第106話 縁を結んで

 狛の頭の中は、天空に見える宇宙に身を投げているような、不思議な感覚で一杯だった。


 大日如来とは、真言密教における最高仏格であり、全ての仏の源である。さらに神仏習合の観点で言えば、神道の最高神、天照大神と同一視される存在でもあった。

 狛達退魔士や、陰陽師などが使う呪文の中には『真言』と呼ばれるものがある。狛の兄、拍が霊力を高める為に行う印相と同様に、それを象徴する仏や神の力を借りる為の言葉だが、祈る相手は様々だ。例えばハル爺などは不動明王の真言をよく使うし、以前、カメリア国王救出の際に狛が使用した給霊符には、薬師如来と地蔵菩薩の真言が書き込まれている。


 そして、奇妙な事に狛はよく大日如来ヴィローシャナへの真言を使う事が多かった。大寅が稲荷の神使を務めているようなものであるが、簡単に言ってしまえば大日如来ヴィローシャナは狛にとって加護を受ける守護神のようなものであり、最高位の上司にあたる存在なのだ。とても不敬など出来るはずがない。


「だ、大日如来様、いえ、マハヴィローシャナ様…私には過分なお言葉を頂き、あ、ありがとうございます。ですが、その、私にはこうしている時間も猶予もありません。大変恐縮ではございますが…」


 そこまで言って、狛は言葉に詰まってしまった。帰らせて欲しいといっていいのだろうか?正直に言えば、とっととこの場から逃げ出したいというのが本音だ。そんな狛の心を見透かしているように、大日如来はクスりと笑ってみせた。


「そんなに畏れなくともよいのです。私は貴女という人間を。貴女はとても素晴らしい人間です。故に、一言だけ伝えておきたかったのです」


「え…?」


 大日如来…サンスクリット語でマハヴィローシャナと呼ばれる仏は、宇宙の全てを生み出す慈母であり、知恵の光で宇宙を隅々まで照らし、善良なるものを育むとされる。また、過去・現在・未来を見通す存在でもあるので、というのは即ち、狛の人生全てを見通したという意味に他ならない。


「…貴女はこれから、多くの苦難に立ち向かわなければならないでしょう。艱難辛苦の道を進む事もあります、しかし、それらを乗り越えた時、きっと素晴らしい未来が待っています。励みなさい、負けてはなりませんよ。貴女の周りには、多くの頼れる仲間がいます、大事にしなさい」


「…っ!は、はい!」


 そんな大日如来ヴィローシャナの言葉は、予言と同様だ。これからも狛は多くの苦難に身を晒す事になるのだろう。もちろん、未来は決まっていないので、そうならない事もあるし、もしくは狛が力尽きて敗北してしまう可能性もある。そうならないようにと励ましてくれているらしい。


「私は仏として、貴女に直接力を貸す事は出来ません。貴女の人生は貴女のもの…私が必要以上に介入することは許されませんからね。ですが、イマを救ってくれた礼だけはしておきましょうか」


 大日如来ヴィローシャナがそう言うと、狛の身体がパァっと輝き、極端に軽くなった気がした。空腹も渇きもなく、十分に休息を摂って目覚めた朝のような、全てが充実した完璧な体調だ。身体の奥底から、気力と霊力が漲ってくるのがはっきりと解る。無間地獄であれだけ走り回ったことなど、まるで感じさせないものだった。


「わっ…!?す、凄い!」


 特別パワーアップしたというわけではないはずだが、それでもその力は、いつもよりも遥かに洗練されたもののように感じられる。より自分の身体と力の使い方が理解できた、そう表現するのが適切だろう。


「さぁ、閻魔庁まで送ってあげましょう。気を付けてお行きなさい。貴女の友人が、助けを待っています。くれぐれも、油断しないように…」


「はいっ!ありがとうございました!」


 立ち上がって深々と礼をすると、もう次の瞬間には、狛は閻魔庁の中にいた。目の前には、地獄の法廷に繋がる扉がある。


「…よしっ!待っててね、メイリーちゃん!」


 ここから先はいつも通りだ、自分の力でメイリーを救い出す。もはや何の憂いも不足もない状態にある狛は、力強く一歩を踏み出し、大きな扉を開いていった。



「き、貴様、どうやって…?あの緑鬼を倒しただけでなく、自力で無間地獄から抜け出してきたというのか!?そんな、バカなことが…」


 驚く男の顔に、狛は見覚えがあった。それは緑鬼を倒した後、夢の中でみたイツの記憶…その中で高祖父である宗吾達が戦っていた、外柴と言う男だったからだ。


「外柴さん…だよね?メイリーちゃんを返してもらいます!」


「俺の名まで知っているだと…?貴様、何者だ!」


 外柴は、狛がイツの記憶を見ていた事など知る由もない。猫田やその隣にいた拍ならばともかく、狛と直接話すことはおろか、顔を合わせるのすら初めてなのだ。彼は狛が緑鬼を倒した事も懐疑的であった為、別人が狛になり代わっているのではないかと考えた。


「私は犬神…犬神狛!貴女と戦った、犬神宗吾の子孫です!」


(こ、この娘、偽物ではないのか?しかし、この霊力はあの犬神宗吾と瓜二つだ…まさか)


 霊気や霊力と呼ばれる力は、人それぞれに違うものだ。しかし、血縁や魂の影響を受ければ、それが似通うこともある。姿形以上に、なり代わる事は難しい。外柴が体感しているように、狛と宗吾は顔つきだけでなく、その力もそっくりなようだった。


「ふ、ふふふ…!まぁ、いい。どうやって無間地獄から戻ってきたのか知らんが、ここに来た以上、再びあの地獄へ送り返してやるまでよ!だが、その前に…!」


 外柴はその顔を醜悪に歪め、狛の全身を舐め回すように見つめた。死者である彼に肉体は無いが、式神を応用して疑似的な身体を作り出しているらしい。そこには、獣欲も確かに存在しているようだった。


「久々の女…しかも、あの犬神宗吾の子孫であれば、殺す前にたっぷりといたぶってやらねばならん。そうだ、ただ無間地獄だけでは生温い。貴様の全身、いや、魂すらも犯し抜き、凌辱した上で殺し地獄の底に落としてやる!ククク、フハハハハハ!」


 身の毛もよだつとは、この事だろう。生まれながらにして外道の素質を持っている外柴には、それが憎い宗吾の子孫であっても関係ないようだ。狛から女としての尊厳を奪う手段を心得ている。だが、今の狛はそんな脅しに屈することなど無い。外柴の気色悪い目論見など気にも留めず、強い意思と力でその視線を跳ね除けている。


「一丁前に睨み返してくるか…ククク、楽しみだな。その顔が絶望でどう歪むか、想像するだけで果ててしまいそうだ!」


 笑う外柴の身体の一部が、仮初であるにも関わらず怒張しているのがハッキリと解った。どことは敢えて言わないが、狛はそんな挑発に乗るつもりはない。ただ黙ってイツを呼び出し、狗神走狗の術を使う。人狼化した狛の姿に、浅ましい笑みを浮かべていた外柴は、眉根を寄せてしかめっ面で睨みつけている。


「その術、その姿…やはり犬神宗吾の子孫よな。…だが!」


 外柴がパチンと指を鳴らすと、広い法廷内を埋め尽くすほどの、夥しいおびただ数の鬼達が現れた。既に意識を乗っ取られ、操られているのだろう。筋骨隆々とした鬼達が、まるで生気のない顔と白目を剥いて立ち尽くしている。狛が夢の中で見た光景にそっくりな状況である。


「ハッハッハッハ!見ろ!この精悍な鬼どもの軍列を!俺の力は、地獄に落ちてなお健在、かつ強力なものになったのだ!この閻魔帳によってな!」


 増長する外柴の右手には、おどろおどろしい装飾が施された一冊のノートがあった。ノートというには少し分厚いが、本にしてはやや薄い。大きさはA4サイズくらいだろうか?狛が学園でよく使っているノートと変わらないように見える。だが、それが普通のノートでないことは遠目に見ただけで解る代物であった。


 閻魔帳とは、その名の通り閻魔大王が裁判にかけた人間の生前に行った行為や罪などを記しておくという帳面である。それ自体が強力な力を持っているようで、どうやら外柴は、閻魔大王からそれを奪い、自分の力にしているようだった。


「あれは…!?」


「ククク、さぁ小娘、覚悟するがいい。我が術と閻魔帳の力で強化された鬼共は、ただの悪鬼ではないぞ!」


 勝ち誇る外柴の言葉が響き、同時に鬼達が怒号を上げる。地獄の法廷は、遂に決戦の場へと姿を変えていくのであった。