に近くで、誰かの叫ぶ声が聞こえた。どうやら、今の声は閻魔大王のものだったらしい。彼は眠ったまま、狛の精神に語り掛けているのだ。
『私は地獄の管理者…死者の王として取り返しのつかない事をしてしまった…閻魔帳を奪われ、言いなりにされていたとはいえ、罪なきものを地獄に落とすなど、許される事ではない。私はもう二度と間違う訳にはいかない。誰も私に近づくな!この人間の魂だけでも、守り通してみせる…絶対に!』
狛の想像通り、閻魔大王は強い責任を感じていたらしい。閻魔帳を外柴に奪われたことで逆らえなくなった彼は、自分諸共封印するようにして、メイリーの魂を守っている。ただ、封印のせいなのか、近づいてくるものの判別ができないのだろう。狛が助けに来たことなど解るはずもなく、あくまで外柴とその手の者からメイリーを守っているのだ。
「違うんです!もう外柴さんはいないんです!ヤマ様!どうか話を聞いてください、このままじゃメイリーちゃんだけじゃなく、地獄そのものが…!」
狛の悲痛な叫びも、自らを封じている閻魔大王には通じない。そうこうしている間に、今までで最も大きな揺れが起きて、閻魔庁は大きく崩れ始めたようだ。頭上から激しい音がして、天井が崩れ落ちてくる。
「も、もうダメッ…!!」
狛が咄嗟に目を瞑った瞬間、今度は閻魔帳が強烈な光を発した。そして、光りの中から、先程別れたはずの少年の姿が浮かび上がる。少年は成長してやや大人になっており、彼が優しく狛に微笑むと、ピタリと地震が止み、崩れてきた天井の瓦礫も逆再生しているように元に戻っていった。
「い、イマ君…?」
「…お姉ちゃん、ありがとう。助けにきたんだ、お姉ちゃんと、
その姿は、眠り続ける閻魔大王にそっくりな姿であった。彼の本当の名は聖王・イマ。ゾロアスター教の聖典アヴェスターに記されし、人類を導く者…そして、古代インドの神話において、死者の王ヤマと同一視される神格の存在である。
「もう一人の僕って…?」
「ヤマ…閻魔大王は僕そのものでもあるんだよ。閻魔帳を奪われた閻魔大王は、その力を悪用される事を恐れて、力の大半を僕に分離させて地獄へ避難させた。迂闊だったのは、急に力を分離させたせいで、人格までうまく機能させられなかったこと…でも、そのおかげでお姉ちゃんに助けて貰えたんだけどね」
少しはにかむように笑う姿は可愛げがあるものの、既にイマは狛と同年代か少し年上に見えるほど成長しているので、お姉ちゃんと言われるとなんだか妙な感じがする。
狛がむずがゆい思いをしていると、イマは閻魔大王に向かって左手を掲げた。
「ここから先は僕の仕事だ。あの外柴と言う男の魂は消滅していない。彼はこれから未来永劫に渡って、輪廻の最底辺を繰り返すことになる。例え力を蓄えた所でどうにもならず、地獄にも行けない。それが彼への罰になる。もう心配要らないよ、お姉ちゃん。さぁ…友達の魂を連れて、現世に帰るんだ」
「…イマ君、ありがとう!短い間だったけど、イマ君に会えて良かった。お別れが言えなかったのが心残りだったから…もう一度会えて嬉しかったよ」
「僕もだよ。分けて貰った水の味、忘れないから。それじゃあ、元気でね」
イマがそう言うと、眠る閻魔大王の手からメイリーの魂は解き放たれて、今度は狛の手の中に収まった。同時に、狛が忍ばせていた霊石が砕け、現世への帰還術が起動する。
こうして、狛は地獄行を終えて、現世へ帰還する事ができた。その旅路は神子祭に伝わるヤマと巫女の活躍を描いた絵巻神楽に、新たな逸話が増えた夜であった。