第110話 幕間 レディとエリス

 狛の地獄行から、二週間ほどが経った。


 長かった神子祭が終わって、いよいよ年の瀬が近づいてくる時期になる。世間的にはその前にクリスマスの時期なのだが、神を信仰していないにとっては、あまり意味のないイベントらしい。


「フー…It's cold today.(今日は、寒いわね)」


 レディは一人で住んでいるマンションの一室に置かれている、ベッドの上で呟いて身体を震わせた。いつもの手製の薬タバコは、気分を落ち着かせてくれるものの、さすがに寒さまでは解消してくれない。

 寒々しい2LDKの室内には、驚くほど物がなかった。あるのはベッドに、小さなテーブルとソファ。それと姿見が一つだけだ。物が少ない上に暖房器具すら置いていないので、寒いのは当然だろう。そろそろ裸で寝るのは限界かもしれない。


 今年は暖冬と言う事もあって、今日まではそれほど生活に支障はなかったが、さすがにクリスマス近くにまでなってくると、それなりに朝晩は冷え込むようだ。レディはカーテンの隙間から見える窓の外を確認してから、冬を越す為の準備をするべきか、頭を悩ませていた。


 そもそもこれほど長い間、この国に滞在するつもりはなかったというのが正直なところである。仕事によっては世界中を転々とする生活である為に、レディは元々驚くほど物を持たない主義だ。仕事で使う道具…銃や小型のナイフなどは別として、衣服は着たきりだし、特にこれと言って趣味もない。そんな彼女だからこそ、今の状況に困惑しているのだった。


 大体、レディは今のボスから、この国で蜂起するという名目で雇われた身である。敵対する相手は、大きな組織であり、場合によってはこの国の権力そのもの…それが何故こんなにのんびりとした生活が出来ているのか、首を傾げても傾げ足りず、そろそろ一回転しそうな有り様だ。

 もっとも、合間に命じられる仕事は割のいいものばかりだし、やりがいもあるので、大きな不満があるわけでもない。なにより、狛のような人間と出会えたのは、今までの人生に無かった収穫と言ってもいいだろう。


「狛、か…」


 その名を呟いて、狛の懐っこい笑顔を思い浮かべる。初めて命を狙った時は、さっさと殺してしまえばいいと思っていた。しかし、組織から手出しを厳禁とされ、挙句の果てには本人から友達になろうと言われるなど、いつ誰が想像出来たというのだろうか。初めて出来た生きた人間の友達付き合いは、思いもよらないことばかりで楽しくもあるが、一方では酷く冷めた目で見ている自分もいた。


 今回、狛がメイリーの魂を救けに地獄へ向かうと言った時には心の底から理解が出来なかった。死体を操れる能力は、決してありふれたものではないが、別に死んだ所で友情が消えるわけでもない。思い出なら写真などのデータに取っておけばいいのだし、なんなら自分が死体を預かって、会いたい時に会わせる事だって出来るのだ。

 だが、彼女達はそれではよしとしなかった。狛に至っては生きたままあの世、よりによって地獄へ乗り込んで行ったのである。どうしてそこまでの労力を払う事ができるのか、メイリーは呆れた。


 起き抜けの薬タバコを一服したので、頭を少し乱暴に掻いてからベッドを抜け出す。素肌に冷たい空気が刺さるようで、やはり辛い。この国の暖房器具はエリスに手配してもらうことにして、冬物の着替えとパジャマでも買いに行こうと決めて、レディは着替え始めた。


 街を歩きながら裾を翻している一張羅のコートは、ちょうどクリーニングから戻ってきたばかりである。先週言いつけられたのは、小さな犯罪集団のアジト壊滅だった。そこには最近流行りの闇バイトで強盗をさせる組織の指示役が集まっていて、どうやらこの国のマフィア…暴力団という連中の一部だったらしい。襲撃の際には銃の一つも持っておらず、死体をけしかけて制圧するのは容易かったが、持って帰ろうと思うような人間もいなかった。

 殺しが出来るのだから贅沢は言わないが、今回ばかりはもう少しやりがいのある相手が良かったと、エリスに不満をぶちまけてしまった。


 エリスは少し困った顔をして、ボスに相談しますと言っていたが、レディにはそれが難しいワガママだと自分でも解っている。この国は、自分にとって平和過ぎるのだ。


 だからこそ、狛達のように友達関係に命を懸けるような真似ができるのかもしれない。レディが今まで見聞きして、実際に暮してきた世界は人の命など二の次三の次で、下手を打てば自分の命が危ぶまれるような、危険なものばかりだったからだ。


 理解が出来ないと感じつつ、帰ってきた狛は、まるで別人のように強く鍛え上げられていた。なんとかというこの国の神に近い存在に出会い、己の力に対する理解を深めたとか、生きたまま地獄へ行き戻ってきたことで魂そのものが鍛えられたらしい。死地や危険に飛び込んで己を鍛える事は自分もやってきたことなので、そこは理解できるのだが、狛とは力の差が広まっていく一方な事が気に入らない。

 狛はレディにとって友人であり、いつか自分の手で殺してみたいライバルでもある。こんな温い世界に放置されているよりも、元々の危険な世界に戻りたい。早く戻って、もっと力をつけたい、そんな思いもあるようだった。


 一通り店を覗いて、何着かの着替えとパジャマを買い揃えた所で、エリスから連絡が入った。暖房器具の手配が済んだにしてはやけに早い。まぁ、早い分には凍えなくてすむので、気にせず待ち合わせ場所に向かった。


 倉庫街のような場所には似つかわしくない、いつもの黒い高級車の隣に、エリスは立っていた。近くまではタクシーを使い、後は歩いて車に近寄る。エリスは遠目からでもレディに気付いていたようで、じっとこちらを見ながら静かに佇んでいた。


「Hello.ずいぶん早いじゃない、良い物があったのかしら?」


「こんにちは、レディ様。暖房器具の事なら、今頃部屋に搬入されているはずです。使い方は、スマホに。ただ、今日来て頂いたのは別件ですので」


「ベッケン?」


 レディは一通り日本語を勉強してきたが、まだ少し発音が怪しい所がある。つい英語が出てしまう癖も直さなければならないが、イントネーションを正すにはまだまだ時間がかかりそうだった。

 レディは訝しみながら、薬タバコに火を点ける。この辺りには人目がないので、気にせず吸えるのはいいことだ。もっとも、制服を着ていなければ、レディは大人の女性にしか見えないので、私服で吸っても咎められた事はないのだが。


 エリスはそっと手にしていた鞄から小さな箱を取り出して、レディの前に差し出した。ライターやタバコのような大きさではない。葉巻くらいのサイズがある。レディはそれが何なのか解らないので、受け取ることはせずに様子を見ることにした。


「何なの?ソレ。市販のタバコや葉巻ならいらないわよ。自分のコレじゃないとね」


「そういう類の物ではありませんが、これは組織からの支給品だと思ってください。中身は、悪い物ではありません」


 組織からのと言う事は、受け取る事は命令に近い代物だろう。今更裏切られるとも思っていないが、出され方がかなり怪しい。少し考えてから、レディは観念して、その箱を受け取った。


「開けてみても?」


「どうぞ。ただ、中身を保管する場合は出来るだけその箱に戻して下さい。念の為に」


 妙な物言いだが、箱はかなり軽く、危険物には思えない。レディがそっと箱を開けてみると、中に入っていたのは奇妙な匂いのする黒い枝であった。だが、それを目の当たりにした途端、首の後ろ辺りがチリチリとしてくる。これは明らかに霊的なアイテムである。


「…ナニコレ?」


黒死檀こくしたんという霊木の枝です。数か月の間、霊水に浸し、祈りと儀式によって磨き上げられています」


「ハァ?」


 物が何なのかは解ったが、どういう用途に使うものなのかが不明だ。詳しい説明を求めて、レディは少し苛立ちながら口を開く。


「just a minute…ちゃんと説明してくれる?これはナニに使うものなわけ?」


「すみません、どこから説明すべきか迷っていたもので…そうですね、有り体に言えば、それはパワーアップアイテムのようなものです。霊力のドーピング…などという簡単なものではなく。一度使えば永続的に、使用者の霊力を大幅に高めて眠っている力を呼び覚ます。そんな効果があります」


「What is it?なんでそんなものを…どういうことなの?」


「今現在、我々は蜂起の為に準備をしている真っ最中なわけですが、最近、少々予想外の出来事が多く起こりまして…はっきり言って、予定していたよりも戦力が不足する可能性が出てきたのです。目下、仲間となる人員の補充を急いでいますが、まだ少し時間が必要です。そこで、ボスは既存の仲間を強くすることも視野に入れ始めました」


 何があったのかは説明する気がないようだが、とにかく事態はあまりよろしくない状況らしい。まさか拾い上げただけの、雇われの自分にまで強化をさせようとは、レディは目を丸くして驚いている。


「仲間って…私は仕事が終われば別の国に行くわよ?そんなものを渡してもいいの?」


「構いませんよ、それよりも蜂起の成功が重要ですから。まぁ、出来ればこの国に留まって頂いて、末永く力を貸して頂けると助かりますが…」


 エリスは目を細めて、レディに底冷えのする笑顔を向けた。レディは背筋に冷たい物を感じたが、今はまだ仲間である。無駄に脅威を感じる必要はないと心を落ち着かせた。それになによりも、願ってもないパワーアップの機会だ。差がつく一方の狛に少しでも追い付けるなら、その手に乗るのも悪くはない。


「OK…頂いておくわ。これ、どうやって使えばいいの?」


「ああ、身体のどこかに刺すだけで機能しますが…出来れば蜂起の直前まで使用はお控えください。…色々と、目をつけられると厄介ですので」


 そう言って、エリスは深く頭を下げてみせた。レディはそれを見てから、タバコの煙を空に向かって吹き、その時を待つ事を決めたようだ。


 いつの間にかどんよりと曇った灰色の雲に、鮮やかな紫煙が重なって、ゆっくりと溶けていくように見えた。